第39話 黒い遊神の正体
遊女たちが寝静まった金舟楼。にもかかわらず、若い衆がどたどたと騒がしい足音を立てて階段を駆け上がってきた。
「どうした、うるせぇぞ!」
甚吾郎が遊神宮城の座敷から顔を出す。
「あっ、若旦那さま、お話し中すいやせん。お隣の女将さんの妹が泡食って飛び込んできやして……」
「お亮の妹……って、りんか?」
すぐに廊下へ飛び出し、吹き抜けから玄関広間を見下ろす。するとそこに、若い衆に止められながらも必死で框を上がろうとするりんの姿が見えた。
「どうした、りん! 今行くからそこで待ってろ!」
事態が急転したことを察し、甚吾郎は踵を返した。しかし——。
「お待ちください、若旦那さま!」
座敷の中から番頭新造に呼び止められる。待っている暇などないのだが、甚吾郎はもどかし気に座敷へ舞い戻った。
「なんだ?」
「宗が……」
番頭新造に促され、甚吾郎は朱座遊神の宗宮城の顔を見た。
「甚吾郎、如意も連れておゆき」
足の不自由な自分の代わりに、もう一柱の遊神如意を連れていけという。如意は唖だが宮城とは以心伝心だ。何か策があるのだろうか。
甚吾郎は宮城に従い、如意を連れて階段を駆け下りた。
辨財天の前にいた勇次の元へお亮とともに富蔵に背負われたミサゴが駆けつける。ミサゴは少し驚いたような顔をしていたが、お亮は眉ひとつ動かさず、その様を捉えていた。
「女ひとり支えらんねぇなんてだらしねぇなぁ。あ、支えるつもりなんざねぇか。所詮、蜩は捨て駒だもんな」
勇次は蜩を見ながら言い捨てた。彼女は尻もちをついたままぼーっとしている。やはり操られていたのだ。
「弁天さまはなぁ、ヤキモチ焼きなんだ。男と女が仲良くお手々つないで神域にずかずか踏み込んでくるなんざ許してくれるわきゃねぇだろ」
要するに耕作と蜩は辨財天の嫉妬に遭い、神域に入ることを拒まれたのである。
「弁天さまは芸事の女神であると同時に遊女の守り神でもある。だから大抵の遊郭にゃ商売の神様であるお稲荷さんと弁天様が祀られてるんだ。あんた、遊女屋にいたくせに弁天様の性格知らなかったのか?」
言われた耕作は目を細め、下唇をひと舐めした。蜩を一瞥し、勇次に視線を戻す。
「男と女……か。なぜ私も一緒にいるとわかったのです?」
「その祠の下には隠し井戸がある。けど、祠をどかすにゃ女の力じゃ無理だ。男でも力自慢のやつじゃねぇとどかせねぇ。だから腕っぷしの強いあんたが一緒に来る必要があった」
「なんのために?」
「どうしても俺に言わせてぇらしいな。いいよ、言ってやる。隠し井戸に石黄を仕込むためだ。奥井戸と同じようにな」
すると突如、耕作が肩を震わせ笑い出した。
「石黄? そんなものどこにあるというのです? さっき私の部屋を見たでしょう。勇次さんも片付けを手伝ってくれたじゃないですか。石黄なんかありました?」
言い終わるやいなや態度を一変させ、険しい顔でミサゴを指差す。
「奥井戸の毒が石黄というのなら、その男こそ怪しいのではありませんか? サンカは石黄の使い手ですからね」
名指しされたミサゴは歯ぎしりし、拳を握りしめた。お亮が咄嗟にミサゴの腕をつかみ、鋭い眼差しで首を横に振る。ミサゴはなんとか堪えた。
ミサゴの荒い息遣いだけが夜の遊郭街に聴こえる。勇次はひと呼吸間を置き、袂から革袋を取り出した。
「サンカの石黄ってこれか?」
薄笑いを浮かべ、ミサゴを振り返る。ミサゴはすぐさま反応した。
「石が……共鳴している。それもかなり強い。今までで一番だ」
「へぇ。てこたぁ、すぐ近くにこいつの片割れがあるってこったな」
勇次が片足を踏み出した。そのときだ。それまでぼーっとしゃがみ込んでいた蜩が突として立ち上がったかと思うと、勇次に襲いかかってきたのである。
——蜩、まだ傀儡が解けてなかったのか!
懐の匕首に手をかける。彼女を傷つけたくはない。だが、迷っている暇はないのだ。柄を握る掌が汗で滑る。と——。
「勇次、伏せろ!」
叫んだのは竜弥だった。勇次が反射的に身をかがめ、地面に突っ伏す。その瞬間、ぶわーっとものすごい勢いで頭上を巨大な氣の塊がかすめていった。
何が起きたのか一瞬わからず、勇次は恐る恐る顔を上げた。見ると蜩は見えない何かに絡めとられているようで、身動き取れずに藻掻いていた。
今度は後ろを振り返る。そこには竜弥に支えられ、両の掌を前に突き出している孔雀の姿があった。
「勇さん、勇さんは無事かい?」
孔雀は見えない瞳で勇次を探した。
「孔雀……おめぇがやったのか?」
勇次の声を聞き、孔雀は安心したように肩で大きく呼吸を繰り返していた。竜弥に支えられてはいるが、立っているのもやっとというふうだ。彼女は結界を発動し、一時的に蜩をその中に閉じ込めたのである。常にかくし閭の結界を張っている遊神にとって、ほかにも結界を発動することは想像以上に体力を消耗するのだった。
「わっちの結界はそんなに長くはもたないよ。とっととケリつけとくれ」
そう言うと孔雀はふらふらと竜弥の腕の中に崩れ落ちていった。
「孔雀!」
勇次が叫ぶ。竜弥は孔雀を抱き止めながら彼に告げた。
「勇次、孔雀は俺に任せとけ。おめぇにゃほかにやることがあるだろ」
たしかに孔雀は竜弥がついていれば心配はない。勇次は耕作に目を戻した。
「ふっ……、俺としたことがすっかり忘れてたぜ」
鼻を鳴らし、右の口角を上げる。
「黒い遊神に操られた蜩はとんでもねぇクソ力を発揮するってことをな」
匕首を握りしめたままふたたび立ち上がり、耕作を見つめた。
「別にあんたがいなくても祠はどかせるよな」
「……」
「あんたはわざと蜩と手をつないで境内に入ろうとした。けど、弁天様は入れてくれなかった。あんたは端からそれがわかってたんだ。そりゃそうだよな。遊女屋の若ぇ衆だったあんたが弁天様のことわかんねぇわけねぇもんな」
耕作の眉がわずかに動いただろうか。じり……と勇次は一歩横に足を踏み出し、耕作を斜めから見据えた。
「本来なら全部蜩ひとりにやらせて罪を被せるつもりだったんだろ。朱座に潜り込んでる黒い遊神が操れるのはひとりだけだ。けど、奥井戸のときは蜩を使えなかった。あんときゃ蜩が暴れて仕置き部屋に閉じ込められてたからな。だから奥井戸は仕方なくあんたが石黄を仕込んだんだ」
「どうやって? 私が石黄を持っているという証拠があるのですか?」
耕作はふふんと笑った。勇次も微かに笑う。
「そうだな。正確にゃ石黄を持ってるのはあんたじゃない。黒い遊神だ」
「黒い遊神ですか。ならば奥井戸に石黄を仕込んだのは黒い遊神ということになりますね? すなわち、私は一切かかわっていないということです」
勇次はまた一歩、横に身体を移した。
「黒い遊神だけじゃ井戸に石黄を入れらんねぇんだよ。誰かが手伝う必要があったんだ。なんでかって言うとな……」
また一歩足を横に出す。それを見た耕作は、何かに気づいたようにはっと目を見開き、駆け出した。
「動くな!」
その声にぴたりと足を止める。甚吾郎が彼に向かって銃口を向けていたのだ。
「それ以上一歩でも動いてみやがれ。脳ミソ吹っ飛ばすぞ」
「耕作、大人しくしてたほうが身のためだぜ。脅しなんかじゃねぇ。この人、本気でやるからな」
勇次の言葉にお亮と竜弥がうんうんと激しく頷いている。耕作は観念したように唇を噛みしめ、両手を上げた。それを見届け、勇次はその場にしゃがみこんだ。
この場にいる全員が固唾を呑んで勇次の動きを注視している。勇次はそっと、地面に手を伸ばした。
「おめぇが黒い遊神だったんだな」
地面に落ちていた人形を拾い上げ、右手の鈍痛に耐えながらその名を口にする。
「七星」
顔を上げたその先には、七星の小さな身体が月明かりに照らされていた。
「嘘……七星が……黒い遊神……?」
お亮が思わずつぶやいた。お亮だけではない。竜弥も孔雀も甚吾郎も、富蔵ですら驚愕の眼を七星に向けている。遊神は大人——という先入観が見事に打ち壊されたのだ。その衝撃で皆身動き取れないまま、呆然と小さな童女を瞠目した。
勇次は人形をふたたび地面に置き、その横に石黄の入った革袋を置いた。人形を拾い上げたときにピリピリと走った痺れのような鈍痛。それは七星の頭を撫でようとしたときに受けた感覚とまったく同じものだった。
その感覚はまだ残っていたものの匕首を握れぬほどではない。汗でぬるつく柄を握り直し、切っ先をゆっくりと人形の胴体に押し当てる。
「いけん!」
七星は両手を伸ばし、慌てて駆け出した。勇次の手が止まる。だが彼女の小さな身体は飛び込んできたりんによって抱き止められていた。
「りんちゃん……」
七星がりんの顔を見る。りんは慈愛に満ちた瞳で七星ににっこりと微笑みかけた。大丈夫、そう穏やかな光が語りかけている。りんがやさしく抱きしめると、七星はほどなく静かになった。
勇次は緊張の面持ちで呼吸を整えた。ピリピリと続く痺れに耐え、人形に押し付けた切っ先に力を入れる。ざく……ざくざくざく……と人形の腹は裂かれていった。
「石がえらい共鳴している!」
富蔵の背中でミサゴが叫んだ。素人にはまったく感じることのできない共鳴をミサゴは敏感に感じ取っている。
やがて人形の中から現れたものに、一同が愕然とした。耕作が静かに目を閉じる。
「あった……」
勇次が安堵の息を大きく漏らした。人形の中から現れたもの、それは紛うことなく黄金の光を放つ山吹色の小さな石塊であった。
「ミサゴ、約束通り、あんたの石、取り返してやったぜ」
勇次が振り返ると富蔵は歩み寄り、ミサゴに人形の中が見えるよう腰をかがめた。人形の腹に隠されたそれを見たミサゴは、大きく眼を見開いた。
「間違いない。これはわしの石黄だ」
感心したように勇次を見る。
「あんたは大した男だ」
「ミサゴ、あんたも約束守ってくれるって信じてるぜ」
勇次はにっこりと笑った。だがすぐに顔を引き締める。まだこれで終わりではないのだ。
次回は第40話「悪あがき」です。