第9話 もうひとつのかくし閭
今回から第3章「忍び寄る影」に入ります。
不老川で出会った女が邑咲屋を訪ねてきたとは露知らず、勇次は団子屋の店先で甚吾郎と話し込んでいた。
もうひとつの「かくし閭」は芸州にある——。甚吾郎から衝撃的な言葉を聞き、様々な疑問が次から次へと湧き上がる。考えがまとまらないながらも、震えが落ち着いたところで口を開いた。
「かくし閭って芸州にもあったんだ」
なにから突っ込んで良いものやら、まだ頭が混乱しているが、とりあえず甚吾郎に話を続けてもらう。
「かくし閭ってなぁ、日の本に3か所しかなくてな。ま、かくし閭っつうくれぇだから俺もこないだまで川越以外どこにあるのか知らなかったんだけどよ」
「甚さんでも知らなかったんだ」
「そらそうだ。遊神様でさえ知らねぇんだからな」
遊神として生まれ変わった彼女らは、二回りの周期で各かくし閭を転々としている。だが、次のかくし閭へ移動する際には場所の記憶を一新されるという。つまり、元居たかくし閭の場所を忘れたまま、次のかくし閭へとやってくるということだ。当然、住人である制外者も他のかくし閭の所在がわからないということになる。それは旧幕府や新政府に情報が漏れないようにするための予防線でもあった。
「とにかく、その三つのうちのふたつが朱座と芸州だったってわけだ」
「だった?」
「ああ。さっき言ったように革田の村の火事はかくし閭からの飛び火だ。つまり火元はかくし閭。芸州のかくし閭は燃えちまったのさ。それも跡形もなく」
「嘘だろ?」
勇次は息を呑んだ。
「この話を教えてくれた女衒とは付き合いが長ぇ。信用できる男だ」
「けど、かくし閭が燃えるって……、いってぇなにをどうしたら燃えちまうんだ?」
勇次の疑問はもっともだ。家畜以下の扱いを受けている吉原(新吉原)遊郭の遊女は逃亡を企て放火することがあり、遊郭全焼は珍しいことではなかった。しかし、かくし閭の遊女はさほど酷い扱いを受けているわけではなく、むしろ居場所がなくなってしまうことを恐れ、ほかの住人ともども火事には細心の注意を払っている。たとえ1月の川越大火のように近隣で大火災が起こったとしても、常に遊神が結界を張ることによって火の粉が降りかからないよう延焼は未然に防がれていた。
だが、芸州のかくし閭が焼失したということは、閭内で出火したということである。人が大勢住んでいる限り、火事の可能性が皆無とはいかない。が、ここで勇次はまたも疑念に突き当たった。
「なんでかくし閭の外に飛び火したんだ?」
万が一閭内で出火した場合、付近の集落に被害が及ばないよう遊神が結界を強化して防ぐことになっているというのに、だ。
「俺もそこが不思議でな。遊神が結界を張るのに失敗したとは思えねぇ。どう考えてもわざとだろ」
やはり甚吾郎も同じ疑問を抱いているようだ。
「遊神がわざと結界を閉じなかったってことか?」
勇次の問いに甚吾郎は微かな唸り声を上げた。よしんば遊神が故意に結界を閉じなかったとして、その理由が見当たらない。仮に故意でないとしたら不可抗力の可能性も考えられるのだが。
「ちなみに、戦に行ってた制外者たちはそのあとどうなったんだ?」
「ほかの革田村へ移されたらしい。だが、それを拒んだ奴らは……」
「まさか……」
ごくり……、勇次の息を呑む音が聴こえる。甚吾郎は静かに目を閉じ、憤り交じりの吐息を漏らした。
「皆殺しだったそうだ」
勇次はうなだれ唇を噛んだ。
「元幕府の差し金か……」
敗戦の懲罰だろうか。或いは藩の仕業か。藩は幕府に内緒でかくし閭を持っていたことが露見してはまずいのだ。だとしても、である。口止めのために制外者を一掃し、亡き者にまでするなどという非人道的所業が許されるはずがない。
「果たしてそうかな?」
「じゃあ、新政府が謀ったのか?」
「それも意味がわからねぇ。ただ、これだけは言える。朱座の俺たちも明日は我が身だってことだ」
甚吾郎の言葉に戦慄が走る。とともに、寄り合いでの彼の発言が脳裏をかすめた。
——かくし閭を奪われねぇとも言い切れねぇ。
あれはこういうことだったのかと合点がいく。はじめ、「住人の規制をする」という甚吾郎の提言を少々やり過ぎではないかと思っていた。だが、彼は自分たちとは別次元から朱座の未来を危惧していたのだ。
川越城下に鳴り響く時鳴鐘の音でふたりは我に返った。もう昼見世を開ける時刻だ。ふたりは残りの団子を頬張り、急いで各妓楼へと戻っていった。
朱色の暖簾の前で、お亮が鬼の形相で立ちはだかっている。勇次は青くなった。
「な、なんだよ。ちっとばかし遅れただけじゃねぇか」
「お、お亮、すまん。俺が団子食ってこうって誘ったせいなんだ。悪かった。許してやってくれ」
甚吾郎も慌てて手を合わせた。だが、お亮の怒りはそこではない。
「甚さんは黙ってておくれ」
甚吾郎には一瞥もくれずに弟を睨みつける。
「勇次、あの女はなんなんだい?」
「あの女?」
その瞬間、蒼褪めたのは勇次ではなく甚吾郎だった。
「勇次、まさかおめぇ、りんがいながらほかの女に手ぇ出し……」
「しねぇよ、そんなこと!」
つい声を荒げてしまった勇次は慌てて口元を袖で押さえた。遊女が並ぶ籬のほうをそっと垣間見る。ほかの者にりんとの本当の関係が知られたらまずい。甚吾郎の耳元に口を寄せ、袖口で隠しながら囁く。
「俺はりん一筋なんだ。浮気なんかするわけねぇだろ」
「ああ、もうごちゃごちゃごちゃごちゃ鬱陶しいね。甚さん、とっとと帰っとくれ。これはうちの問題なんだ。余計な口出しは無用だよ」
お亮は勇次の耳をぎううぅと引っ張って、路地から裏口へと引き摺っていった。
「痛てててててて! 痛ぇって、姉ちゃん! 耳千切れる! 甚さん、助けて!」
勇次は腕を伸ばし、咄嗟に甚吾郎の袂を掴んだ。
「やめろって、破けるだろ!」
だが勇次はその袂をしっかりと握り締め離さない。甚吾郎も芋づる式にずるずると連れていかれてしまった。
「あのな、俺も自分ちの見世番があるんだ。痴話喧嘩に巻き込まれてる暇なんかねぇんだよ」
「だから痴話喧嘩するような相手は俺にゃいねぇっての」
「四の五のぬかしてないでキリキリ歩きな、このトンチキ野郎!」
三者三様喚きながら裏口の戸を開ける。と、上がり框に腰かけるひとりの女が勇次の目に飛び込んだ。
「あれ? おめぇ、たしか不老川の……」
女は不老川で出会った母親だった。
「おまえ、この女にうちで雇ってやるって言ったそうじゃないか。どういうつもりか説明おし」
お亮が怒るのも無理はない。朱座では小見世以上の妓楼は原則、女衒から遊女を買うしきたりになっているからだ。これには惣名主家の甚吾郎も黙ってはいられない。
「たった今寄り合いで新座者の受け入れは慎重にって話し合ったばっかじゃねぇか。勇次、おめぇ、俺の顔に泥を塗る気か?」
「待ってくれ、甚さん。俺がこの女に声をかけたのは十日も前のことだ。今日決まったこととは関係ねぇだろ」
「十日前だろうが今日だろうが、中見世のおめぇらが決まりを破ったんじゃ示しがつかねぇんだよ。勝手なことすんじゃねぇ」
甚吾郎からも責められ、勇次は言葉に詰まった。これにはさすがにぐうの音も出ない。思わぬ修羅場を目の当たりにして女は所在なく立ち上がろうとした。
「なんか……わっち、歓迎されてないみたいだね。やっぱ帰るよ」
勇次が慌てて制する。
「待て待て。帰るって、小仙波村か?」
「……」
女は押し黙った。勇次が今一度訊く。
「昼は土いじりして、夜はまた夜鷹か?」
「畑は……もう、ない」
「ない、って?」
「隣の畑の男に渡した」
「渡したって、どういうことだ?」
勇次は眉を顰めた。お亮と甚吾郎も顔を見合わせ訝しむ。しばしの沈黙ののち、女は重い口を開いた。
「女手ひとつで畑を耕したところで年貢を納められるほど穫れるわけじゃない。それを隣の畑の亭主が肩代わりしてくれてたんだけど……」
隣の畑の持ち主である男には妻子があった。にもかかわらず、他所の女の世話をするということは、つまり——。
「ふうん、そういうことかい。つまり、あんたはその鬼畜野郎の慰み物にされてたってわけだ」
お亮は嫌悪感も顕わに腕を組んだ。幼い娘をかかえて必死に生きようとする女を食い物にする腐れ外道に吐き気がする。
「けど、娘がおっ死んじまって生きるよすがもなくなっちまったから、もう、全部どうでもよくなって不老川に身投げしようとしたんだ。そしたら、この人に止められて……」
女は勇次を指差した。勇次が顎をさする。
「ま、そういうことだ」
「話はまだ終わっちゃいないよ」
お亮は女を向き直した。
「で、なんで畑を渡しちまったんだい? 女房にばれちまって手切れ金代わりに取られたのかい?」
女は首を横に振った。男の女房はふたりの関係に気づいていながら見て見ぬふりをしていたらしい。
「なんか……土地をお殿様から天子様に還さなきゃいけなくなったみたいで、代わりに還しといてやる…みたいなこと言われて……。わっち、頭悪いからさ、お上のやることはよくわかんなくて」
早い話が畑を盗られた上に、体よく捨てられたということだ。重い空気が流れる中、お亮が心を鬼にして告げる。
「気の毒だとは思うけどね、傾城屋はお助け稼業じゃないんだ。はいそうですかと誰彼かまわず雇ってたら破産しちまうよ。そしたら今いる女郎どもはどうなっちまうんだい? 若い衆は? 女中や中郎は? みぃんな路頭に迷っちまうんだよ。そうならないようにするために決まりってもんがあるんじゃないのかえ?」
お亮の目線は途中から勇次に向け変えられていた。確かに姉の言う通りである。大きく頷く甚吾郎を見て勇次も引き下がるしかなかった。
「まっまぁ、せっかく訪ねてきてくれたんだ。茶ぐらい飲んでってくんねぇ」
ひとまず場を落ち着かせようと、狭山茶を淹れてくれるよう中郎に声をかける。やがて、茶を運んできたのはりんだった。ほかの皆は2階へ行ったり来たりで大忙しだ。一方、りんは客のいる2階へは上がらせないことになっているため、このときたまたま彼女だけが1階に残っていたらしい。
「おっ、りんの淹れてくれる狭山茶は美味ぇんだよな。俺も一杯いただくとするよ」
気まずい空気を変えようと、甚吾郎が手を伸ばす。勇次とお亮も湯呑みを受け取った。りんは女にも茶を差し出しかけた。と、女の顔を見たりんが突如、驚愕の表情を浮かべたのである。
女もりんの顔に気づき、驚きの声を上げた。
「あんた、高林先生んとこにいた娘じゃないか」
「妹を知ってるのかい?」
お亮が訊ねる。その経緯は勇次が代わりに説明した。
次回は第10話「女が好きになる男」です。