第43話 心友
奥井戸周辺に響いた男の声に、その場にいた者たちの視線が一斉に集められた。
「わしが井戸に毒を盛ったんじゃ。わしが下手人じゃぁ。みなわしひとりでやったことなんじゃ」
声の主は喬史郎だった。彼はその場に膝をつき、土下座をして地面に頭をこすりつけた。
「わしがいけんのじゃぁ。罰するんじゃったらわしを罰してぇや」
「喬史郎! なにを血迷っとるんじゃ! 井戸に毒を盛ったなぁ……」
「黙れ、このカバチタレ!」
駆け寄る耕作の胸倉を掴み、喬史郎は彼を思い切り殴り飛ばした。たまらず尻もちをつく薬売り緑山の姿に住人らの悲鳴が上がる。
突然のことに場が騒然とする中、喬史郎は甚吾郎に身体を向け、正座したまま両手を差し出した。
「わしゃぁどうなってもええ。いっぺんは死んだも同然の身じゃ。好きにしてぇや」
「喬史郎……」
耕作の顔は驚愕と哀苦に歪み、言葉は行き場を失った。頑なな決意に近寄ることさえ許されず、今はただ茫然と友を見つめることしかできないでいる。
「甚さん、どうするんだい?」
お亮の問いに、甚吾郎は背中で答えた。
「ひとまずこいつは金舟楼で預かる。勇次、引っ立てろ」
勇次は声にならない声で「へい」と小さく頷き、喬史郎のもとにしゃがみこんだ。
「すまねぇがしばらく堪えてくんな」
姉から手拭いを借り、喬史郎を後ろ手に縛る。立ち上がる動作に紛れて耳元で囁いた。
「悪いようにゃしねぇよ」
喬史郎は頷くでもなく、そっと笑った。歩き出す前に勇次が耕作を振り返る。
「緑山さんは毒消しの丸薬を作っといてくれ」
目配せをし、前を向く。喬史郎とともに歩き出す勇次の背に、耕作は突っ伏したまま頭を下げ続けた。
「挨拶は済んだのか?」
金舟楼から戻ってきた勇次は、2階から降りてくる竜弥を階段下で待ち構えていた。腕組みして手摺にもたれるその柳眉は怒りよりも呆れている。
「まぁな」
含みを残して竜弥は勇次の前を通り過ぎた。多くを語らないときは何かを企んでいる。幼い頃から共に過ごした仲だ。それくらいは容易く察しがつく。
「ほんとに大丈夫なのか? 孔雀は納得してるのか?」
「大丈夫、大丈夫」
竜弥は軽くいなしながら勇次の部屋に入り、旅支度をはじめた。寝食を共にしたこの部屋ともしばしのお別れだ。
「勇次こそおめぇはどうなんだよ?」
「あ?」
「俺のことよりてめぇの心配しろっつうの」
脚絆を結ぶ竜弥の背中が小刻みに震えている。こういうときはにやにやしているのだ。勇次は「ほっとけ」と小さく呟き、吉原繋ぎの浴衣を脱ぎはじめた。
「にしても、喬史郎さんが所払で済んでホッとしたぜ」
「だな。さすが甚さん、仕事が早ぇわ」
喬史郎は金舟楼にて面番所の同心立会のもと取り調べを受けた結果、川越を所払という処遇に至った。極刑を望む声もあったが、死人が出なかったことと、甚吾郎の強い圧力によって厳罰に留まることとなったのである。
事情や経緯はさておいて、今回の奥井戸事件に関しては一件落着となった。その一方で勇次にはまだ腑に落ちないことがあった。海松色の長着に袖を通しながら、その疑問を竜弥にぶつけてみる。
「結局、耕作の百姓仲間は何が狙いだったんだろな?」
「さぁな。俺、馬鹿だからわかんねぇや」
竜弥はいそいそと支度を整えている。カマをかけてもはぐらかされるのはいつものこと。勇次も慣れたものですべからく次の手札を用意していた。
「芸州のかくし閭を滅ぼしたのは耕作とその百姓仲間だって、喬史郎さん言ってたろ。なんで百姓が制外者を排除する必要があるんだ? だって穢多や非人や制外者がいなかったら自分たちが一番下の扱いになっちまうんだぜ。そんなやつらを消す意味がわからねぇ」
「俺もわかんねぇ」
竜弥が素っ気なく答える。帯を締め終えた勇次は、竜弥の首根っこをむんずと捕まえた。
「おめぇ、なんか知ってんだろ。顔に書いてあるぜ」
えーっ、と頬に手を当て竜弥がおどける。だが、すぐに大きな溜め息をついた。
「わかった、わかった。わかったから離せよ」
勇次の手を振り払う。意外と早く降参した。やはり勇次にはかなわないらしい。
「けど、昨日も言った通り、俺だけの問題じゃねぇから全部話すことはできねぇぞ」
「命を狙われかねねぇってことか?」
「ま、そんなとこだ」
「おま……」
だが勇次が竜弥の衿を掴もうとするより先に、竜弥が勇次の手首を掴んだ。
「勇次、百姓どもにゃ気をつけろ」
竜弥の鋭い眼差しが勇次の動きを止めた。いまだかつて竜弥がこれほどまでに強い瞳を向けたことがあっただろうか。勇次は無意識に腰を落とし、胡坐をかいていた。
「俺は元百姓だぜ。気をつけろってどういう意味だよ」
「おめぇが制外者になって何年経つよ? おめぇが百姓やってた頃たぁ時代が違うんだぜ」
竜弥は掴んでいた勇次の手を下ろし、彼の膝に置かせた。
「知ってるか? 穢多頭の弾左衛門はもう何年も前から平人にしてくれってお上に願い出てたんだぜ。それが、長州征伐で上方の革田たちをまとめた見返りにやっと平人の身分に引き上げてもらえたんだ。ただでさえ弾左衛門は年貢に苦しむ百姓より裕福な暮らししてたってのによ、そのうえ身分まで同じになっちまったら貧乏百姓は面白かねぇだろ」
たとえ貧困にあえいでいたとしても、自分たちより侮蔑の対象がいたから堪えてこられた。だがその存在がいなくなってしまったら農民としての矜持は保たれなくなってしまう。それどころか職業差別もなくなれば彼らに仕事を奪われ、ますます貧困は深刻になるかもしれない。それを危惧した農民が被差別民を排除しようと画策したのではないか——。竜弥の話ではそう聞こえる。
「そんなのただの逆恨みじゃねぇか」
被差別民を排除したところで農民の貧困がなくなるわけではない。根本的な改革が必要とされるのだ。それをやるのは言わずもがな国である。
「勇次さ、3月に公議所ってのができたの知ってたか?」
「あー、そういやご楼主がそんなこと言ってたな。藩からひとりずつ集めて意見言わせるってとこだろ。たしか、どこだかの藩のやつが穢多と非人の身分を無くしてやれって……」
そこで勇次ははっと瞼を開いた。そのことを知った一部の農民が危機感を募らせたということか。
「じゃあ、耕作の百姓仲間もそれで……?」
農民と被差別民との諍いは、江戸時代に身分制度が確立されて以来日本各地で頻繁に起こっていたことであり、何も今回に限ったことではない。その都度被差別民は理不尽に弾圧を受け煮え湯を飲まされてきた。だが、公議所の議題に上がるようになったことからもわかるように、被差別民解放の機運は高まりつつある。明治政府が彼らの意見を政策として取り入れたとしたらどうだろう。長年重税に苦しめられてきた農民らの溜まりに溜まった鬱屈が爆発してしまったら、かくし閭襲撃くらいでは済まないかもしれないのだ。
しかし竜弥は涼しい顔で言い放った。
「けどまぁ、公議所、もうないぜ、多分」
事実、去る7月8日に公議所は廃止となり、集議院に改組されている。公議所設立は明治政府が新時代の幕開けを知らしめるための茶番だったと竜弥はせせら笑う。
「とどのつまり、いつの時代もお上なんか信用なんねぇってことだよ。けどよ、お上が動かなくっちゃ何も始まらねぇのも事実だ。なのに公議人どもが、やれ西欧化しろだ、やれ反対だのって自分らの意見を押し付け合って対立ばっかでちっとも議論が進まねぇ。てなわけでこんなとこ要らねぇってなって、はい解散。要するに俺らはお上に振り回されっぱなしってこったな」
いつしか真顔で語る竜弥に、勇次は驚きを隠せなかった。政治などには全くもって無関心だと思っていた彼が、これほどまでに政治に心を寄せることになろうとは想像だにしていなかったのだ。
真顔のまま、竜弥は勇次を見据えた。
「なぁ、勇次。おめぇ、かくし閭がなくなればいいなんて思ったこと一度もねぇって言ってたよな。けど俺は違う。遊郭もかくし閭も、この世からなくなっちまえばいいと思ってる」
「は? なんでだよ。じゃあ行き場を失くした人間はどこ行きゃいいんだ? 野垂れ死ねってのかよ」
「そうじゃねぇ。俺はなぁ、かくし閭なんかなくたって誰もが生きてける世の中を作りてぇんだ」
「絵空事ぬかしてんじゃねぇ。おめぇは故郷を追われことがねぇから言えるんだ。百姓にゃ気をつけろってなんだよ。おめぇに水飲み百姓の何がわかるってんだ。わかってたまるかよ、お坊っちゃんなんかによ」
勇次は竜弥の衿を掴んだ。借金取りに怯え、妹を父に殺され、自分も父に殺されかけた。寸でのところで姉お亮に救われ、命からがら姉弟で逃げ落ちたあの日の故郷の景色を忘れることなどできようはずもない。
込み上げる激情に絡めとられたその手に、竜弥が己の掌を強く重ねる。
「たしかに俺は苦労知らずのわがままなお坊ちゃんだったけど、勇次は友達になってくれたじゃん」
「……!」
「制外者の俺だけど……」
真っ直ぐ向かってくる竜弥の瞳を見つめる。澄んだその奥は素直に微笑んでいた。
「生まれて初めて平人の友達ができて、俺、嬉しかったんだぜ。ま、正確にゃ元平人だけどよ。取っ組み合いの喧嘩してもなかなか勝てなくてさ、それでも、力でねじ伏せなくても仲良くしてくれるやつがいるんだって、ほんっと嬉しくって……」
竜弥の言葉を聞きながら、勇次は震える唇を噛みしめた。
九死に一生を得て上州から逃げ出し、非人生活を経てようやく辿り着いた武州川越。そこで自分ら姉弟を待っていたのは明日食うにも困窮する百姓暮らしとは程遠い豪華絢爛な遊郭だった。それは満開の花が咲き乱れる春のごとく美しく、黄金の島と見紛うほど煌びやかで、そして魑魅魍魎の巣食う醜い苦界。そこで自分と同い年でありながら何不自由なく育ってきた竜弥に嫉妬し憎悪を募らせた。それでも、ときに競い、争い、心のすべてをぶつけ合ったふたりは、やがて互いを認め合う無二の存在となる。ましてやこの男は、屈託なく自分のことを「友」と呼ぶ——。
零れそうな思いを見せたくなくて、赤くなった目を斜め上にやる。竜弥は衿から勇次の手を外し、その両手をぎゅっと包み込んだ。
「だから、な、心の友よ」
「んっ?」
勇次の隙を突いて竜弥は立ち上がり、脱兎のごとく障子を開けて飛び出した。その間、瞬きに及ばず。
「あっ、竜弥、てめこのやろ、待ちゃーがれっ!」
またしてもやられた——。臍を噛む思いで竜弥の後を追う。だが、廊下に出たところで竜弥の背中に撥ね返された。このまま逃走すると思われた竜弥が立ち止まっていたのだ。
「痛ってぇな、おいっ、おめ、急に止まんなよ」
「りん……」
竜弥の呟きに、顔を押えたまま片目を開ける。と、彼の眼前にりんが握り飯を持って立っていた。
次回は第44話「行かないで」です。