第45話 勇次の想い人は
耕作は勇次に提示された証文と彼の顔を交互に見た。
「勇次さん、これがどうかしたのですか?」
「うん。実はな、空蝉はけっこう客を取れてて、あとちょっとで借金を返し終わるんだ」
元々15匁しかなかった借金だ。返済にはそれほど時間を要することもない。「ここを見てくれ」と、勇次が借用証文の或る部分を指差す。竜弥と喬史郎ものぞき込んだ。一生懸命背伸びしているりんにも見せてやる。
「空蝉が今まで稼いだ分を引くと、借金は残りあと金1朱。耕作さん、この金額に心当たりはねぇか?」
「……あ……、もしかして薬礼ですか?」
耕作はすぐさまピンときた。りんも思い出したらしく、手をポンッと打つ。勇次は頬を緩め彼女に微笑んだ。
「耕作さん、これはあくまでも俺からの頼みなんだが」
邑咲屋としてではなく個人的な願いであることを強調しつつ、神妙な顔つきで耕作に向き直る。耕作も緊張の面持ちで姿勢を正した。
「あんときの薬礼分を空蝉の残りの借金に当ててくんねぇかな?」
要するに、薬礼が無料になれば空蝉の残りの借金分も最初からなかったことになる、と勇次は言いたいのである。
「つまり、それは……」
耕作は続く言葉を躊躇った。身請けしてやるなどと、そのようなおこがましい申し出をして良いものかという迷いが彼を縛りつけているようだ。無論、勇次もそんな心情などお見通しである。
「もちろん、そのあとのことはあんたが決めてくれてかまわねぇ。俺にゃ口出しする権利はねぇからな。けど、空蝉は女郎辞めたからって行き場があるわけじゃねぇんだ。また夜鷹に逆戻りしちまうかもしんねぇし。俺も関わっちまった手前、なるたけそれは避けてぇんだよな」
勇次の言いたいことは痛いほど伝わってくる。自分だってそうしてやれたらどんなにか楽だろう。だが、罪を犯した自分が楽になってしまってよいのか。果たしてそれは許されることなのか。このまま心の葛藤を抱えたまま朱座に居座り続けることは……。
「耕作、やっぱしあんたは川越に残りんさい」
心友の温かい掌が背中に置かれた。
「わしゃぁあんたの幸せを奪ってしもぉた。じゃけぇ、わしゃぁもうええ。十分じゃ。今度はあんたが幸せになる番なんじゃ。これでおあいこ、それでえかろう。ええことにしよう、な?」
耕作ははっと顔を上げ、喬史郎の顔を見た。喉から込み上げるなにものかが邪魔をして言葉が上手く出てこない。声に詰まる耕作に勇次も語りかけた。
「無理に自分を許さなくていいし、無理に楽になろうとしなくてもいいんじゃねぇか? かくし閭ってなぁそんな葛藤を抱えてる奴らばっかなんだから、周りの目なんざ気にするこたぁねぇんだ」
耕作は大きく鼻をすすり、袖口で涙を拭った。空蝉の痩せた両肩を掴み、立ち上がらせる。
「空蝉、いや、お露、一緒に生きよう」
直後、激しい嗚咽とともに空蝉が耕作の胸に飛び込んだ。竜弥も小躍りして勇次に抱きついた。
「なんでおめぇに抱きつかれなきゃなんねぇんだよ」
「いいじゃん、いいじゃん。さすが俺の勇次、大好きだっ!」
「暑い。わかったから離れろ」
勇次の不機嫌な顔をよそに、竜弥は歓喜の輪の中にりんと喬史郎も招き入れた。だが、皆が歓喜に沸いているその場に、どす黒い影が忍び寄る。
「おう、てめぇら、随分と楽しそうじゃねぇか」
んっ?と振り返ると、般若のような顔をした男女ふたりがこちらを睨みつけていた。
「あっ、異母兄き。それにお染じゃん。ふたり揃ってどしたの? え、もしかしておふたりさんってそういう仲……」
ぷぷぷと竜弥がにやにや口を押える。般若の男・伊左衛門は怒髪天を衝く勢いで怒号を散らした。
「ふざけんじゃねぇっ! この俺様をこんな目に遭わせやがってぜってー許さねぇぞ!」
伊左衛門は腕を伸ばし、竜弥に掴みかかろうとした。咄嗟に勇次が竜弥を庇い、伊左衛門の腕を止める。
「ちょちょちょっ、ご楼主、待ってくださいよ。こんな目って、いってぇどんな目に遭ったってんです?」
「うるせーちきしょーばかやろー! 半十郎に山王さんのご本殿に閉じ込められちまったんだよ。あの野郎、ぶっ殺してやる! 首洗って待ってろい!」
勝手にわめき散らかした伊左衛門はどろぼう橋に向かって一目散に去って行った。残された一同は呆気にとられたままだ。
——なるほどね。半十郎さんがご楼主とお染をミサゴと雪之丞の身代わりにしたのか。
昨日丸一日日枝神社の本殿に閉じ込められていた二人が立腹するのも無理はない。勇次は合点がいったように頷いた。
だが一難去ってまた一難。もう一匹の般若が迫りくる。
「勇次さん、どうして私がこんな仕打ちを受けなきゃならないの? 私はただ勇次さんに会いたくて来ただけなのに」
縋りつこうとする腕を寸でのところでかわし、勇次は竜弥の背中に隠れた。りんは自分の背中に隠す。竜弥はずいっと前に出て、お染の前に立ちはだかった。
「お染、おめぇさん、俺という許婚がありながら勇次に乗り換えるなんてあんまりじゃねぇか」
よよよ……と袖で涙を拭う真似をする。バレバレの猿芝居に勇次は呆れ顔で天を仰いだが、なぜかお染はまんまと騙されてくれたらしい。
「竜弥さん……、そんなに私のことを想ってくれていたのね。ありがとう。でも、ごめんなさい。私、勇次さんのことが好きになってしまったの。許してちょうだい」
こちらもよよよ……とよろめいた。言うまでもないがお染は本気である。ほくそ笑んだ竜弥は調子に乗って猿芝居を続けた。
「ううん。実は、俺もおめぇさんに謝らなくちゃいけねぇことがあるんだ」
「まっ、何かしら?」
「俺も他に想い人ができちまったのさ」
「あらまぁ、じゃあ、おあいこね。良かった、私、心置きなく勇次さんと夫婦になれるんだわ」
お染が熱い視線を勇次に送る。残暑厳しい真っ昼間だというのに勇次の全身は鳥肌に覆われた。竜弥の猿芝居はまだ続く。
「お染、残念だが、それは無理な話だ。おめぇさんは勇次と夫婦にゃなれねぇ」
「え、どうして?」
「実は、勇次には想い人がいるんだ」
「ええええええっっっっっっ!」
目ん玉が飛び出るかと思うほどお染は眼球を剝き出しにして素っ頓狂な声を上げた。彼女がしばらく言葉を失っている間に、勇次は大慌てで竜弥に耳打ちする。
「おいおいおい、てめ、なに勝手に暴露しようとしてんだよ」
お染なんかにりんのことを知られたらそれこそ一大事だ。なんとしてでも竜弥の暴走を止めなければ。しかし竜弥は人差し指を勇次の唇に立て、にやりと目配せする。
「誰なのっ? 勇次さんの想い人って誰なのよっ!」
我に返ったお染は半狂乱で竜弥の衿に掴みかかった。竜弥は冷静にお染の手首を押え、禁断の告白を発してしまった。
「勇次の想い人、それは……」
「それは?」
「 お れ ♪」
にっこにこしながら竜弥は勇次と肩を組んだ。勇次の頭の中は一瞬で真っ白になり、身体は魂が抜けたように脱力している。
「そ、そんな……。勇次さんが竜弥さんとできてたなんて……」
「悪りぃな、お染。俺らそういう仲だからよ、勇次のことはあきらめてくんな」
すると時宜良く、呆然とするお染のもとへ下男が駕籠舁きを連れてやってきた。
「お染お嬢様、昨夜帰ってこないから心配しましたよ」
「帰るわよっ! こんなとこいっときだっているもんですか!」
お染がふたたび般若の形相で勇次と竜弥を睨みつける。
「あんたたち覚えてなさい! おとっつあんに言いつけてやるんだからっ!」
彼女はきーっ!と悔し気に歯ぎしりし、般若の形相のまま籠に乗りこんだかと思うとあっという間に去って行った。まさしく「嵐」というべきか。
「さー、これで邪魔者はいなくなったぜ。まさに大・団・円!」
両手を突き上げ、竜弥が破顔で高らかに笑う。
「おめぇってやつぁよ……」
呆れるやら感心するやら、勇次もりんと顔を見合わせた途端、互いに吹き出した。いつの間にか耕作も涙が引き、声を上げてげらげら大笑いしている。喬史郎も空蝉も腹を抱えて笑っていた。
「こりゃ、そこのおまえさん」
また面倒臭いのがやってきた。妙海だ。
「んだよ、クソ坊主。せっかくいい気分で旅立てると思ったのによ、あんたの酒焼け面なんか見たかねぇや」
相変わらずの竜弥の悪態に妙海は坊主頭に青筋を立てた。
「竜弥、おまえではない。わしはその男に用があるのじゃ」
妙海が指し示した相手を皆が見る。突然注目を浴びた喬史郎は面食らっていた。
「和尚さん、わしになんの用じゃ?」
「かしょうじゃ」と言い直しながら竜弥を押しのけ、妙海は喬史郎の前に立った。
「おまえさん、それは一昨日のおチビのものか?」
妙海は喬史郎が首から下げていた白い布に目を向けていた。それには小さな骨壺が包まれている。一昨日と言えば盆休みの日だ。はたと気づいた勇次が割って入る。
「妙海坊主、あんた、なんでこの中身が七星の骨だってわかったんだ?」
「七星? ああ勇次、一昨日おまえが連れていた禿か。あれはこの世のものではなかった」
さらりとのたまう妙海の発言に勇次と竜弥は全身の毛が逆立った。七星に感じた異質な臭いが死者の臭いであったことにあらためて気づいたのだ。それに加え、黒い遊神を追い詰めることと、父娘の悲劇を目の当たりにしたことですっかり忘れていた現実を思い出し、今さらながら戦慄が走った。
蒼褪めた顔で勇次が食ってかかる。
「あんた、気づいてたのか? だったらなんでそんとき教えてくんなかったんだよっ!」
「たわけっ! 教えてやろうとしたが、おまえたちが聞く耳持たずにさっさと帰ってしまったんじゃろが、この馬鹿者めらが」
仕方がないので昨日知らせに行ったら結界が閉じられていて遊郭に入れなかった、とぼやく。一喝された勇次と竜弥はうっ……と言葉を詰まらせ、互いにどつき合った。
「今度こそ極楽浄土へ往けるよう、経を上げてやろう。こちらへ参れ」
しゃっ…と数珠を握り直し、妙海は踵を返した。慈恵堂へ向かう彼の後を皆でぞろぞろとついてゆく。一行は「潮音殿」の扁額を仰ぎ見ながら堂宇で履き物をそろえ、昇段した。
正面では不動明王を左右に置き、慈恵大師が鎮座している。その尊顔はなんと穏やかで、なんと慈愛に満ちているのだろう。
気づくと先程まで浮ついていた心が鎮まっていた。目を閉じ、耳を研ぎ澄ませれば潮の満ち引きが聴こえてくる、実に摩訶不思議な空間だ。
勇次は読経を聴きながら薄目を開け、ちらりとりんを見た。目を閉じて静かに手を合わせる彼女にも、さざめく潮の美しい音色が聴こえているだろうか……。
次回は最終話「共に生きてゆくひと」です。