第8話 飛び火
「版籍奉還」と聞き、寄り合いの場が困惑にどよめいた。朱座の面々は事態を良く呑み込めないでいるようだ。ざわざわとどよめきが鎮まらない。
「版と籍を還すってなぁ、いってぇどういうことですかい?」
「初雁(川越城)のお殿様が版と籍を還しちまったら、この朱座はどうなるんです?」
「お侍さんのお給金がなくなるってこたぁ……」
各見世の妓楼主から不安げな声が上がる。ほかの面々からも同様の質問が相次いだ。
「かくし閭の存在が政府にばれる前に出ていけってことですかい? そりゃ、あんまりだぜ」
その場が騒然とする中、勇次は横にいる甚吾郎の顔をちらと見た。彼は表情を変えていない。おそらく事前に父親から聞かされていたのだろう。しかし、その心内は如何ほどか、勇次には全く想像ができなかった。
甚吾郎の見解は後ほど聞くとして、今は事態の把握と朱座の住人らの考えを知るのが先だ。と思っていたのだが——。
「邑咲屋の若頭。おめぇさんの考えを聞かせちゃくれねぇか?」
勝治郎からいきなり名指しをされて面食らう。勇次は甚吾郎をじろりと睨んだ。彼は涼しい横顔を見せていた。おそらくこの男が父親に入れ知恵したのだろう。
注目を集めた勇次に躊躇している暇などなく、腹をくくるよりほかはない。衿元を軽くを正してから口を開く。
「ばれたところで政府がすぐにどうこうしてくるとは思えません。かくし閭から制外者を追い出して無宿者が巷に溢れでもしたら、それこそ世が乱れて困るのは政府のほうでしょう」
「ふむふむ」
もっともらしく勝治郎が相槌を打つ。それよりも勇次は隣の甚吾郎を意識しながら続けた。
「むしろ、かくし閭の存在は政府にとっちゃ都合がいいんじゃないでしょうかね。今の政府は異国の目を気にして、国の汚ねぇところを隠そうと必死です。政府がかくし閭を利用しようとするのを逆に利用してやりゃあいいんですよ」
「なるほど。非公許を公許として認めさせるってことか」
「まぁ、公許だろうと非公許だろうとそれは別にどっちでもかまわねぇんですがね。要するに政府が制外者をかくし閭に隠しておこうって考えになってくれりゃ、こっちとしても好都合ってことですよ。それよりも俺は、お殿様からお給金をもらえなくなった侍たちが浪人となってうろつく方が嫌ですね。食えなくなった浪人どもがかくし閭に溢れでもしたら、それこそはた迷惑ですよ。そっちの対策を練る方が先じゃありませんか?」
「確かに、お侍さんの客が減るばかりじゃなく、それどころか朱座に住み着かれて金儲けもできねぇ住人が増えたんじゃ迷惑極まりねぇな」
元武士は用心棒くらいしか使い道がない。それでは暴力に頼った無益な争いが増えるだけだ。
勝治郎が腕組みして眉間に皺を寄せると、息子の甚吾郎が手を挙げた。
「この際、住人の規制をしたらどうです?」
「規制?」
「これまで朱座は来るもの拒まずで、氏素性の分からねぇ輩も受け入れちまってました。それを改めて、制限を設けるんです」
しかし、甚吾郎の提案には異を唱える者もいた。真っ先に反論したのは小見世『滝もと』の妓楼主だ。
「理由あって制外者になっちまった奴を門前払いするってことですかい? それじゃ、かくし閭の意味がねぇだろ」
「なら共倒れするか? 俺はごめんだぜ。今いる住人たちを守るのが惣名主家の役目だ。制外者の俺たちゃなぁ、今まで必死に自分らの居場所を守ってきたんだ。この期に及んでかくし閭を奪われてたまるかよ」
「かくし閭は遊神様の結界に守られてるんだ。奪われるなんてことあるわけ……」
「ねぇとは言い切れねぇだろ」
甚吾郎の鋭い眼光に、滝もとの妓楼主がたじろぐ。勇次は甚吾郎の袖をちょいちょいと軽く引き、彼の勢いをひとまず止めた。滝もとの妓楼主のほうを向き直し、ふたたび口を開く。
「まぁまぁ、滝もとの旦那、一旦落ち着きましょうよ。金舟楼の若旦那だって門前払いしろだなんて一言も言ってねぇでしょ。受け入れるのにちいとばかし慎重になりましょうって話ですよ」
「若僧はすっこんでろい!」
滝もとの妓楼主が片膝を突き立て勇次を一喝した。あ?と睨み返す勇次にしつこく絡む。
「なんだぁ、その眼は? だいたいおめぇは前から生意気な野郎だと思ってたんだよ。おめぇんとこの玉虫とかいう女郎がうちの女郎にいちゃもんつけやがって……」
「いつの話してんだよ。ありゃあ、もうケリついてんだろがよ。今頃蒸し返すんじゃねぇ。てか、今はそんな話してんじゃねぇだろ」
勇次に言い負かされ、滝もとの妓楼主はぐぬぬ……と苦虫を嚙み潰したような顔で歯ぎしりした。すかさず甚吾郎が割って入る。
「滝もとさん、あんときゃ俺もその場にいたんだ。その話がしたかったらあとで俺がいくらでも相手になるぜ」
その一言で、滝もとの妓楼主は蛇に睨まれた蛙のように一瞬で大人しくなった。
——すげぇ、甚さん。目だけで殺っちまったぜ。
ひとまず収拾がついたところで、惣名主勝治郎が声を上げた。
「皆の衆、今はいがみ合ってる場合じゃねぇぞ。俺ら朱座の者が一丸となってかくし閭を守っていかなきゃなんねぇ時期だ。余計な揉め事は控えろ」
その後も話し合いは続けられたが、これといった妙案も出ず、当面は制外者を受け入れる方向で話がまとまった。ただし、その際は慎重に相手を見極めることと、見慣れない人間を見かけたらすぐに惣名主家に報告することが義務付けられた。
一方で、武家社会崩壊によって士族の客足が遠のくことを危惧する声も少なからず上がった。
「朱座の男衆も登楼していいことにしねぇか?」
主に小見世や切見世など経営の苦しい妓楼からの提案である。遊郭の男衆は同じ遊郭内での遊女遊びはご法度なのだが、少しでも登楼客を増やすために朱座の男衆の登楼を許可してほしいと懇願する。
勝治郎が甚吾郎を見る。なんでもかんでも惣領に頼ろうとする父親に呆れ、甚吾郎は軽く息を吐いた。だが、彼の決断は早かった。
「いいだろう。男衆の登楼を許す。ただし、傾城屋の若ぇ衆は今まで通り朱座の遊女にゃ手を出しちゃなんねぇ。わかったな」
釘を刺すように父を睨む。わかっているのかわかっていないのか、勝治郎は他人事のように頷いていた。
「甚さん、顔、怖い」
「ああ? おめぇも小見世なんかいちいち相手にしてんじゃねぇ」
寄り合いの帰り、勇次は甚吾郎と団子屋に立ち寄った。惣名主の勝治郎は先に帰っていた。ふたりは店先の縁台に並んで座り、団子を頬張る。
「しっかし、おめぇも機転が利く男だな。いきなり話振られてよくあんだけのこと答えられるよ」
甚吾郎が感心したように首を傾げる。勇次は高林からそれとなく版籍奉還について聞いていたことを明かした。
「それよか、甚さん、さっき、ちょいと気になること言ってたろ」
うん?と甚吾郎が狭山茶をすすりながら目だけを向ける。勇次は訊いた。
「かくし閭が奪われることがねぇとも言い切れねぇって……。ありゃあ、どういう意味だい?」
甚吾郎はわざとゆっくり茶をすすった。少し間を取っているのか。勇次は団子をかじり、彼の答えを待つ。甚吾郎は辺りを見回し、人気がないのを確認してから声を潜めた。
「これは、うちに出入りしている女衒から聞いた話なんだが——」
慎重に言葉を選ぶ。人に訊かれてはまずい話だろうか。勇次は何食わぬ振りをして、耳だけを傾けた。
「3年前に幕府が長州と戦ったの憶えてるか?」
「ああ、ちょうどこっちでも米騒動があって、武州の百姓たちを巻き込んだでけぇ世直し一揆があった頃だ。竜弥が最初に家出したのはそれがきっかけだから、よく憶えてるぜ。そのあと幕府は長州から返り討ちに遭って、権威が堕ちちまったんだよな」
長州征討の敗北から徳川幕府の権威は失墜の一途を辿り、滅亡へと至ったのである。
「それがどうかしたかい?」
「幕府は長州を討つために、周りの藩に兵を出すよう命じたんだ。だいたいが従ったんだけどよ、芸州だけは頑なに拒んだ。けど、なんだかんだで結局幕府軍に兵を差し出した。その兵の中にゃ革田や制外者の腕っぷしの強ぇやつらも選ばれてたんだよ」
「革田?」
「穢多のことだよ」
当時、穢多頭弾左衛門も幕府軍として大坂の某革田村をまとめ、軍夫を出陣させている。戦には負けたが、その功を認められた彼は手下65人とともに平人の身分へ引き上げられたのだ。
「じゃあ、芸州の革田や制外者もご褒美で平人に引き上げられたのかい?」
勇次が目を輝かせる。だが首を横に振る甚吾郎を見て、その希望も一瞬でかき消された。
「芸州の革田たちは、住むとこがなくなっちまったらしい」
「なんで?」
「戦に負けて帰ってきたら、村が丸ごと焼け野原になっちまってたんだと」
言葉を失う勇次に、甚吾郎は続けた。
「真夜中の火事だったらしくてな、村人たちはひとり残らず焼け死んじまったって話だ」
「てこたぁ、革田のやつらは戦に行ってる間に身内の全員を失っちまったってことか」
甚吾郎が頷く。勇次は長い睫毛を伏せ、頭を振った。
「だが、本題はここからだ」
食べかけの団子を皿に置き、甚吾郎は勇次を見た。勇次に緊張が走る。
「まだ何かあるのかい?」
「ああ、大ありだ。革田の村の火事、火元はなんだと思う?」
「火元? まさか付け火とかじゃねぇだろな」
甚吾郎は首を横に振ってから答えた。
「飛び火だよ」
「飛び火? 火の粉がどっかから飛んできたってことか?」
言ったところで勇次はすぐさま気づいた。
「ほかでも火事があったってことか」
今度は甚吾郎も大きく頷いた。勇次が矢継ぎ早に問う。
「隣村か?」
「村じゃねぇ。さとだ」
「さと?」
甚吾郎はややあってからその言葉を口にした。
「かくし閭だ」
「……!」
やにわ、勇次の団子の串を握りしめた手が震え出す。甚吾郎は気を落ち着かせるように狭山茶を一口含んだ。
「お内儀、ちょっといいですかい?」
番頭の松吉に呼ばれたお亮は玄関へ向かった。
「どうしたんだい、番頭さん」
「いえね、さっきから妙な女がうちの前でうろついてるんですよ」
「妙な女?」
朱色の暖簾からちらりと覗き見ると、一目で貧農とわかる身形の女がひとり、挙動不審な様子でこちらを窺っていた。役人に連れられていないところを見ると奴刑の女囚ではなさそうだ。
「もうすぐ昼見世を開けなきゃならねぇってのに。どうします? 追っ払ってきましょうか」
お亮は少し考え込んだかと思うと、きりりと顔を上げた。
「わっちが行くよ」
颯爽と暖簾を上げる。松吉もあとにつづいた。
「ちょいと、おまえさん。この邑咲屋に何か用かい?」
暖簾から出てきたお亮に女が気づく。彼女はおどおどとつぶやいた。
「むらさきや? やっぱりここの見世で合ってたんだ……」
朱色の暖簾に大きく白抜きで『邑咲屋』とあるにもかかわらず、女は確信が持てずにいたようだ。おそらく貧しさゆえの文盲なのだろう。
「身売りなら女衒を通しとくれ。それができないなら切見世に行きな。悪いけど、うちは口利きがなけりゃ雇わないことになってるんでね」
お亮がきっぱりと言い切る。その輝くばかりの明眸を見た瞬間、女はあっ……と小さく驚きの声を上げた。
「あんた……、あの男にそっくりだ」
「あの男?」
訊き返すお亮に松吉が耳打ちする。
「勇次のことじゃねぇですか?」
ああ、とお亮も納得した。また別れ話がこじれたに違いない。りんがいるというのに他所の女に手を出すとはなんて情けない、と弟のクズっぷりに呆れ返る。
「弟に何の用だい?」
「弟……?」
「ああ、もうじれったいねぇ。もうすぐ昼見世が始まるんだ。別れ話ならあとにしとくれ」
お亮がしっしっと追い払う真似をして暖簾の中に入ろうとしたときだ。突如女が叫んだ。
「わっちはあんたの弟にここで雇ってやるって言われたんだ!」
「は?」
お亮と松吉は顔を見合わせた後、ふたたび女に目を移した。松吉は口をあんぐりと開けたままだ。
——あのトンチキ……
お亮は目を閉じ、呆れたように手を額に当てた。
次回より第3章「忍び寄る影」に入ります。
次回は第9話「もうひとつのかくし閭」。
ここから第1話の実態が少しづつ明かされていきます。
【参照】
小見世『滝もと』との諍いは「巻の壱《制外者編》」第1話~第2話をご参照ください。
【用語解説】
◎奴刑:窃盗や身内が犯した罪の縁座などにより奴婢身分に落とされた女性の刑罰。人別帳から除籍され、吉原などの遊郭で遊女として奉仕を科せられることもあった。