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非公許遊郭かくし閭(ざと) 巻の弐《黒い遊神》  作者: 阿羅田しい
第1章 新座者(しんざもの)
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第4話 御曹司

※歴史上の人物が登場しますが、実在の人物とは一切関係ありません。

 『邑咲屋』の花魁道中一行が、狭山入間川村の豪商『山下屋』の当主綿貫淑之と惣領徳隆を連れて引手茶屋から戻ってきた。

「ご楼主、やっと()ぇってきたな」

 勇次は姉お亮にそっと耳打ちした。お亮がうんざり気味に頷く。今日からまた数日間放蕩亭主の相手をしなければならないのかと思うと少々、いや非常に気が重い。

「山下屋さんにご挨拶するってさ。わっちも顔出すからおまえもいておくれ」

 伊左衛門が頓珍漢なことを言い出さないように見張っている必要があるのだ。

「胡蝶の新造出しでは山下屋さんに全額おんぶに抱っこだったからね。粗相のないようにしないと」

「そうだな。胡蝶は水揚げも山下屋さんに頼むことになるだろうから、機嫌損ねないようにしねぇとな」

「うちのひと、余計なこと言わなきゃいいんだけど……」

 場の空気を読まない伊左衛門の発言に、これまで幾度肝を冷やしてきたことか。

「しこたま飲ませてとっとと潰しとくか」

「そうだね。それにかぎるね」

 姉弟ふたりで頷き合う。

 ふと勇次は夕方高林謙三医師から聞いた話を思い出した。もし武士の秩禄がなくなり、山下屋綿貫家への借金が滞納、あるいは返済されなかったとしたら綿貫家はどうなってしまうのだろうか。それとも、そんなことではびくともしないだけの財力があるというのか、制外者(にんがいもの)の自分には大富豪の経済状況がまったく想像つかない。


 座敷の戸を引き、伊左衛門、お亮に続いて中に入ると、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛える綿貫親子の姿が目に入った。金持ちならではの余裕だろうか。

 ——取り越し苦労だったか。

 杞憂に終わるならそれでよい。とりあえず今は目の前の仕事に集中だ。

 勇次は三味線と(ばち)を手に取り、花魁孔雀の傍らに腰を下ろした。伊左衛門が一通りの挨拶を済ませ、皆で酒を酌み交わすと、盲目の孔雀は勇次の膝に手を置いた。それを合図に勇次が三味線の弦に撥を当てる。いざ弾かんとした、そのときだ。

「しかし、お侍さんたちの金払いの悪さにはほとほと困ったもんですな」

 がははは!と大口を開けて伊左衛門が笑いだす。これから孔雀の歌声を聴こうと期待に胸を膨らませていた面々は興醒めだ。

「おまえさん、そういう話はお座敷ではちょっと……ね」

 お亮が慌てて遮るも伊左衛門は馬耳東風。

「その点、山下屋さんはさすがですな。胡蝶の新造出しもすべてお任せできたし。いずれこの孔雀の身請けも……」

「ごっご楼主! やだなぁ、酔っ払っちゃって。旅のお疲れが残ってるんじゃないですかい? そろそろ戻って休みましょう」

 今度は勇次が身体を張って伊左衛門の前を塞いだ。

「ああ? なんだ、勇次? たかが若頭の分際で俺に指図するんじゃねぇよ。だいたい誰のお陰で跡取りになれたと……」

 どすっ……! 勇次の拳が伊左衛門のみぞおちに入る。一瞬で崩れ落ちる伊左衛門の身体を押さえながら勇次は富蔵を呼んだ。

「富蔵、ご楼主が酔いつぶれちまったみてぇだ。内証に連れてってくれ」

「へいっ」

 元力士の妓夫富蔵は軽々と伊左衛門を担ぎ上げ、1階の内証へと運んでいった。

「すみませんねぇ、お見苦しいとこお見せしちまって。うちのひと、下戸のくせについ飲み過ぎちゃうんですよ」

 おほほほとお亮が顔を引きつらせ、綿貫親子を向く。父親のほうの淑之はまったく気にしていない様子だ。

「女将、心配せずともよい。ツケを溜めるなどということはせぬゆえ」

「あらやだ、心配なんてしませんよ。代々登楼してくださる山下屋さんには感謝しかありませんもの。これに懲りず、末永くお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます」

 深々と頭を下げるお亮の横で、勇次も同じように頭を畳にこすりつける。その頭上から、この世のものとは思えぬ歌声が流れ落ち、耳の奥をやさしくくすぐった。

(いり)()()の~()()()が原のい()()つら~引かばぬるぬる()にな絶えそね~……」

 倶尸(くし)()の歌声は花魁孔雀だった。座敷のみならず妓楼中の空気が一変し、まろやかになる。ほかの部屋にいた客も遊女も、妓夫や使用人に至るまで、その声色にうっとりと聴き惚れ、至福のひとときを共にした。

「こちらこそ、いわいづらのようにご縁が切れることのないようお願いするよ」

 孔雀の歌が終わると、淑之は機嫌よく立ち上がった。胡蝶に添い寝してもらうと言って座敷を出てゆく。今年の正月に15歳になった胡蝶は禿(かむろ)を卒業したばかりだ。振袖新造の彼女は17歳になるまで客を取ることはできない。しかし姉女郎の代わりに添い寝はできる。淑之もいずれ彼女を水揚げすることを想定しているのだろう。

「私もそろそろ床に入ります」

 息子の徳隆も孔雀の手を取った。初登楼の臆病ぶりとは打って変わって、今では堂々としたものである。

「ごゆるりと」

 お亮をはじめ勇次以下の者たちが座敷から引き払う。盲目の孔雀は徳隆に手を引かれ、奥の寝所へと消えていった。




「おとっつぁんは胡蝶の水揚げを楽しみにしているようだ。まだあと2年も先だというのに気の早いことだな」

 孔雀と共にした(しとね)の中で徳隆が苦笑いする。

「願ってもないことです。胡蝶が一人立ちできるようなればこの邑咲屋は益々繁盛するでしょうよ」

「胡蝶が花魁になればおまえも肩の荷が下りるかい?」

「あい」

 徳隆は孔雀を抱きしめ長い睫毛(まつげ)に口づけた。

「その頃にはおまえの心も私に向いてくれるかな」

 孔雀の身体がわずかにぴくりと動じた。徳隆はさらに孔雀を抱きしめる。まるで彼女の動揺を鎮めるかのように。

「私は……山下屋を継いだ暁にはおまえを身請けするつもりだ」

「なにをおっしゃいますやら。わっちは(ゆう)(じん)なのですよ。遊神は不老不死。ご存じでしょう? 人でないものが人に嫁げるはずもありませんわ」

「わかっている。遊神が人間に戻るためには真に惚れ合った男と契りを結ばなければならないのだろう?」

 孔雀は目を閉じたまま徳隆の腕の中でこくりと頷いた。徳隆は孔雀の美しい顔をじっと見つめている。孔雀も瞼を開いた。何も映すことのないその瞳は、濃紫の不思議な光を湛えている。

 徳隆は唇を孔雀の唇にゆっくりと近づけた。その気配に気づいた孔雀が咄嗟に顔を背ける。

 ふっと力なく吐息を漏らし、徳隆はつぶやいた。

「わかっているのに、私は……。この馬鹿な男を許しておくれ」

「いいえ、御曹司のせいではありません。女郎はお客と口吸いはいたさぬものなのです」

 たとえ客でも真に惚れ合った相手ならば口づけを交わせるのだろう——そう言いかけた口を徳隆は結んだ。しばしの沈黙ののち、ふたたび口を開く。

「最初はね、勇次さんに嫉妬していたんだ」

「勇さんに? どうして?」

「だっていい男じゃないか。あんな美男子、日の本のどこを探したって見つかりはしないよ。気風(きっぷ)が良くて(おとこ)()もあるし、この世の女は皆一目で好きになってしまうだろう」

「みんなそう言うけど、わっちは見えないからどこがそんなにいいのかわかりませんねぇ。人前では粋がっているみたいだけど、あれでいてけっこう抜けてましてね。そのうえ女々しいところもあって、本命には超がつくほど奥手なんですよ」

 孔雀がくすくすと笑う。徳隆もつられて笑った。

「おまえはきっと勇次さんといい仲なのだと勝手に思い込んでいた」

「わっちが勇さんと? ご冗談を」

 あり得ないあり得ないと孔雀は笑い飛ばした。

「女郎と妓夫(ぎゅう)の色恋沙汰はご法度なんですよ。ご存じでしょう?」

 赤子のようにころころと笑う。徳隆も一緒になって笑った。

「そうだね、勇次さんじゃなかったね。だって私はこの日の本にもうひとり、いい男を見つけてしまったのだから」

 どき……。孔雀の心臓が波打った。

「……へぇ、そんなにいい男なんですか? 一度拝んでみたいものですねぇ。まぁ、どだい無理な話ですがね」

 見えない瞳を泳がせ冗談めかすも徳隆は笑わなかった。

「おまえを人間に戻すのは私でありたい」

「お(たわむ)れを。もうすぐ奥方様をお迎えになるのでしょう? その方を悲しませてはなりませんよ」

「……そうだな。()れ事だ。忘れておくれ」

 それきり徳隆は何も言わなかった。ややあってから静かな寝息が聞こえてきた。

 ——日の本にもうひとり、いい男を見つけてしまった……

 徳隆の言葉を思い返す。彼はその名こそ口にはしなかったが、すでに気づいているのだろう。

 育ちの良さげな寝顔の向こうに顔を遣る。瞼を開いても、今宵の月はわずかな光さえ感じることはできない。

 糸のようなこの月を、あの人は日の本のどこかで見ているのだろうか……。




「やれやれ。やっと戦が終わったで」

 飯盛り女と遊んできた陸奥陽之助は、部屋に入るなり大きな溜め息を吐き出した。

 明治2年5月18日、箱館(はこだて)戦争終戦により戊辰戦争が終結した。慶応4(明治元)年からおよそ1年余りに及ぶ擾乱に日本中が疲弊しきっていたのは言うに及ばず。

「新政府もせわしのおなるがで。陽さんもぜよ」

 摂津の飯盛(めしもり)旅籠(はたご)で酒を飲んでいた大江卓造改め大江卓が苦笑する。彼の酌を受けながら陸奥は口を歪ませた。

「長州が偉そうなんは気に食わへんな。卓、おまはんも難儀やのし。土佐(とさ)(もん)ゆうだけで新政府内で冷遇て、あほらしゅうて鼻から有田みかんが出てまうわ」

「まぁ、私は大隈さんについていきゆうがやき」

「大隈て、参与の大隈八太郎か?」

「はい。大隈さんは話をよお聞いてくれます」

 陸奥はふうんと顎を上げ、窓辺に目を向けた。

「おまはんもこっち来て飲めへん?」

「いや、俺はここで」

 窓枠に腰掛け、糸のような細い月をぼんやりと眺めている男が短く答えた。その男に大江も水を向ける。

「さっきからなにを考えちゅうがかぇ?」

「あんたと同じことだよ、大江さん」

 男はゆっくりと振り返った。闇夜を背負った男の表情はよく見えなかったが、静かな怒りを湛えているようでもあった。

「なんの話や?」

 陸奥が割って入る。男の代わりに大江が答えた。

「はや3年近く前の話やか。芸州の制外者(にんがいもん)が戦で功を挙げたにもいらわらず、藩に逆しーらったもんは皆殺しにされたゆう話」

「うわぁ、えげつないのう。ほやけど、そんなん、芸州だけやないで」

「はい。幕府がのうなって時代が変わっても、賤民の扱いはなんちゃあじゃ変わっちゃあせんがやか。()ぇったことやか……」

 渋い顔で大江が溜め息をつく。その傍にいつしか男がしゃがみこみ、手酌で酒を(あお)っていた。

「……黒い遊神……」

 その男がボソッと小声でつぶやいた。

「何か言おったか?」

「いや、なんでもねぇ」

 不審な面持ちで大江が首を傾ける。男はその色白で端正な顔を近づけた。

「大江さん、あんたしかいねぇ。この国の制外者を救えるのはあんただけだ。そのために俺はあんたの用心棒を引き受けたんだ。俺はあんたに賭けてるんだぜ」

「竜弥さん……」

 その男竜弥は、大江と陸奥それぞれの盃に酒を注ぎ、にやりと笑った。

次回より第2章「お節介」に入ります。

次回は第5話「下りもん」です。

以降、1日1話更新となります。


【一口メモ】

◎入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね:『万葉集』第14巻3378番歌

◎陸奥陽之助:陸奥宗光(1844~1897)。紀伊国出身。江戸時代まで「陽之助」を名乗っていたらしい。

◎大江卓:大江卓造(1847~1921)。土佐国出身。この前後に「大江卓」と改名している。

◎大隈八太郎:大隈重信(1838~1922)。肥前国出身。この頃に「重信」を名乗るようになったか。

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