第35話 腹の探り合い
職人長屋の木戸をくぐると、一番奥で煙草をふかしている男が見えた。緑山だ。
「あ、勇次さん。ご挨拶せずに帰ってしまってすみませんでした。お取込み中のようでしたので邪魔してはいけないと思って……」
緑山は何ごともなかったかのように笑顔を向けた。勇次も笑顔で首を横に振り、煙管箱から煙管を取り出した。
「火ぃ貸してくれるかい?」
「よろこんで」
刻み煙草を丸めて火皿に詰め、雁首同士を近づける。火が移ったところで煙を口の中で転がすと、馥郁たる香りが口の中に広がっていった。ひとしきり香りを味わったところで、ふーっと大きく煙を吐き出す。
「たまんないねぇ。ひと仕事終えた後の一服はよ」
にやにやと夜空を見上げる。提灯の消えた今宵の遊郭は星が良く見える。
勇次は緑山の破れた着物に目をやった。
「まだ着替えてなかったのかい?」
「え? ああ、なんだか気が抜けてしまって。今日は朝から色んなことがありましたから」
最後の煙を大きく吐き出すと、緑山は自分の部屋の引き戸を開けた。
「見てくださいよ。酷いと思いませんか?」
促されて中を覗くと、緑山の部屋は荷物が少ないながらも荒らされた形跡があり、それなりにとっ散らかっていた。一方で意外と質素な暮らしぶりに拍子抜けする。いつぞや訪れたときにはあまり気に留めなかったが、こんなに物が少ない部屋だったのかとあらためて驚いた。
「ミサゴが私を疑って家捜ししたのです。でも、ほら、この通り、何もありません。それはそうですよね。だって私は何もやっていないのですから」
何も出なかったものだから、ミサゴはやけになって自分を襲ったのだろうと苦笑する。そして灰を灰筒にぽんっと捨てた。
「お茶でも飲んでいかれませんか? 散らかってますけど」
冗談めかして苦笑いし、手招きする。勇次は煙草を吸い終えてから、誘われるまま部屋に上がった。
「片付け、手伝うよ」
勇次の申し出に、緑山は躊躇することなく喜んだ。部屋の中を見られてもかまわないということか。やはり緑山は石黄を盗んではいないのだろうか。それとも絶対に見つからない自信があるのか——。
緊張に包まれた密室の中、腹の探り合いは続く。
「先に着替えたらどうだい? さっき俺が破っちまったから、これで勘弁してくれ」
勇次は自分の長着を広げてみせた。
「それ、勇次さんのですか? そんな、もったいない。替えくらい持っていますからお気遣いなく」
「遠慮しねぇでくれ。さ、脱いだ脱いだ」
勇次は無理やり緑山を立たせ、帯を解いた。
「ははっ、強引ですね」
まんざらでもない様子で緑山が着替えに応じる。褌一丁になった緑山の身体を勇次は舐めるように見た。
「傷が浅くて良かったな。しっかし、ほんといい身体してるぜ。さすが遊女屋にいただけのこたぁあるわ」
緑山の引き締まった背中や腕をペタペタと触る。すると何を思ったか、突然両手を胸の前へ伸ばし、彼の身体を抱きしめた。
「ちょっと、勇次さん、なにをするのですか。私は衆道の気なんかありませんよ」
突然のことに驚いた緑山は身体をよじらせ抗った。だが、勇次は彼をがっちりと羽交い絞めにしたまま離さない。それどころか筋の通った鼻を首筋に押し当てた。
うなじをなぞるように、長い睫毛がゆっくりと閉じられてゆく。挑発でもしているのか。ぞくぞくと全身を這いずり上がる妍と艶。色を発する勇次の目元を想像するだけで理性が崩壊しそうになる。
「勇次さん、そろそろ勘弁してくださ……」
「同じ匂いだ」
「同じ匂い?」
勇次は鼻を押し当てたまま囁いた。
「そうだ。あんたは俺と同じ匂いがする」
「勇次さんと同じ匂いだなんてお世辞にもほどがあります。勇次さんはもっといい匂いがするじゃないですか。伽羅の匂いをいつも身に纏って……」
「違う。伽羅じゃない。土の匂いだ」
「……!」
緑山の衝撃が伝わってきたところで勇次はようやく腕を解いた。今のはなんだったのかと思わせるほど涼しい顔で長着を羽織らせる。
「俺は元々百姓の小倅だ。あんたもそうじゃねぇのかい?」
袖を通してやり、衿と褄を合わせる。手際よく帯を回す手つきは鮮やかだ。
「まさか勇次さんが百姓の生まれだなんて……、とても信じられません」
「信じようが信じまいが本当のことなんだからしょうがねぇやな」
帯をキュッと粋に決め、はい出来た、とポンっと手の甲で腰を叩く。
「人に着付けしてもらったのは久しぶりです。やはり綺麗ですね」
緑山はぴしっと合わさった裾を眺め、感慨にふけった。なかなか尻尾を掴ませない。思った以上に手強い男だ。
「あんたが遊女屋にいたってなぁ嘘じゃねぇと思う。だが、遊女屋の息子ってなぁちょいと無理があるな」
「そんなに土の匂いがします?」
おどけて腕の匂いを嗅ぐ真似をしながら勇次を見ると、彼は頭を振っていた。
「だったらなぜ? ミサゴからなにか聞いたのですか? 忍びの末裔かもしれないサンカの言うことを真に受けるなんて、賢い勇次さんとは思えませんね」
「いいや、ミサゴの話を聞く前から俺はあんたに違和感を抱いていた」
「違和感?」
やにわ鋭い目つきで緑山が訊き返す。勇次は立ち上がった。
「あんた、戦でいい働きをすれば平人に戻れるんじゃないかって期待してた、って言ってたろ」
「あ、ああ、はい。それがなにか……?」
言いかけて緑山ははっと口をつぐんだ。勇次は右の口角を上げ、にやりと笑う。
「あんた、こうも言ってたな。自分は竜弥と同じ、生まれついての制外者だって。生まれつきの制外者が平人になりたいって言うんならともかく、戻るって言い方、普通はしねぇだろ」
「……」
緑山が無言で勇次を見据える。遂に陥落したか。機を逃さず畳みかける。
「もっと言ってやろうか。喬史郎は肩と足を撃たれたんだ。しかも相当な深手だったらしい。竜弥が証人だ。でもあんたの身体、さっき見せてもらったけど鉄砲傷なんかひとつもなかったぜ」
「そ、それはサンカの薬で傷痕は跡形もなく……」
「消えたってか? だったら帰ってミサゴに訊いてみるか。そんな都合のいい薬がこの世にあるのかどうか」
「ミサゴはまだ生きているのですか?」
ふっ…と勇次が鼻を鳴らす。瞬間、緑山が蒼褪めた。語るに落ちたことを知ったのだ。
「なんで死んだと思った? やつが蜩に首絞められてるとこ見たのか? 見れるわきゃねぇよな。あんときゃまだあんたは姉ちゃんたちと一緒に台所にいたんだもんな。百歩譲って、蜩がミサゴの首を絞めたことを知ってたとして、俺が女の力を止められねぇわきゃねぇことくれぇわかるよな? けど蜩は俺でも押えらんねぇほどのクソ力だった」
じり……と勇次が緑山に詰め寄る。長い睫毛を近づけ、そして決定的な一言を放った。
「あんたが蜩を操ってたんじゃねぇのかい? なぁ、黒い遊神さんよ」
だが緑山は驚くでもなく、まるでその言葉を想定していたかのごとく無表情に勇次を見つめ返している。
彼はしばし黙っていたかと思うと、おもむろに顔をゆがめた。
「……ふっ……ふふっ、あはははは!」
突如、腹を抱えて笑い出す。勇次はその様を無言で見つめた。
「私が黒い遊神ですって? ひどいじゃないですか、勇次さん。痛くもない腹を探られて、挙句の果てに疑われるなんてあんまりですよ」
ひとしきり笑った後、緑山はふうっとひとつ溜め息をついた。
「私はかくし閭の仲間の仇を討つために黒い遊神を追って川越まで来たのですよ。なのになぜ私が黒い遊神という考えになるのですか? 意味がわかりません。理由を教えてください、理由を」
肩をすくめる緑山から目を逸らさず、勇次もひとつ溜め息をついた。腕を組み、拳を顎に当てる。
「うーん、たしかに、言われてみればそうだよな。仲間の仇をとりてぇってのが人情だ。てこたぁ緑山さんが黒い遊神なわきゃねぇか。俺、なんか思い違いしてたかも。疑ったりしてすまねぇ、許してくれ」
この通りだ、と言って勇次は手を膝に当て、頭を下げた。
「いいんですよ、勇次さん。間違いは誰にでもあります。さぁ、お茶を淹れるのでお座りください」
緑山はにっこり微笑み、散らかったものを端に寄せながら場所を開けた。彼が狭山茶を淹れている間、勇次は部屋の片づけをする。私物を触られても緑山は平然としていた。
緑山の部屋からの帰路、勇次は邪推に駆られていた。いささか事を急いてしまったようだ。それだけではない。
——あいつ、最後まで自分が元百姓だって認めなかったな。
遂に彼から真相を聞き出すことはできなかった。所々綻びはあるものの、寸でのところでかわせる強かさも持ち合わせている男である。やはり一筋縄ではいかないか。
――けど、否定もしなかった。てこたぁ、やっぱり……。
彼が遊女屋の息子喬史郎になりすましたということは、農民だった過去を知られたくない何かがあるのだろう。理由有りの制外者が集まるかくし閭では他人の過去を詮索すべきではない——この暗黙の不文律があるにしても、このまま黙って見過ごしてよいのだろうか。
振り子のように行ったり来たりする迷いを持て余しつつ、大門の前を通り過ぎようとしたところでふと顔を上げた。なにやら四郎兵衛番所のほうが騒がしい。何事かと立ち止まると、近くの面番所から同心がひとり飛び出してきた。
「よぉ、旦那、なんかあったんですかい?」
同心に訊ねる。彼によれば、どうやら登楼客が入れろとごねているらしい。太客ならば引手茶屋を通すはず。そうでなければ馴染み客。執心の遊女に会えない男が会いたい一心でやってきた、おおかたそんなところだろう。よくあることだ。
ふたたび歩き出す。と、面番所の同心に呼び止められた。
「邑咲屋の若頭、ちょいと来てくれるかい?」
「俺すか?」
怪訝に眉を顰め、勇次が振り返る。まさか邑咲屋の馴染み客ではあるまいな。面倒臭そうに同心の後をついていくと、四郎兵衛番所に入るよう促された。
勇次の顔を見た番人は、小窓から外を指差した。眉を顰めたままそっと外を覗く。見ると大門の外には男が一人立っていた。見慣れない顔だ。
「ありゃ、うちの馴染みじゃねぇよ。ほか当たってくんな。一見さんならとっとと追い返せ」
見世に帰ろうと踵を返す。だが、番人は慌てて勇次を引き止めた。
「待ってくだせぇ、邑咲屋さん。あの男、おたくの坊っちゃんの知り合いだって言い張ってるんですよ」
「竜弥の知り合い?」
勇次はまたか…といった具合に天を仰ぎ、今一度男に視線を戻した。月明かりに照らされた男の顔半分ははっきりととらえることはできたが、やはり見覚えはない。
「あの男の名、聞いたか?」
「へぇ。喬史郎って言ってやした」
「喬史郎だと?」
勇次は目を丸くして、三度男の顔を見た。この男の出現で事態は急転するのだろうか。
ごくりと息を呑む。番人に男を待たせておくよう伝え、まずは竜弥を呼びに走った。
次回から第9章「黒い遊神、現る」に入ります。
次回は第36話「喬史郎」です。