第42話 一緒に帰ろう
「お涙頂戴の座興は終ぇだ。てめぇらの茶番劇に付き合わされた挙句、これで大団円なんて許さねぇぞ」
憤りを湛えながらも冷静に甚吾郎は言い放った。お亮もふうっと吐息を漏らす。
「そうだねぇ。耕作の復讐に巻き込まれた朱座はこのあとどうすりゃいいんだい? まさか逃げ得とかじゃないだろね?」
袖の中で腕を組み、怒りに満ちた明眸を耕作に突きつける。まだ奥井戸は穢されたまま、問題が解決したわけではないのだ。勇次はごくりと息を呑んだ。
「姉ちゃん、今、感動の嵐が……」
「お黙り」
だが姉にぎろりと睨みつけられ、あえなく言葉を呑み込む。お亮は視線を弟から甚吾郎へ移した。彼の言動を静かに見守る。勇次も竜弥も皆、緊張の面持ちでそれに従った。
「耕作、答えろ。どうしたら奥井戸は浄化される? 黒い遊神を造る片棒を担いだおめぇなら知ってるはずだ」
「申し訳ないのですが、私はそこまでは知らないのです」
甚吾郎は引き金に人差し指を掛けた。リボルバーには安全装置がない。人差し指に力を込めれば弾丸は発射される。
「本当に知らないのです」
耕作は両手を上げたまま慌てて答えた。だがそんな一言で簡単に許してくれるような甚吾郎ではない。
「しらばっくれんじゃねぇ。曲がりなりにも薬売りだろ。毒消しの丸薬を作れるなら井戸の水を浄化するくれぇ朝飯前だろがよ」
「知らないものは知らないのです。信じていただけないのなら引き金を引いてくださってもかまいません」
耕作の瞳は覚悟に満ちている。苛立ちを募らせ、甚吾郎は銃を握りしめた。
「ほかに知ってるやつはいねぇのか」
「黒い遊神を造った反魂の術の使い手ならば知っているかもしれません」
「そいつは今どこにいる」
「……わかりません」
甚吾郎はちっ…と舌打ちし、銃口を上に向け天を仰いだ。いつの間にか月が白い。東の空も薄っすら白みはじめている。
反魂の術の使い手を探そうにも手がかりがない。おそらく三方山からはすでに引き払っているだろう。こうしている間にも時は刻一刻と過ぎ、焦りの色は広がる一方だ。
すると、皆が考えあぐねているときだった。事態が急変する。
「お七!」
突然、喬史郎が悲鳴に似た声を響かせた。はっと一同が彼を一斉に注視する。
「あっ!」
誰ともなくその光景に驚きの声を上げた。見るとお七の手足の先が、まるで砂山が崩れるようにさらさらと零れ落ちていっているではないか。
「おとうちゃん、おうちいのう。うち、ぶちえらぁわ」
お七はあどけない顔で喬史郎を見上げた。お家へ帰ろう、すごく疲れたよ……そう訴える幼気な瞳が鋭く胸を抉る。
徐々に軽くなってゆく小さな身体を抱きしめ、喬史郎は声を上ずらせた。
「お七、お七。うん、うん、いのうな、安芸に一緒にいのう」
お七は耕作をも振り返った。
「耕作おじちゃんも一緒にいのう」
「……お七……、わしんこと覚えとるんか……」
胸の奥からえも言われぬ感情が込み上げる。刹那、涙が一気に溢れ出し、耕作は真っ直ぐお七に駆け寄った。だが、さらさらと崩れゆく身体にどう触れたらよいのかわからない。迂闊に触れれば一瞬で崩れてしまいそうな勢いで、お七の崩壊はもう止められないところまで来ている。
「お七、お七!」
耕作は崩れるようにして膝を落とし、手を着き、為す術も無く泣き叫んだ。
「すまんじゃった! わしが黒い遊神なんかにしたけぇ……!」
なりふりかまわず声を張り上げる。だが無情にもお七の小さな肩は、紅い頬は、緑の黒髪はさらさらと崩れていった。
「人の心を取り戻したのさ」
勇次らが声のする方を振り返る。金舟楼の廻り縁を仰ぎ見ると朱座遊神の宗宮城が腰掛け、こちらを見つめていた。
黒い遊神が滅びるとき——、それは人間だった頃の記憶を取り戻したときだ。お七は今、ようやく人間の心を取り戻したのである。
視線をお七に戻す。慟哭に震える喬史郎の腕の中に彼女の姿はすでになく、赤花模様の可愛い袖がひらひらと揺れるだけ。その足元には雪之丞からもらった簪と海棠色の結綿が落ちていた。
お亮なのか孔雀なのか、女の咽ぶ声だけが聴こえる。そのとき初めて如意が動いた。彼女は懐から御簾紙を取り出し、喬史郎の足元に膝をついた。
一同が如意の一挙手一投足を無言で見守る。彼女は粉塵と化したお七の残骸をやさしく丁寧に拾い集め、2枚の御簾紙に分けていた。
そのうちのひとつを喬史郎に差し出し、もうひとつを甚吾郎に渡す。
「そっちはあんたたちが持ってていいそうだ」
甚吾郎は残りの残骸を受け取りながら、喬史郎と耕作に告げた。
「甚さん、そっちのはどうするんだい?」
勇次が甚吾郎の手にある御簾紙を見る。甚吾郎が如意に目を向けると彼女はすでに歩き出していた。
「ついて来いだと」
踵を返す甚吾郎の後に皆が続く。結界を解かれ気を失った蜩は、権八に迎えに越させた。彼女を操る黒い遊神はもういない。彼女も元通りだろう。
勇次は泣きじゃくるりんの肩を優しく抱き、最後尾からついていった。
如意は広小路を渡り、茶屋見世通りを過ぎ、商店や職人長屋のある一角へと進んだ。彼女が向かった先は奥井戸だった。
奥井戸の前で立ち止まった如意が、何やら甚吾郎に目配せしている。彼女の言わんとするところを理解した甚吾郎は、勇次に蓋を開けるよう伝えた。
「私もやります」
耕作も進み出た。これから起こるであろう事をすでに予感していたのだろうか。勇次とともに厳重に封鎖された井戸の蓋を慎重に外す。
東の空が朝焼けに染まっている。皆が静かに見守る中、甚吾郎はまだ薄暗い井戸の中を覗き込み、手にしていた御簾紙を井戸側の上で傾けた。
朝陽に照らされた粉塵がきらきらと光を放ちながら、さらさらと井戸の中へと吸い込まれてゆく。すべての粉塵が水中に消えたのを見届け、甚吾郎が振り返った。
「如意、これでいいか?」
如意は大きく頷いた。甚吾郎も頷き、皆をぐるりと一望した。彼らはまだ身じろぎひとつしていない。
「さて、これで本当に井戸の水が浄化されたかどうか、まだわからねぇ。金魚掬いの金魚も全部使っちまったしな。この中で誰か試しに飲んでみる勇気のあるやつはいるか?」
「私が飲みます」
真っ先に手を上げたのは耕作だった。しかし——。
「りんっ! なにやってんだ!」
勇次が素っ頓狂な声を裏返した。なんと耕作より先にりんが鶴瓶桶を落として水を汲み上げていたのだ。お亮も真っ青になった。
「おやめ、りん! おやめったら!」
「ばかっ、やめろ! おめぇに飲ませるくれぇなら俺が飲む!」
だが勇次が止める間もなく、りんは桶をしっかと抱えて水に口を付けた。勇次が慌てて奪い取るも時すでに遅し。りんは喉を鳴らし、ごくりと水を飲み込んでしまった。
一同が声を失う。
「……わかった、りん、おめぇをひとりで逝かせはしねぇ」
勇次も一緒になって桶に残った水を飲み出す。そばで呆気に取られていた耕作も我に返った。
「私にも償いをさせてください」
彼も勇次から桶を奪い、残りの水を平らげた。甚吾郎や竜弥は口を開けてその光景を見つめている。お亮も袖で隠した口はあんぐりと開いていた。弟の馬鹿さ加減に呆れ果てているといった感じだ。
「何が起きてるんだい?」
盲目の遊神孔雀が竜弥に訊ねた。りんが真っ先に井戸水を飲み、それを勇次が止めて云々を竜弥が説明しながらけらけら笑う。初めから致死量ではないのだ。それを「逝かせない」とはなんと大袈裟な。解毒されていなくとも、せいぜい腹を壊す程度である。
「勇次ってときどき馬鹿だよな」
「うっせ。おめぇだけにゃ言われたかねぇや」
勇次は竜弥を睨みつけた。半面、彼の明るさに救われている自分もいる。
「けど、まぁ、なんか大丈夫そうだな」
笑いながら両手足をぶらぶらさせた。りんはにこにこと満面の笑みを湛えている。頬にまだ残る涙の跡を拭ってやると彼女は恥ずかしそうに慌てて水を汲み上げ、顔を洗った。皆の顔に笑顔が戻った瞬間だ。
それでも耕作ただひとりは浮かない顔で首を横に振る。
「いいえ、まだ油断してはいけません」
症状は後になってから現れる可能性も否めないとし、万一に備え毒消しの丸薬を作っておくと言って身を翻した。だが——。
「待ちな」
耕作の前に立ちはだかったのは青屋の夫婦だった。彼らだけではない。茶店の女将や酒屋の亭主等々、商店街や職人長屋の面々がいつの間にか勇次たちの周りを取り囲んでいたのだ。今し方の騒ぎに目を覚まし、わらわらと起き出してきたのだろう。
「下手人は見つかったのかい?」
青筋立てて茶店の女将が進み出た。これ以上商売を休んでは死活問題にかかわる。甚吾郎もそれはわかっていた。
「下手人はまだだが井戸はおそらく元通りだ。念のため今日の昼見世までは休んで様子を見るが、夜見世からは使えるだろう」
だが、住人らは簡単に引きさがろうとはしなかった。
「下手人は捕まえたのかって聞いてるんだよ!」
井戸が使用可能になった喜びよりもやり場のない怒りが大きすぎて、込み上げる苛立ちを甚吾郎たちにぶつけているのだ。
「だから、ちょっと待っててくれって……」
甚吾郎が珍しく焦りの色を見せる。そこへ耕作が声を上げた。
「下手人は私……」
だが、耕作の告白をかき消すように違う男の声が奥井戸周辺に響き渡った。
「わしがやったんじゃ!」
次回は第43話「心友」です。