最終話 共に生きてゆくひと
注:最後に挿絵があります。
竜弥と喬史郎は一旦狭山入間川村へと向かい、鎌倉街道上道を南下し東海道へ出るという。勇次らは東京街道まで送って行くことにした。
どろぼう橋を渡り、本行院手前を西へ抜け、東京街道に出たところで立ち止まる。今こそ本当に別れの時が訪れた。
「喬史郎、達者でな」
耕作は喬史郎と固く握手を交わした。
「耕作、あんたもな」
多くの言葉は要しない。彼らは真の友なのだろう。
「竜弥さん、喬史郎のこと、よろしくお願いします」
竜弥に深く頭を垂れる耕作は、喬史郎の足を気遣った。
「おう、任せてくんな」
胸を叩き、竜弥がにかっと笑う。
「じゃあな、勇次。行ってくるぜ」
ふらりと使いにでも行くように彼は片手を上げた。勇次も片手を上げ、おっ、と短く答える。ただそれだけ。こちらも多くの言葉はいらない。
初雁城を背にして竜弥と喬史郎が東京街道を歩き出す。と、突然、彼らを追ってりんが走り出した。あわてて勇次が追いかける。りんは竜弥の袖をつかんでいた。片足を引きずる喬史郎のお陰で彼らの歩みは遅く、りんでもすぐに追いつくことができたのだ。
「ん? どした、りん、忘れ物か?」
怪訝に立ち止まる竜弥を前に、りんは懐から自分の手拭いを取り出した。それをそっと竜弥に差し出す。
「えっ、俺にくれんの? うわーすっげ嬉しー、マジありがてぇわぁ」
竜弥がりんの手拭いに頬ずりする。勇次は慌てて彼の手首を掴んでやめさせた。
「おいおいおい、どおゆうことだよ!」
「おめぇが俺の手拭いお釈迦にしちまったせいだろ」
りんは、勇次が自分のために竜弥の手拭いをミサゴの褌代わりにして台無しにしてしまったことを憶えていたのだ。まさにりんが尻拭いしてくれた格好である。
「なんだよそれ……。俺の手拭いだって使いもんにならなくなっちまったってのによ」
勇次は顔を両手で覆い、がっくりとうなだれた。
「泣くな泣くな。土産にお揃いの手拭い買ってきてやるからよ」
わっはっはー!と高らかな笑い声を上げ、竜弥はふたたび前を向き、喬史郎とともに歩き出した。
小さくなっていく背中をただ見守る。勇次らはふたりの背中が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。
氷川さんの神幸祭までいればよかったのに……などと他愛ないおしゃべりをしながら4人は喜多院へ戻ってゆく。心友を見送った勇次と耕作はどこか気の抜けた様子だ。
「ほんとに芸州に帰らなくてよかったのかい? 空蝉ならあんたが戻ってくるまで邑咲屋で預かっててやるよ。もちろん下働きとしてな」
もう二度と彼女に春をひさぐような真似はさせたくない。その固い決意は耕作にも伝わった。しかし彼は頭を振る。
「お七を育てたのは喬史郎です。今さら私が父親面するのもなにか違う気がして」
「ふうん。父親ってそういうもんなのかな?」
勇次は遠い目で多宝塔の相輪を見上げた。自分には父親の愛情というものの真実がわからない。我が子を守り抜こうとするのが愛情ならば、この世に残しては逝けないと道連れにするのも愛情なのだろうか。
惑う瞳に耕作も気づいた。だが、気づきながらもかける言葉はない。触れてはいけないことなのだろうと、勇次の横顔から察する。彼もまたかくし閭の住人、理由有りの制外者なのだから。
勇次はりんを高林謙三医師の診療所へ送っていくと言って、山門前で立ち止まった。妓楼主伊左衛門が帰還してしまったため、りんを邑咲屋に置いてはおけないのだ。
先ほど伊左衛門はりんに気づかなかったようだが、彼女の存在を知られてしまったら強欲な彼のことだ、遊女として奉仕させようとするに決まっている。りんを苦海に沈めることだけはなんとしてでも回避しなければならない。
——俺もずりぃよな。
頼る身寄りがなく、行く当てもない女は何もりんだけではない。奴刑或いは貧困により遊女にならざるを得ない女は五万といる。傾城屋が私情を挟むことは許されないというのに。
自分のずるさは百も承知だ。それでも、非難を覚悟でりんを守りたい——。ただそれだけで我を通してしまった己の決断に責任を持たなければと強く思う。
「高林先生によろしくお伝えください。引き続きご贔屓にお願いいたします、と」
耕作が軽く頭を下げた。彼は遊郭の内情を少なからず知っている。おそらく勇次の想いにも気づいている。気づいていながら知らぬふりを通してくれる恩情には敬意しかない。
ああ、と笑顔で頷く。そのとき、耕作の背後に近づく影に目が留まった。
「んだよ、クソ坊主。まだなんか用かよ」
耕作の後ろに立っていたのは妙海だった。
「この者に渡し忘れたものがあったのじゃ」
怪訝に振り返る耕作に、妙海は1枚の手拭いを差し出した。
「あ、私の手拭い……」
「昨日の朝、羅漢様から外さずに帰ってしまったであろう」
耕作は手拭いを握りしめた。心なしか微かな温もりを感じるのは気のせいか。
「この手拭いをかけられていた羅漢様な、今しがた見たらすこぶる穏やかなお顔をなすっていたぞ」
それだけ言い残し、妙海は境内へと戻っていった。
——人は何度でも生まれ変われる。
耕作の脳裏に妙海の言葉が甦った。心の奥底でまだ迷子になっていた願いは許されてもよいのだろうか。百姓ではなく薬売りの緑山として生まれ変わり、平人に戻らず制外者として朱座で生きてゆくという未来は——。
震える手で手拭いを顔に押し付ける。その手の上に痩せた手が重ねられた。微かに香る土の匂い。この手は同じ百姓の手だ。耕作はそっと手拭いを外し、その女の顔を見た。彼女の代わりに勇次がうつむき加減で微笑んだ。
「空蝉の羽に置く露の木隠れてしのびしのびに濡るる袖かな」
口ずさみ、彼女に目を向ける。
「もうおまえは空蝉じゃない。もし泣きたくなったら、この男の袖を貸してもらえ」
耕作はもう独りではない。共に生きてゆく女がいる。彼に寄り添う空蝉も泣いていた。
「今度、ふたりで弁天様にお詣りしてきたらどうだい?」
「ご冗談を。また撥ね返されてしまうでしょう」
耕作が目頭を押さえながら苦笑する。勇次は鼻っ柱に皺を寄せた。
「弁天様は夫婦の守り神でもあるんだぜ。偽りの仲じゃなけりゃやさしく見守っててくれるのさ」
意地悪く目配せする。試してみろと言わんばかりの表情だ。耕作は照れたようにうつむき、横目でちらと空蝉を見た。空蝉も頬を赤らめつつ頷いている。
そんなふたりの様子に勇次は安堵の吐息を漏らした。
「勇次さん」
踵を返そうとする勇次を耕作が呼び止める。
「ん?」
勇次は足を止め、顔だけ向けた。りんもつられて耕作を見た。彼の顔に涙はもう、ない。瞳は嘘の付けない、真っ直ぐな光を放っている。
「私は弁天様に止めてほしかったんじゃない。勇次さん、あなたに止めてほしかったのです」
同じ元平人として、同じ匂いのする百姓として、勇次ならきっとわかってくれる、必ずや止めてくれると信じていた。いや、そうではない。勇次の信念に気づき、己の過ちに気づけた。彼が気づかせてくれたのである。
「……そっか……」
勇次は片足を下げ、半身を耕作に向けた。役に立てたならこれほど嬉しいことはない。その笑顔はそう言っているように見えた。
だが笑顔も束の間。
「今度じっくりと、私の百姓仲間についてお話しさせてください」
耕作の一言でふたりの間にわずかながら緊張が走る。芸州かくし閭殲滅を完遂した耕作の百姓仲間はまだ、この国のどこかに潜んでいるのだ。
今回、朱座の消滅は免れた。されど、いつまた狙われないとも限らない。そのとき彼らはかつての百姓仲間である耕作に接触してくるだろう。となれば彼の助力は必要不可欠だ。
勇次は一瞬柳眉を上げたが、すぐに目を細めて右の口角を上げた。その表情は、またひとり心強い友を得た喜びに満ちあふれている。
「じゃあ、またあとで」
さりげなく挨拶を交わし、ふたたび踵を返す。勇次の斜め後ろでりんもちょこんとお辞儀した。
「りん、行こう」
相好を崩し、りんの背中に大きな掌を当てる。りんは安心したように笑みをこぼした。
思いがけず与えられた遊郭の連休は、とんだ災難に見舞われてしまった。けれど、りんとの距離がひとつ近づいたのなら、これは神様からの贈り物なのだと思うことにしよう。そんな馬鹿なことを考えたりして、小仙波村の畦道をふたり並んで歩いてゆく。
出穂直前の青々とした稲が光る風に揺れている。収穫・植え付けが混在した畠の向こうには丹沢山地が薄っすら霞んで見える。新秋に笑う雲、蝉しぐれの中、ふと雨の匂いが鼻奥をくすぐった。厳しい残暑もひと雨ごとにやわらいでゆくだろう。
なんにせよ今回の騒動はひとつ解決を見た。二月後には無事、氷川神社の神幸祭を迎えられそうだ。川越城下各町自慢の豪奢な山車、迫力満点の曳っかわせ。川越祭りは川越の民にとってなによりの楽しみなのだ。
先々に楽しみのある幸せを噛みしめつつ、何気なくりんを見る。りんも気づいて顔を上げる。勇次の笑顔が映ったその瞳は、きらっきらに輝いていた。
(『非公許遊郭かくし閭 巻の弐《黒い遊神》』 完)
『非公許遊郭かくし閭 巻の弐《黒い遊神》』はこの回をもちまして完結となります。
最後までご覧いただきありがとうございました。心より感謝申し上げます。
また、少しでも興味を持ってくださった方、評価ポイント・ブックマーク・感想などをいただけると感謝感激です。どうぞよろしくお願いいたします。
*現在『巻の参《タイトル未定》』を準備しております。公開までしばらくお待ちください。
それまでの間は、他作品を断続的に公開していく予定です。こちらのほうもご覧くださると有難く存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
*みてみんと活動報告に勇次・りんのイメージ画を掲載しております。