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第7話 勇次のヤキモチ

 新入りの禿(かむろ)お七は、勇次によって「七星(ななほし)」という源氏名を与えられた。

 引け四つの拍子木が鳴り、大門が閉じられ、客たちが寝静まる。一方でりんは眠い目をこすりながら七星の人形をせっせと縫い直していた。

 その翌朝のことである。朝といっても遊郭の朝は遅いので巳の刻のこと。帳場から番頭の松吉の声が聞こえてくる。りんがなにやら直談判をしているようだ。

 遅い朝餉を食べ終えた勇次は帳場に顔を出した。

「番頭さん、りんがどうかしたんですかい?」

「おう、勇次。ちょうどいいところに来てくれた。実はりんがな……」

 松吉はかくかくしかじかと話し始めた。早い話が金を貸してくれということらしい。

「え……それってまさか、身揚がりってことですかい?」

 勇次の顔が引きつる。身揚がりとは、基本外出禁止の遊女が、正月と盆の休み二日間以外で外出したいときに揚げ代を払って休みを取る制度のことである。ただし遊女は持ち金がないため、外出時に必要な金は妓楼から借金しなければならない。

 ちなみにこの制度は、客の取れない遊女に抱え主側が身揚がりを強要し、さらに借金を重ねさせて飼い殺しにするという冷酷非道な側面もあった。

「これ、見てくれ」

 松吉はりんが書いたという証文を勇次に見せた。

「は? 15(もんめ)? そんなに借りて何に使おうってんだ」

 真ん丸になった勇次の目には明らかに怒りの色が滲んでいる。

「まさか、他所(よそ)に男ができたんじゃねぇだろな」

 もしや貢がされているのではあるまいな。うん、そうだ、そうに決まっている。相手は、りんが耳が不自由なのをいいことにだまくらかしているに違いない。

 りんを睨みつける。耳の不自由なりんは勇次の怒りが理解できずきょとんとした。

「上等じゃねぇか。俺がその野郎と(ナシ)つけてやるぜ」

 りんに手を出したらどうなるか目にものを見せてくれる。怒りというより嫉妬に駆られた勇次は誰にも止められない。松吉から4朱を借り受け、有無を言わさずりんの手を引き暖簾を出ていってしまった。

「あっ、勇次! 昼見世開けるまでには戻ってこいよ!」

「おうよ、半刻(はんとき)もありゃ十分だぜ!」

 松吉がふたりを見送っていると、そこへ騒ぎに気づいたお亮が暖簾から顔をのぞかせた。

「番頭さん、あの馬鹿、何かやらかしたのかい? 血相変えて出てったけど」

 松吉はまたもかくかくしかじかと説明した。お亮が呆れ顔で溜め息をつく。

「ほんと馬鹿だね、あいつは。りんが他所の男に貢ぐわけないじゃないか。ほっときな。どうせ赤っ恥かいて帰ってくるのがオチだよ」

 掃除を怠けた挙句昼見世に遅刻したらそれこそ盛大にお仕置きしてやると息巻いて、さっさと暖簾の中に入ってゆく。それもそうか、と松吉も帳場に戻った。




 りんの手を引き、勇次が大門を出ようとする。と、逆にりんが勇次の手を引っ張って広小路のほうを指差した。

 ——(しゃ)()の男じゃねぇのか?

 なんとりんの相手はこの朱座遊郭の中にいるというのか。どこのどいつだ。切見世の若い()か、それとも引手茶屋の手代か、はたまた()手振(てふ)りの若僧か。

 苛々とりんのあとをついてゆくと、彼女は商店街の先の角を曲がった。その奥の長屋で立ち止まる。そこには青屋、笠縫、筆結、墨師、土師師、鋳物師(いもじ)……等々、職人の住居が建ち並んでいた。

 ふたたび歩き出したりんは、一番奥の家の前まで行きついた。

「ここって……」

 戸口の前でふたりたたずむ。障子には「薬」の文字が書かれていた。

 ——たしか緑山(りょくざん)さんの住まい。

 りんを見る。彼女も勇次を仰ぎ見た。まったく悪びれる様子もなくはにかんでいる。勇次は鈍器で殴られたかのごとく激しい衝撃に襲われた。

 ——えええ? りんが緑山さんと恋仲……?

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。そうか、高林先生の診療所で距離を縮めていたのか。そうとも知らず、能天気に毎月高林先生の元へりんを預けていたなんて、自分はなんという間抜けなのだ。

 眩暈(めまい)でふらふらとよろける。そのとき、勇次の身体をがっしりと支える逞しい腕があった。

「勇次さん、大丈夫ですか!」

 その顔を見て二度眩暈に見舞われる。勇次を支えてくれたのは、誰あろう緑山その人だったのだ。

「すぐに薬湯を用意します。さ、どうぞ中へ。りんちゃんも」

 思考が停止した勇次は言われるままに中へ入った。りんも心配そうに勇次の腕を自分の肩に回して支える。

「お疲れのようですね。梅雨時は気が安定しないので無理は禁物ですよ」

 緑山はてきぱきと薬を調合した。特に妓楼の若い衆は寝ずの番もあり寝不足から体調を崩しやすいのだと説明する。確かに昨日は伊左衛門の見送りで夕方の仮眠を取らないまま夜見世に出ていたが。

「さ、これを飲んで少し横になりましょう」

 差し出された滋養の薬湯を飲み干し、横たわる。恋敵に介抱されるとはなんたる不覚。屈辱にまみれた表情を両手で隠し、震える唇を噛みしめた。なんとも情けない。

「ところで、私になにかご用でしたか? うちの前にいらしたようでしたが」

 緑山の問いで我に返り、手を外す。

「緑山さん。りんは真面目で気立ての良い娘なんだ」

「ええ、りんちゃんは本当に働き者で心のきれいなお嬢さんですよね」

「ああ、だから悲しませねぇでほしいんだよ」

「ふふふ。勇次さんは妹思いの素敵なお兄さんですね」

 勇次はゆらりと起き上がった。

「とぼけるんじゃねぇ。りんはあんたのために借金してまで金を工面しようとしたんだぜ」

「金?」

 緑山がりんに目を遣ると、りんは思い出したように袂から1朱銀4枚の入った巾着袋を取り出した。袋に手を入れ、そのうちの1枚を緑山に差し出す。

「りんちゃん、まさか、先日の薬礼ですか? そんなのあなたが気にしなくていいんですよ」

 緑山が金を突き返す。

「薬礼?」

「実はこのあいだ勇次さんがお帰りになった後、急患が入りましてね」

 緑山は先日、高林の診療所で膝小僧に傷を負った少女を診た経緯を話した。

 ——膝小僧に傷……?

 怪訝に眉を顰める勇次に気づかず、緑山は続けた。りんは、自分が少女を招き入れた結果、その母親が診療費と薬代を払わずに帰ってしまったことに責任を感じているのだろうと語る。

「りんちゃんは自分が肩代わりしようとしたのでしょう」

「なるほど、そういうことですかい。俺はてっきり……」

「てっきり?」

 緑山に訊き返され、勇次はごにょごにょと言葉を濁した。なんてことはない、自分の早とちりだったのだ。危うく赤っ恥をかくところであった。

 ——そうだよな。りんが心変わりなんかするわけねぇよな。

 謎の自信を取り戻し、勇次は密かに胸を撫で下ろした。緑山がにやにやと目を細める。

「おそらく残りの金は高林先生への支払いでしょう。まぁ、先生も受け取らないとは思いますがね」

 兎にも角にも、昼見世の開店まではまだ時間があったので、勇次とりんは高林の診療所を訪ねることにした。緑山も同行する。そこで勇次は高林と緑山に、昨日出会った女の話をした。

「そうであったか。それはおそらくうちに来た(おや)()で間違いないだろう」

 高林は勇次の話を聞き、うんうんと頷いた。診療所で治療に当たった時にはすでに少女は疫痢を発症していたのだろうと推察する。幼い子供であることと栄養と衛生状態の悪さも重なり、手の施しようのない状態だったのかもしれない。

「勇次、お前は良いことをした。娘の骸をそのまま不老(としとらず)(がわ)に流していたら多くの命が危うかったであろう」

 褒められたところで素直に喜べる結末ではない。勇次はそっとうつむいた。無言でふたりの会話を聞いていた緑山は、途中から目頭を押さえ、涙を(こら)えているようだった。3人の沈痛な面持ちから、りんも何かを察したようだ。ずっと下を向きっぱなしで肩を震わせている。

 勇次はその細い肩を優しく抱き寄せ、頭を撫でてやりながらふたりに言った。

「先生、緑山さん。もしかしたらその母親、もう一度会えるかもしれません。診察代と薬礼はひとまず俺が立て替えておきます」

 ふたりは遠慮したが、勇次がどうしてもと言うので、この場はひとまず支払うことで収まった。




 そんなことがあってから10日ほど経った日のことだ。寄り合いの臨時招集があり、勇次は留守にしている妓楼主の名代で出席することになった。

 これまで伊左衛門が留守のときは花車のお亮が出席していたのだが、少しずつ勇次にも対外的な仕事を覚えてもらおうと、今回は彼に出席させることにしたのである。

「甚さん、今日は靴とやらは履かねぇのかい?」

 雪駄をわざとらしくチャラチャラ鳴らしながら勇次がにやにやとからかう。甚吾郎はチッと舌打ちして顔を背けた。靴擦れができたなどとは口が裂けても言えない。

 そこへ名主連中がふたりに近づいてきた。

「お、珍しいね。今日は邑咲屋さんは若頭が出るのかい?」

「女将も相当な美人だが、弟も負けず劣らずいい男だねぇ」

 上機嫌で勇次を取り囲む。(あか)()の名主は年配者が多いせいか、若い者がいると場が華やぐようだ。

「こいつぁ邑咲屋さんの跡を継ぐ男です。皆さん、よしなに」

 大見世金舟楼の若旦那甚吾郎が勇次を紹介する。勇次は慌てて甚吾郎に耳打ちした。

「ちょっと、甚さん。竜弥は死んだわけじゃねぇんだ。跡取りは竜弥だろ」

「心配すんなって。あいつは邑咲屋を継ぐ気なんざねぇよ」

「そんなの、まだわかんねぇだろ」

 甚吾郎はやにわに鋭い目つきで勇次を睨んだ。

「たとえ竜弥に継ぐ気があっても、俺は惣名主家としてあいつを認めるつもりはねぇ。どんな理由があろうと、てめぇの実家を他人(ひと)に丸投げするような奴にゃ任せらんねぇってことだ」

 言葉を失う勇次に畳みかける。

「うちの親父も同じ意見だ。おめぇもそのつもりでいろ」

「……」

 勇次は返事をしなかった。甚吾郎もそれ以上何も言わず、席に着いた。甚吾郎に促され、勇次も渋々彼の隣に腰を下ろす。一番の上座には惣名主で金舟楼の大旦那、つまり甚吾郎の実父(かつ)()(ろう)がすでに着座していた。

 朱座遊郭の名主全員が揃ったところで、惣名主勝治郎が口を開く。

「これより政府からのお達しを伝える。皆、心して聞くように」

 彼のいつになく神妙な口調に、一同緊張が走った。勝治郎が続ける。

「此度、各藩が所有していた版と籍を天子様へお還し奉ることと相成った。したがって川越藩も版と籍をお還し奉る、とのことだ」

 明治2年6月17日、版籍奉還——。それまで藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させた政治改革である。これに伴い、藩士への秩禄も数年のうちに順次打ち切りとなるという。

 これを境に川越藩主の松平康載(やすとし)は知藩事となった。わずか16日間の藩主であった。

 江戸時代の色がまだ残る明治初期であったが、時代は確実に変容しようとしていたのである。

次回は第8話「飛び火」です。


【一口メモ】

川越藩最後の藩主松平康載はこのあと松井姓に改姓しています。

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