第38話 消えた遊女
「わしに見てもらいたい娘?」
喬史郎は怪訝な表情を崩さなかった。勇次はおもむろに立ち上がり、戸口に向かう。
「今連れてくるからちょいと待っててくんな」
そう告げて引手に手をかけたときだ。どんどんどん!と外から戸を激しく叩く音がした。何事かと急ぎ戸を開ける。と、そこには血相を変えたりんが立っていた。
「りん、どした? てかなんでおめぇがここにいるんだ? どうやって行燈部屋から出て……」
はっ!と竜弥を振り返る。竜弥もはっとして口に手を当てた。さきほど行燈部屋を最後に出たのは竜弥なのだ。
「やっべ、俺、心張りかましてくんの忘れたかも」
てへっと頭に手をやり、舌をぺろっと出す。勇次はわなわなと竜弥を睨みつけた。
「てへっぺろっじゃねぇだろ、おめぇはぁ、りんになんかあったらどーしてくれんだっ」
「ちょいとお待ちよ、勇次。今は竜弥を責めてる場合じゃないだろ」
激高しかける勇次をお亮がたしなめ、りんを見る。
「どうしたんだい、りん? なにか急ぎの用かえ?」
勇次も我に返った。
「そうだ、りん、どした、そんなにあわてて」
りんは身振り手振りで説明するのももどかしいらしく、いきなり勇次の手を引いて走り出した。
「おっおいっ、りん、どこ行くんだ」
手を引かれるままに勇次も走り出す。りんが向かった先は裏庭だ。そこでは蜩が再度暴れ出さないよう縄で木にぐるぐると括りつけられている。
——また蜩に何かあったのか?
胸騒ぎを抱えながらりんと裏庭にたどり着くと、そこには驚愕の光景があった。なんと、蜩を括っていた縄がちぎられていたのだ。言うまでもなく蜩の姿はそこにない。
「蜩、どこ行きやがった!」
辺りを見回してもいるはずがなかった。急ぎ行燈部屋に戻り、揚羽に状況を訊ねる。揚羽はりんが汲んできてくれた水を飲みながら、話してくれた。
彼女が言うには、飲み水を切らしたので追加を頼もうとしたところ、心張り棒が外れていたのでりんがそのまま部屋を出て井戸へ向かった、とのこと。戻る途中で蜩の姿が消えたことに気づいた彼女が勇次たちに知らせに来た、ということらしい。
勇次はひとまず仕置き部屋へ戻り、お亮と竜弥に事の次第を伝えた。
「とにかく手分けして探そう」
竜弥が立ち上がる。お亮は権八と富蔵を呼び、ふたたび仕置き部屋の監視を指示した。準備万端、皆が廊下へ飛び出したそのとき、2階の踊り場から衣擦れの音が聴こえてきた。
「竜弥坊っちゃん!」
廊下を走る竜弥を番頭新造お甲が呼び止めた。
「ああ、お甲さん、ちょうどよかった。2階で蜩見なかったか?」
と見上げた先に現れた遊女に気づき、竜弥が足を止める。
「孔雀……」
「その声は竜さんだね? 竜さん、大変だよ」
そこには手で壁を伝いながら危なっかしい足取りで階段を降りようとする孔雀の姿があった。
「危ねぇっ、待ってろ、今俺が行く!」
竜弥は急いで階段を駆け上がった。よろける孔雀の身体を抱き止め、階段にゆっくりと座らせる。勇次とお亮も階下から見守った。
「どした、孔雀。大変ってなにがあった? こっちも大変なんだよ」
「ごめん、竜さん。でも、なんだか、わっち……、すごく胸騒ぎがするんだ」
「胸騒ぎ? なんだ、それ? 言ってみろ」
孔雀の細い肩をしっかりと抱きしめ、竜弥が顔を寄せる。孔雀は深紅の唇を震わせた。
「七星がいないんだ。呼んでも返事がないからお甲さんとお亀さんに探してもらったんだけど見つからないって。もしかして何者かにさらわれたんじゃ……」
「七星が?」
訊き返しながら竜弥が勇次に視線を移す。
「ひょっとして人質に取られた?」
「蜩が七星を人質に取ったってことかい?」
お亮も不安げに弟を見上げた。
——人質……
そのとき勇次の脳裏にひとつの仮定が浮上した。半信半疑で仕置き部屋へ戻る。
「ミサゴ、石はまだ反応してるか?」
言われてミサゴは石黄の入った革袋に気を集中させた。
「完全にはなくなっていないが、さっきより反応が薄くなってきている」
勇次は確信に満ちた顔で石黄が入った革袋を掴んだ。
「ミサゴ、あんたも来い。俺があんたの石、取り返してやる。その代わり約束しろ。この川越ではけっして人を傷つけねぇって。約束してくれたらこの鎖外してやる」
勇次の瞳の奥に宿る強い光を眩し気に見つめ、ミサゴは一瞬考えたのち力強く頷いた。
「ああ、約束しよう。川越では誰も傷つけることはしない」
勇次はわずかに微笑み、部屋を出ていった。それを見てお亮が鎖を外すための鍵を帯から取り出した。
「お内儀、いいんですかい?」
権八が戸惑い、お亮を一旦制する。お亮は鮮やかな明眸を権八ではなく、ミサゴに向けた。
「ミサゴ、誤解しないどくれ。わっちはあんたを信用するんじゃない。弟を信じてるんだ」
傍で権八も大きく頷いた。彼も若頭である勇次を信頼しているのだ。お亮は微かに笑みを浮かべただろうか。静かに呼吸を繰り返し、鍵を錠前に差し込んだ。
勇次が雪駄に足を入れている横で、りんも草履を履こうとしていた。
「りん、危ねぇからおめぇはついてくんな」
だが押し戻してもりんは言うことをきかない。たとえ耳が聴こえていたとして、正義感が強く頑固な彼女のことだ、有無を言わさずついてくるだろう。勇次は腹をくくり、りんの手を握りしめた。
「いいか、りん。絶対に俺から離れるんじゃねぇぞ」
りんの手を引き、勢いよく玄関を出る。……はずが、敷居をまたいだところで勇次はすぐに立ち止まった。
——って、どこ探しゃいいんだ?
蜩の行きそうな場所を考える。
——いや、あいつの行きそうなところじゃねぇ。黒い遊神がこれからしようとしてることを考えるんだ。
ゆっくり考えている暇はない。だが焦れば焦るほど考えがまとまらなくなる。ぎゅっと強く目を瞑り、唇を噛みしめる。その様子を見たりんが、勇次の手をぎゅっと強く握り返した。
ふと、りんを見る。その瞳に宿る穢れなき光を見つめているうちに、勇次の心は次第に落ち着きを取り戻していった。幾度か深い呼吸を繰り返しながら再び考える。
芸州のかくし閭が滅んだ最終的な原因は火災だ。閭内で火の手が上がれば住人らは必ず消火活動に奔走するであろう。消火活動には大勢の尽力が必要だ。だが——。
——もし、芸州のかくし閭も井戸を穢されていたとしたら……?
井戸の毒に蝕まれたかくし閭の住人は満身創痍で消火活動にあたることになる。もしくはすでに多くの住人が息絶えていたかもしれない。姉の話では甚吾郎もそう推測していたとのこと。
残されたわずかな人手での消火活動。その分消火も遅れてしまう。その間にも猛火は容赦なく妓楼を、長屋を、人さえも呑み込んでゆくだろう。ここを失ってしまったら自分の居場所はどこにもない。彼らは己の居場所「かくし閭」を守るため、微力ながら必死で火を消し止めようと最後まで足掻いたに違いない。
全焼の場合のみ仮営業を許可された吉原遊郭とは火災の意味が全く異なるのだ。
——……水……井戸か……
だが、朱座に数十軒ある妓楼の井戸を1軒ずつしらみつぶしに調べている暇はない。
——待てよ。邑咲屋の井戸はつい今しがた揚羽が飲んだが平気だった。
黒い遊神とて妓楼の井戸を1軒1軒潰していては時間がかかって仕方がないだろう。それよりも水脈を元から穢してしまったほうが手っ取り早いではないか。
ならば、黒い遊神が狙う井戸はただひとつ——。
——弁天さまの井戸だ!
勇次は片足を踏み出すと朱座遊郭の最北端を見た。
——俺の読みが当たってれば、やつらは境内に入ぇれねぇ。
つまり神域に足を踏み入れることはできないということだ。提灯の消えた遊郭街は見たことのない暗闇が広がっていた。月明かりを頼りに金舟楼の対面に鎮座する辨財天を見遣る。案の定だ。生垣の前には三つの大きさの異なる影が月明かりに照らされ並んでいた。
りんを連れて歩き出した勇次は、金舟楼の手前で立ち止まった。りんが不思議そうに彼の横顔を見上げる。彼女にも三つの影は見えていた。なぜ彼らを止めないのかとの眼差しを勇次に向けている。
勇次がゆっくりとりんを振り返る。そしてつないでいた手を離し、華奢な両の肩に置いた。
「りん、おめぇはここで待ってろ。何かあったらすぐに甚さんのとこに駆け込むんだ。わかったな」
言いながら金舟楼の屋号を指差す。りんの脳裏にはすぐさま甚吾郎の顔が浮かんだ。勇次の真剣な面持ちから、彼の言わんとしていることは理解できたようだ。
りんはこくりと頷いた。勇次も安心したように頷き、りんの肩から手を離した。今度はひとりで歩き出す。金舟楼の籬を過ぎたところで、ふたたび立ち止まった。
息を呑む。それに気づいたように一番長い影が振り返った。
「勇次さん、待っていましたよ」
影が笑う。
「緑山さん、いや、耕作だな」
勇次の後方にミサゴの姿を見止め、耕作はふっと不敵な笑みをこぼした。
「全て知ってしまったのですね。でも、まぁ、もう遅いのですけど」
耕作はゆっくりと小さな影から人形を受け取った。小さな影は七星だ。それをもうひとつの影——蜩に持たせ、彼女と手をつないだ。
「さぁ、大人しくそこで見ていてください」
「やれるもんならやってみな」
勇次は袖の中で腕を組み、涼しげに言い放った。耕作は笑みを残したまま、ふいと前を向いた。蜩の手を引き、一歩……今まさに境内に足を踏み入れようとした、そのときだ。
バチバチバチッ! 突然、見えない壁に阻まれたかの如く耕作と蜩の身体は撥ね返されるようにして宙に浮き、後ろへとふっ飛んだ。その拍子に蜩が尻もちをつく。衝撃で人形は彼女の手から離れ、闇空へ飛ばされてしまった。
耕作は両足を踏ん張り、かろうじて持ちこたえていた。
次回は「黒い遊神の正体」です。
【一口メモ】
火事の多かった江戸において、吉原(新吉原)遊郭は特に火事の多い場所でした。木造の妓楼が密集する郭内で火が出ても町火消しは消火活動に当たらないというのが定めでした。遊郭消失後の仮営業は浅草などで許可されましたが、それは全焼に限るというものでした。市中からのアクセスも良く、敷居の低い仮営業は繁盛したそうです。