第44話 行かないで
「りん、どした?」
勇次は竜弥に並び、りんの顔をのぞき込んだ。勇次と目が合ったりんが一瞬驚いたようにはっと目を見開く。竜弥は、慌てて袖で目頭を押さえる勇次を背中に隠してりんに笑いかけた。
「おー、りん、握り飯作ってくれたんか? 気が利くなぁ。恩に切るぜ」
合掌した後、嬉しそうに笹の葉に包まれた3個の握り飯を受け取る。りんはえへへとはにかんだ。
「かわいー。りんってほんっといい子だよなぁ。働き者で気立てが良くてさ、俺、孔雀がいなかったら惚れてたぜ」
竜弥が小さなりんの頭をなでなでする。
「あっ、てめ、気安く触んじゃねぇっ」
勇次はわたわたと竜弥の手首を掴んでりんから引き離した。
「おめーだってどさくさに紛れて何度も抱きしめてたじゃねぇか」
ひぃふぃみぃと竜弥が指折り数える。
「俺はいいんだよ」
「はいはい。次に俺が帰ってきときにゃいい報せ聞かせてくれよな」
真っ赤な顔で睨みつける勇次は無視し、前傾姿勢を取ってりんに語りかける。
「勇次のこと、頼んだぞ」
勇次を指差してから片手で拝む竜弥をじっと見ていたりんは、彼の言葉を理解したようだ。満面の笑顔で自分の胸をドンっと叩いてみせた。
「おー、わかってくれたか。りんは賢いな」
またしても竜弥が彼女の頭に手を伸ばそうとしたので、勇次は慌ててその手を掴んで阻止した。まったく油断も隙もあったものではない。竜弥はけらけら笑いながら握り飯を懐に入れた。
「じゃあ、もう行くな。孔雀のこと頼んだぜ」
「なんだよ、それ」
「だって、こんな大事なことおめぇにしか頼めねぇじゃん」
ふふんと鼻を鳴らし、竜弥が廊下を歩き出す。ばかやろ……と呟き、勇次はりんを連れて後に続いた。
鼻歌交じりに竜弥が玄関で草鞋を履いていると、ミサゴが片足を引きずってやってきた。昨日の今日でもう歩けるのかと、サンカの強靭な肉体に驚く。とともに、急所を外してくれた甚吾郎の心意気にも感心した。
「竜弥さん、達者でな」
「うん。色々巻き込んじまってすまなかったな。怪我が治るまでゆっくりしてってくんな」
言いながらミサゴに微笑みかけた後、勇次に視線を移して目配せする。勇次もひとつ瞬きをし、小さく頷いた。
竜弥が草鞋の紐をキュッと締める。彼はいつしか義姉お亮が背後に立っていたことに気づいた。
「道中、気をつけるんだよ。くれぐれも命を粗末にするんじゃないよ」
厳しい口調の中にも義弟を案じる思いがひしひしと伝わってくる。義弟が何をしようとしているのか詮索するような野暮な真似はしない。反面、帰ってきたらなにも訊かずに受け入れてやろうというやさしさが明眸いっぱいに溢れている。
竜弥は立ち上がり、義姉と向かい合った。きりりと眉尻を上げ、神妙な顔を見せる。
「お義姉さんも甚さんと幸せにやっておくんなまし」
「竜弥、おまえ、自分の異母兄さんがわっちの亭主だってこと完全に忘れてるだろ」
「だはっ」
片目を瞑りコツンと頭に拳を当てる義弟を見て、お亮は意外にも吹き出した。勇次も呆れつつ、思わず笑ってしまった。
勇次はお大師様まで見送ってくると言って、竜弥とともに暖簾を出た。りんにも手招きをして一緒に来るよう促す。
大門を出てゆく3人の背中を見届けたお亮が暖簾に入ろうとした折しも、彼らと入れ違うように飛脚が文を持ってやってきた。また放蕩亭主伊佐衛門のツケ証文かと戦々恐々しながら受け取る。恐る恐る見ると宛名は竜弥だった。
今から追えばまだ間に合う。お亮は急ぎ暖簾を出ながら文を裏返し、差出人を確かめた。
——大江卓……?
不意に足を止める。いつぞや届いた文の差出人は「陸奥陽之助」という名だったことを思い出したのだ。その男とはまた違う名に、何故か胸騒ぎを覚えた。
——勇次にも見てもらおうかねぇ……
それとも甚吾郎に相談しようか、などと考えあぐねているうちに刻は容赦なく過ぎてゆく。あれやこれやと思い悩んだ末、お亮はその文を懐に仕舞った。
——竜弥、必ず帰ってくるんだよ。
こうすることが彼にとって正解なのかはわからない。ただ、今は義弟の無事を祈るばかりである。
お亮は帳場に入り、番頭松吉を呼び寄せた。
勇次、竜弥、りんの3人が喜多院の境内に入ると、慈恵堂の前ではすでに耕作と喬史郎が待っていた。
「お待たせーっ。さ、行こ行こ」
にこにこと手を上げる竜弥の衿首を、勇次はむんずと捕まえた。
「お大師様にお詣りしてからだろ」
ああそうだった、と無邪気に笑う竜弥の背を押し、手水舎まで追いやる。まったく世話の焼ける野郎だぜとぶつくさ垂れながら戻ると、耕作が柳行李から毒消しの丸薬が入った袋を取り出していた。荷物は思いのほか少ない。彼の質素な部屋を思い出す。いつでもすぐに逃げられるようなるべく荷物を少なくしていたのだと、あらためて納得する。
「短い間でしたがお世話になりました。勇次さんにはなんとお礼を言ってよいのか……感謝してもしきれません」
勇次に薬袋を渡しながら耕作が深々と頭を下げる。
「耕作さんまで行っちまうとなるとちょいと寂しいな」
喬史郎とともに故郷の芸州へ帰ると決めた耕作の意志を尊重したい気持ちはあるものの、やはり彼がいなくなってしまうことには一抹の寂寥を感じる。
勇次は鼻を掻きながらりんをちらりと見た。彼女も寂し気にうつむいている。
「りんちゃんも色々ありがとう。これからもずっと勇次さんのそばにいてあげてくださいね」
耕作はにやにやとりんから勇次へ視線を移した。頬を赤らめる勇次を見上げ、りんは不思議そうに首を傾げている。
「やややだなぁ、耕作さん。りんは俺の妹……」
「ふふふ、勇次さんはわかりやすいですね。どんな事情があるのかは訊きませんが、くれぐれもバレないようにお気をつけくんなまし。って合ってます? 武州の廓言葉」
いや、ちょっと違うかな、と袂で冷や汗拭き拭き勇次は苦笑した。と、そのとき慈恵堂の陰から下駄を走り鳴らす人影が現れた。
「緑山さん!」
がこがこと下駄の鳴る音とともに女の真に迫った声が境内に響く。
「空蝉……」
そこには息を切らして駆けてくる空蝉の姿があった。
「空蝉、おめぇ、どうやって大門出てきた?」
見ると彼女は片手に通行手形を握りしめている。もう片方の手には証文らしき紙が2枚あった。激しい呼吸で声も出せず、無言で勇次にそれを差し出す。
「なんだこれ?」
くしゃくしゃになった紙を広げ、確認する。ははぁと顎に手を当て、仔細を問おうと怪訝に顔を上げた。が、空蝉は勇次には目もくれず、耕作と対峙していた。
「緑山さん、わっちを置いてかないどくれ。後生だから独りにしないどくれよ」
涙をぼろぼろ流して耕作にすがりつく。なんの迷いも算盤もない雫に耕作の心は激しく揺らめいた。
「空蝉、わしゃぁ緑山じゃぁない。わしゃぁ耕作ゆぅて芸州の制外者なんじゃ」
空蝉に情を移すわけにはいかない。彼女の借金は15匁、さほど時を置かずに返済できる額ですぐに平人へ戻れるのだ。耕作は心を鬼にして彼女を突き放した。
「あんたはわしとおったらいけん。あんたは邑咲屋さんにええ身請け先を見つけてもろぉて幸せになるんじゃ」
「平人になんか戻らなくたっていい。あんたが何処の誰だってかまうもんか。わっちはずっとあんたと一緒にいたいんだ」
後生だからと空蝉はその場にずるずると泣き崩れた。
「わっちも連れてっとくれよぉ……」
「芸州は遠い。女子の足じゃぁたどり着けんぞ」
耕作は玉砂利に爪を立てる痩せた手を見つめた。土の色が染みついたこの手は間違いなく百姓の手だ。自分と同じ手をこの女は持っている。想い人を友と奪い合った苦しみも、愛しい我が子を喪った悲しみも、この女とならすべてを理解し合い、分かち合っていけるかもしれない。
「耕作、やっぱしあんたは川越に残れ」
喬史郎の声に顔を上げる。耕作の顔は涙に濡れ、目は真っ赤に染まっていた。
「喬史郎……。んじゃけど、あんたのその足じゃぁ安芸までよう歩けんじゃろぉ」
耕作は、喬史郎が3年前に銃弾で負傷した足を見た。この足でよくぞ川越まで辿り着いてくれたと感慨を深くする。
「それなら心配いらねぇよ。俺がちゃあんと芸州まで送り届けるから安心しな」
いつの間にか参拝を終えて戻ってきていた竜弥が喬史郎の肩に腕を回す。それでも耕作は恐縮することしきりだ。
「しかし、竜弥さんの行き先は摂州でしょう? 安芸まで付き合わせるなんて申し訳ないですよ」
「俺は別にかまわねぇよ? 摂州も芸州もあんま変わんねぇだろ」
いや間に吉備の国が入る、いや倉敷で吉備団子を食べたいから丁度いいだのなんだのと言い合う横で、勇次は大きな溜め息をついた。
「竜弥、おめぇはちょいと引っ込んでろ」
竜弥の提髪を引っ張り、後ろに立たせる。それから耕作を向いた。
「耕作さん、これ見てくれるかい?」
勇次の声で皆が動きを止めた。こちらを注目する彼らに、先程空蝉から受け取った証文2枚を広げて見せる。
「こっちの1枚は空蝉を雇ったときの借用証文、でもってこっちのは俺が空蝉の娘の診療代と薬礼を立て替えたときの前借証文だ。見てみ、同じ額が記されてるだろ。つまり俺が立て替えた分を空蝉の借金としてそのまま横滑りさせてあるんだ」
ここで空蝉を見下ろし、訊ねる。
「空蝉、これ、誰に渡された?」
彼女は文盲のため証文に何が書いてあるのかはわからない。となると通行手形とともにこれを彼女に渡したのはさしずめ……。
「女将さんだけど」
やはりな、といったふうに勇次は目を閉じた。
——姉ちゃんも随分粋な真似してくれるぜ。
姉の粋な計らいに感服する。勇次は再び視線を耕作に戻した。
次回は第45話「勇次の想い人は」です。