第一話 『理想の体現者』
──人は誰しも、完璧を求める。
完璧な人間ほど周囲に好かれ、憧れられ、期待される。
初めはそれが嬉しくて、周囲からの期待に応えようと必死に努力する。
自由を減らし、睡眠を削り、求められる自分の理想像を研究して、完璧を形作る。
だが、そんな努力で生まれた完璧は、いずれ崩壊する。
他と同等の行いでも一定以上の成果を出し、賞賛を得られる生まれながらにしての天才と、血の滲む努力を重ねた努力家とでは立っている土俵が天と地ほど異なる。
では、命をすり減らした努力の先に待つものは何か。
それは、莫大なストレスと自己嫌悪の海。
息もできないほどに深く、渦潮だらけの海に、溺れる。
父親は大企業の社長、母親は敏腕弁護士の娘。
名門高校の女子高校生──三芳芽亜は、まさしく溺れた一人だった。
◾️◾️◾️
さいたま私立瑛陵高校。
開校五十年の歴史を誇る、偏差値七十を超える有数の名門高校だ。
そこに心身を削って入学した者もいれば、日々の勉強から安泰で入学した者もいる。
しかし悲しいかな、私は前者だ。
「……はぁ」
四月十三日、月曜日。
眼前に建つ通い慣れた高校を見て最初に出たのは、疲弊しきった人間がする深いため息だった。
何度通っても、瑛陵高校に慣れることができなかった。
期待されて、合格された後に両親や友人の想いに応えたい一心で時間を削り続けた。
持てる限りの全てを尽くして、倍率四倍を超える難関高校への入学に挑戦した。
無事に合格して、祝福されて。
後は退学にならないよう今まで通り勉強を続けるだけ。
その、はずだった。
「────」
成績は維持して留年することなく現在の三年まで進級してこれた。
けれど、三年に至るまでの日々があまりにも地獄だった。
かけられた期待は、入学の時点で途絶えると思っていた。心の奥底では期待が重圧になりつつあり、受験中は次第にかけられる期待への終わりを求めつつあった。
だから瑛陵高校に合格した瞬間、涙を流して喜んだ。
しかし、期待は青透高校に合格した後もかけられ続けた。
より大きな願望を両親に求められ、新たに瑛陵高校の生徒や教師から期待の眼差しを向けられた。
主席で入学し学年代表として演説した時点で、とうに手遅れだったのだ。
頭脳明晰、スポーツ万能。それでいて目立つ存在となれば事実とは異なる事象を他者に想像される。
名門高校の主席であるが故に、その想像も飛躍したものばかりだった。
お嬢様だとか、ボランティアへの積極的参加だとか、大会は連戦連勝だとか。
そんなわけないと言えればよかった。
ようやく意を決して言おうとした時には遅かった。
膨らみ切った期待と羨望の眼差し。
気がつけば私は自らを偽り、瑛陵高校の人間が求める『理想』を演じるようになっていた。
「おはよう三芳さん」
「おはようございます、霜月さん」
門を抜けて校舎に向かう道中、昨年のクラスメイトである霜月侑と挨拶を交わす。
その際も可憐に微笑み、会釈一つも礼儀正しさが伝わるように丁寧に頭を傾ける。
「綺麗だよな三芳」
聞き飽きた煩わしい言葉。
「悩みなんて一つもなさそう」
聞き飽きた私を知りもしないで言う鬱陶しい言葉。
「友達想いで素敵」
友人想いに行動したことなんて中学まで。
高校に入ってからは全て上辺だけだ。
ここはお嬢様学校じゃない。
偏差値が高いだけのいたって普通の高校だ。にもかかわらず、上品さを求められる。理解できない。
「…………」
教室に向かう道中も同じような私を褒める言葉を数人から聞いた。
しつこい。鬱陶しい。煩わしい。
何度も何度も何度も、同じ言葉を繰り返して。
うんざりだ。
ただ普通の女子高校生として過ごしたいだけなのに。
「おはよう三芳さん!」
「芽亜ちゃんおはよー」
「おはようございます三芳さん」
教室に入っても、校舎前や廊下にいた時と変わることはない。
進級すれば、幾分か変わるかと、心の片隅で期待していた自分はなんて愚かなのか。
進級程度で変わるはずがない。わかりきっていても、クラス替えという大きな変化を一縷の望みとして期待してしまった。
期待という言葉を最も嫌う私が。
だから余計に、気分の悪さが増した。
「あのさ三芳さん!」
私が席に座るなり、周囲には私の机を囲むように十人もクラスメイトが立っている。
内と外の意識を切り離して、くだらない会話を聞き流しながら適当に返す。
笑みを作り、仕草一つボロが出ないように、自らが思い描く理想の姿を演じる。
流石に二年以上も続けていれば、ストレスは溜まっても完璧を演じるのには嫌でも慣れる。
私が選んだ道だ。嫌でもやりきる以外に選択肢はない。
もし私の本心を知り、事情を知った人間がいたら必ずこう言うだろう。
「──馬鹿なの?」と。
そう、私は馬鹿だ。
周囲に流され、凡ゆる噂を否定できず、結局求められる『三芳芽亜』になる道を選んだ。
他の誰のせいでもない。今を生んだのは紛れなくこの私。
愚かな私が、悪いのだ。
◾️◾️◾️
「疲れた……」
自宅の玄関の扉を開けて最初に出るのはそんな言葉だった。
幸い両親の稼ぎが多いおかげで私は一人暮らしができている。これで両親と暮らしていたらとてもじゃないが身が持たない。
母は一流の弁護士だ。
数々の裁判で弁護を担当し、都度絶大な成果を残している。
数年前に東京都で起こった強盗殺人事件の裁判の時、証拠の出揃った不利な状況下で被告が冤罪を着せられた事実を掴み、死刑を免れないとされた被告を無罪にしてみせた。
紛れもなく母は才能を持って生まれた一人。
対して父は、右肩下がりの続いた会社を立て直し、一流企業へと押し上げた凄腕の営業マンだ。
父もまた、才能を持って生まれた一人だ。
「────」
親は互いに才能を持つ者同士。
才能を持つ者同士から生まれたなら、その子供も才能を持つかと聞かれれば私は否と答える。
事実、私には突出したモノが何もない。
幼少の頃から親に毎日、進学塾や凡ゆる習い事に通わされた。
漫画やゲーム、友人との遊びの経験が今日までほとんどなく、代わりに親に決められた塾や習い事に向かう日々。それは、物心ついた時からだった。
私と同じ環境で育てば、誰だってある程度多彩に育つ。
そんなものを才能とは呼ばない。
「────」
手を洗ってから二階へ上がり、自室に入って電気をつけた。
ベットとテレビ、木製の机と椅子、膨大な量の参考書の並んだ本棚。
見慣れた部屋に目を向けながら押し寄せる心身の倦怠感に嫌気がさした。
朝五時半に起きて、通学二時間半以上かけて高校へ向かい、そこから六時間授業。帰りも同じ時間電車に乗り帰宅。
家でゆっくりしたくても、そんな余裕は私には与えられない。
少しでも手を抜けば今の私が崩壊する。そうしないために休みの時間も理想を演じるために必要な努力を無駄に重ね続けている。
「ん」
テレビをつけて適当なチャンネルの番組を流す。ベットの上に荷物を放り、本棚から英語の参考書を手に取り椅子に腰掛けた。
使い古された参考書を開いて、また身の丈に合わない『自分』になるための努力を、始めた。
◾️◾️◾️
翌日四時間目、美術の授業で切り絵が始まり、担当教員から貸し出されたカッターナイフを手に私は黙々と紙を切り抜いていた。
初回は練習で課題を花と指定され、下書きをした上でその絵を丁寧に切り抜いていく。
周囲からは難しいといった声が聞こえ、横目に見れば多くのクラスメイトが苦戦していた。
私は中学生の時に切り絵を習ったことがあり、切り絵が得意な母親からも何度か教わっていたため難なく進められた。
そして──、
「三芳さん早いし上手!」
「うーわ、うますぎだろ」
「いいなぁ……」
開始から二十分。私は一番早くに作品を完成させた。
教卓に作品を提出すると、美術教員は即座に私の作品を黒板に貼り付けた。
クラスメイトから言われる賞賛の声を耳にし、その都度求められる理想の『三芳芽亜』で返答した。
負の感情は、理想を演じた分蓄積していく。
演じ始めて、三年。
──気持ち悪い。
「三芳さん?」
「──っ、あ、大橋さん」
負の感情を抑えるのに集中していたせいか、私は隣席の大橋日華からの問いかけを無視して無意識に机に置かれたカッターナイフの先端を見つめていた。
呼びかけられて意識を戻され、慌てて顔を取り繕って大橋の方を向いた。
「えっと、大丈夫?」
「ごめんなさい。話の途中にぼーっとしてしまって……少し疲れているみたいです」
「無理しないでね……」
無理しないで?
事情も知らずよくそんなことが簡単に言える。
無理をしなければならないよう理想を押し付けたのは、あなたたちだと言うのに。
「────」
膝の上に置いた拳を強く握り締め、怒りを抑え込む。
先の彼女の一言で怒りに支配されてようやく理解した。
──もう、限界だ。