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第6話 少女いろいろ

 不老川(としとらずがわ)は川越城下町南のはずれを流れており、扇河岸付近で新河岸川と合流している。勇次は先ほど見かけた女を追うべく、不老川沿いを走った。彼女のやることはだいたい察しがつく。子供の亡骸を埋めるか流すかのどちらしかない。

 橋を渡る前に勇次は不老川の土手で女の姿を見つけた。案の定、女は子供の亡骸を背負ったまま土手を下り、不老川に足を踏み入れようとしていた。大急ぎで橋を渡る。

「待ちな!」

 勇次の声に女の足がびくっと止まった。すかさず勇次は駆け寄り、女の腕をむんずと掴んだ。

「止めないどくれ! この子がいなくなったらわっちはもう生きるよすががないんだ!」

「ああ、別に止めやしねぇけどよ、死ぬならひとりで死んでくれ」

「は?」

 勇次の言葉に唖然とした女は目をぱちくりさせて彼を見つめた。

「ガキは置いてけって言ってんだよ。川が汚れちまうだろ」

「川が汚れる?」

 勇次は異臭を放つ女の背中を見た。

「そのガキ、死ぬ前どんなふうだった? 腹下してなかったか?」

 勇次の問いに女ははっとした顔で目を丸くした。図星のようである。やはり、という表情で勇次は頷いた。

 子供の死因はころり(コレラ)か()(くそ)(赤痢)か。母親に感染していないところを見ると小児が発病する疫痢かもしれない。しかし運良く彼女が感染しなかっただけで、通常の赤痢の可能性も否めない。赤痢の細菌で川や土壌が汚染され、下流域で感染が広がってしまったら多くの者が死に至ることは火を見るより明らかだ。しかも不老川は新河岸川、さらに墨田川へとつながっている。人口の多い東京で感染が広がれば大惨事となるだろう。

「死んでまで他人(ひと)(さま)に迷惑かけるんじゃねぇ」

「はっ。他人のことなんか知ったことか。あんたにゃ関係ないだろ」

「関係なくても黙って見過ごすわけにゃいかねぇんだよ」

「……!」

 絶句する女の手を引き、強引に歩かせる。

「わっちをどこへ連れてくつもりだい?」

「昔、処刑場があったとこだ」

「処刑場だって? あんたまさか不浄同心かい?」

 蒼褪める女を無視して、勇次は無言ですたすた歩いてゆく。不老川を渡り南下すること約半里、ふたりは東京街道から少し奥まった場所にやってきた。

 数体の地蔵が並ぶ前で女の手を離す。それからすぐに黙々と辺りの草や枝を集めはじめた。

「ぼーっとしてねぇでおめぇもやるんだよ」

「この子を燃やそうってのかい?」

「ああ。ここなら賽の河原で小石を積まなくても地蔵菩薩様が極楽へ連れてってくれる」

 言いながら子供を集めた枝草の上に寝かせるよう指示する。(むくろ)の上からさらに枝草を乗せ、粗方の作業が終わったところで腰に下げた巾着から火打石、火打金、()(くち)、付け木を取り出した。

 慣れた手つきで火打金に火打石を打ち下ろす。飛び散った火花を火口に()け、息を吹きかけると赤々とした火種が出来上がった。それを消さないよう器用に付け木に移し、硫黄に着火したところでその火を枝草にまた移す。

 梅雨時の湿った空気の中でなかなか火は燃え上がらなかったが、それでも時折吹く風が炎上を助けてくれた。

 勇次の手際の良さに驚きつつ女は一連の動作をぼーっと眺めていた。やがて燃え上がる炎を無言で見つめる女を、勇次が風上に引き寄せる。この(にお)いは一度付いたらなかなか落ちないのだ。

「ガキの父親はどうした?」

「そんなもん、(はな)からいないよ。この子だって誰の子だかわかりゃしない」

 なるほど、そういうことか、と勇次は合点がいった。見たところこの母親はまだ若い。十代前半でかどわかしに遭い、孕まされたようだ。

「それでも大切に育ててきたんだろ。さっき生きるよすがだって言ってたじゃねぇか」

 それを聞いた瞬間、女はその場に泣き崩れた。幼いながらも愛娘を育てるため、昼は猫の額ほどの畑を耕し、夜は夜鷹までやって必死に生き抜いてきたのだ。だが、最愛の我が子を失った今、何を(かて)にして生きてゆけというのか。

 勇次は慟哭に震える痩せた背中を見つめた。1月の大火を思い出す。あのときの自分もりんが焼死したと思い込み、一緒に死んでしまいたいという思いに駆られて絶望していた。我が子を亡くした母親の気持ちもあのときの自分と同じ、いや血を分けた我が子ならばそれ以上だろう。

 やにわに女から御座(ござ)(むしろ)を取りあげ、燃え盛る火にくべる。突然の所業に女は泡食った。

「なにすんだい! わっちの唯一の商売道具だよ!」

「いらねぇだろ。おめぇ、これから死ぬんだもんな?」

 女は奥歯を噛みしめ、わなわなと勇次を睨みつけた。

「いい加減にしとくれ、このお節介野郎。あんたいったい何者なんだい」

「俺か? 俺は(あか)()の傾城屋だ。まだ生きる気があるなら雇ってやってもいいぜ」

 にやにやと顔を近づける勇次の秀麗な眉目に、どきりとしながら目を丸くする。

「あんた制外者にんがいもんかい? 朱座の傾城屋……って馬鹿言うんじゃないよ。誰が女郎なんかに。しかも朱座ってあんたたち制外者の吹き溜まりじゃないか。制外者になるなんてまっぴらごめんだね」

「遊女の最底辺の夜鷹よりははるかにましだと思うぜ」

 女は真っ赤な顔で、きっ……と鋭い目を向けた。

「騙されるもんか。傾城屋は女郎に腐った飯を食わせるって言うじゃないか」

「そりゃ吉原の話だろ。少なくともうちじゃそんなこたぁしねぇよ」

 (ふところ)()しながら勇次がにやりと笑う。

「平人のまま夜鷹を続けて一生一日一食、夜泣き蕎麦をすすりつづけるか、それとも制外者になって一日二食美味(うめ)ぇおまんまを食うか」

「忘八の言うことなんか信じるもんか」

「なら勝手にひとりで死にやがれ。俺にゃ関係ねぇんだもんな。おめぇがどこでくたばろうが知ったこっちゃねぇや」

 勇次はそう突き放すと燃え盛る亡骸に向かって手を合わせた。

「気が向いたらいつでも邑咲屋に来な。そこそこまともな飯食わしてやるからよ」

 踵を返そうとする勇次を女が引き留める。

「ちょっと、お待ちよ。あんた、なんでわっちなんかを? その……器量だってよくないし……、年齢(とし)だってもう二十歳(はたち)を越えてるのにさ……」

 口ごもる女に勇次は微笑んだ。

「おめぇの()には色がある」

 切れ長の流し目を残し、身を翻す。

「火の始末、ちゃんとしとけよ」

 去りゆくその粋な後ろ姿から、女は何故か目が離せないでいた。




 勇次が小仙波村に帰り着いたのは、時鳴鐘が暮れ六つを知らせるころだ。高林謙三医師の家へりんを迎えに行き、邑咲屋に戻ったときにはすでに夜見世の営業が始まっていた。

「お帰り。遅かったね。まさかうちのひと、夜船に乗り損ねたんじゃないだろうね」

 出迎えた姉お亮が訝る。

「大丈夫。ちゃんとお見送りしたから心配いらねぇよ」

「じゃあ、高林先生のお宅で油売ってたのかい? ご迷惑だろうに」

「いや、そうじゃねぇ。ちょっと野暮用ができちまってな」

「野暮用? ま、いいや。それより、新しい禿(かむろ)を買ったからちょいと見ておくれ」

「あいよ」

 2階の座敷へ向かう前に、りんとすれ違う。りんは帰って来て早々荷物を置いたかと思うと、すぐさま前掛けを付けて炊事場へと入っていった。

「ちったぁ休んでも誰も文句言わねぇのにな」

 その姿を見て勇次が溜め息をつく。お亮もりんの背を見つめた。

「夜見世でみんなが忙しく飛び回ってるのに、自分だけ休んでるのも気が引けるんだろうよ。そうでなくても、女郎にならずに済んでるんだ。申し訳なさが先に立っちまってるんじゃないのかね」

 たしかに姉の言う通りかもしれない。りんは働くことで自分の居場所を守ろうと必死なのだ。

 ——早く一緒になりてぇな。

 若頭の自分と夫婦になればりんも気兼ねなく邑咲屋で過ごせるだろう。そんな他愛もないことを考えていると自然と顔がにやけてくる。

「またしょうもないこと妄想してるんだろ」

 姉に痛いところを突かれてぎくりとした。慌てて袖で緩んだ口元を隠す。すると、そこへ遣り手婆のお亀が2階から降りてきた。

「あっ、女将(おか)さん、勇次さん。ちょうどよかった。すぐに来ておくんなんし」

 お亀がふたりを2階に導こうとしたときだ。花魁孔雀の座敷からお七が飛び出し、ばたばたと階段を駆け下りてきた。

「おおっと、妓楼ん中で走るんじゃねぇ。お客とぶつかったら危ねぇだろ」

 勇次がお七をひょいと抱え上げる。ほんの一瞬、彼の眉が歪んだ。

「おめぇが新入りの禿か。なかなか可愛い顔してるじゃねぇか」

 すぐさま表情を戻し、にこっと笑いかけるもお七は無表情のままだ。

「お七、うちの若頭だよ。ご挨拶しな」

 お亀に促されてもお七は無言で勇次をじっと見つめるだけである。勇次は苦笑しながらお七を下ろした。

「お亀さん、こいつ、風呂入れてやってくんな。ちょいと臭うぜ」

「さっき入れたばかりですよ」

 あ、そうなんだ、と勇次はつぶやいた。もしかしたらこの異臭は先ほどの火葬の際、自分の着物に付着してしまったものかもしれない、と思い直す。

「ところでお亀さん、いったいどうしたってんだい?」

「いえね、お七がその人形を離さないんですよ。お座敷には持って入れないって何度言い聞かせても頑としてきかなくて……」

 それを聞いてお亮も頬に手を当て首を傾げた。

「そうかい。よっぽど大事なもんなのかねぇ。でもずっと抱えてるわけにもいかないし、困ったねぇ」

 3人が頭を抱え、お七を見る。と、ちょうどそこへ膳を運ぼうと使用人たちがやってきた。とりあえず道を開ける。使用人の中にはりんも混じっていた。

「ちょいと、お客がいるときはりんを2階へ上げるなって言ってあるだろ」

 お亮は最後尾にいた中郎を呼び止めた。りんを2階の客間に上がらせないのは、器量の良いりんが遊女と間違われて客に手を出されるのを防ぐためである。

「わっちが持って行きんす」

 お亀がりんから膳を受け取る。手持無沙汰になったりんは所在なさげにうつむいた。ふと、その視線の先にいたお七に気づく。お七と初対面のりんは彼女ににっこりと微笑みかけた。

 おもむろに腰をかがめ、目線を合わせる。お七が抱えていた人形に目を移したりんは、あることに気づいた。よく見ると人形の首の糸がほつれてもげかかっている。ふたたび目線をお七に戻し、微笑みながら自分の鼻を指差した。それから身振り手振りで裁縫の真似をしてみせたのだ。

「自分が縫い直してやる……ってことかね?」

 お亮が呟く。勇次も同じことを考えていた。と同時に無表情だったお七の顔がぱっと明るくなった。

 りんは難なくお七から人形を受け取ってしまった。唖然とするお亮と勇次を尻目に、お七は上機嫌で座敷へと戻ってゆく。一筋縄ではいかないと思っていた案件を、りんはいともあっさり解決してしまったのだ。

 人形を抱えてお針子部屋へ向かうりんの後ろ姿を、姉弟が呆気にとられながら見つめている。

「不思議な子だよ、まったく」

 ぽつりと漏らす姉の言葉に勇次も呼応した。

「ああ、まったくな」

 相好を崩す弟の顔を、今度はお亮も咎めなかった。

次回は第7話「勇次のヤキモチ」です。

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