第34話 利用された恋心
2階の吹き抜けの手摺から薬売りの男をじっと見下ろす空蝉の姿があった。その視線に気づき、男が顔を上げる。どこかうら寂し気な眼差しが、別れた女によく似ていた。
声をかけようか。そう頭をかすめたのも束の間、迷いにとらわれる。なにを話せばいいのだろう。どれだけ頭の中の引き出しをひっくり返そうと、気の利いた言葉が見つからない。肩の傷の痛みだけが鋭く全身を走ってゆく。
ふっ……と力なく微笑み、彼は雪駄に足を入れた。流行らないベタガネを鳴らさぬよう、そっと玄関を出る。外はいつしか夜の帳が降りようとしていた。
粋がってチャラチャラと歩いたのはいつのことだったか。武士の世が終焉し、時代が明治に遷っても、東に浮かぶ月は川越も芸州も変わらない。ちっとも変わらないのに、どうしてこんなに胸が締めつけられるのか。
「緑山さん!」
その名を呼ばれ、無意識に振り返った。
「空蝉……」
妓楼を飛び出し、裸足で真っ直ぐ駆けてくる遊女の姿に心をかき乱されそうになる。
「お戻りなさい。妓楼からひとりで出たら折檻されてしまう」
言いたかったのは、こんな心にもない言葉ではない。しかし、今の自分に本心を明かすことなどできようか。
案の定、空蝉は追いかけてきた若い衆に捕まり、引き摺り戻されていった。それを見たところでどうしてやることもできず、震える唇を噛み、そして踵を返す。
白く浮かんだ下弦の月は、まだ欠けはじめたばかりだった。
喬史郎が盗んだサンカの大事なものが石黄であると聞いて、真っ先に反応したのは甚吾郎だった。
「甚さん、石黄がどうかしたかい?」
「ああ、実はさっき半十郎さんから聞いた話でも石黄が出てきたんだ。たしか半十郎さんを襲ったやつもミサゴから石黄を盗んだって」
お亮も聞きながら頷いた。竜弥がせせら笑う。
「2回も大事なもん盗まれるってダッサ」
ミサゴがぴくっと青筋を立てた。瞬時勇次が切っ先を首筋に当てる。冷たい感触がミサゴの動きを止まらせた。
「竜弥、口が過ぎるぞ。仮にも命の恩人だろが」
「そうだよ。半十郎さんだってこの人に命を救われたんだからね」
甚吾郎とお亮にたしなめられ、竜弥が肩をすくめる。だが竜弥の軽口はあながち的外れでもなかったようだ。勇次はどこか思うところがあったのか、ミサゴの目を見据えた。
「たしかにあんたが2回もヘマするたぁ思えねぇ。どういうことだ?」
勇次の指摘に甚吾郎も唸る。ミサゴは苦虫を嚙み潰したような顔つきで唇を震わせた。
「女衒の半十郎とやらを襲った男はわしらから石黄を盗んで逃げた者だ。だからわしはその者の行方を追った。そしてようやく三方山でその者を見つけたとき、そいつは半十郎と戦っていた。わしはてっきり半十郎も石黄を狙っているのだと思い込み、奪われる前にそいつを殺したのだ。半十郎を助けたつもりはない。結果的にそうなっただけだ」
「なるほど。で、盗まれた石黄はそいつが持ってたってわけだな」
甚吾郎が納得したように頷く。勇次と竜弥は初耳だ。続けてもらう。
「ああ。だが、あとで中身を確かめたところ、石黄は半分しか残っていなかった。そこでわしは思い出したのだ。その者に仲間がいたことを。おそらく残りの半分はその仲間が持っていると睨んだ」
「その仲間ってのが喬史郎さんだったってわけか」
だが驚いたことに、ミサゴは頭を振った。一同は驚き、固唾を呑んで次の言葉を待つ。が、その前に、足の手当てを終えたりんが次に腕の手当てをしようと勇次の隣へ移動してきた。ミサゴの顔と距離が一気に近くなる。それを見て竜弥がミサゴの足を押えた。甚吾郎は、今度ばかりはリボルバーを取り出し銃口をミサゴのこめかみに突きつけた。
徐々に緊張が高まってゆく。ミサゴは治療の痛みに顔を歪ませながらも、一呼吸置き、衝撃的な事実を告げた。
「さっきの男、あれは喬史郎ではないぞ」
「えーーーーーーーーーーっっっっっっ!」
皆が驚きの声を上げる前に、竜弥が素っ頓狂な声で叫んだ。
「あの薬売りが喬史郎さんじゃないって……え、え、どゆこと……?」
すでに蜩の手当てを終えていたお亮が鬼の形相で竜弥の胸倉をぐいと引き寄せる。
「た つ や 、どういうことってこっちが聞きたいよ。説明しな」
「ちょちょちょ、お義姉さん、待って待って待って。俺も何が何だかさっぱり……って、あれ? ひょっとして俺………………騙された?」
真っ青な顔で竜弥が慌てふためく。勇次と甚吾郎は呆れたように一時絶句した。
「騙された……って竜弥、おめぇ、マジで気づかなかったのか?」
やっとのことで勇次が声を絞り出す。竜弥は動揺治まらぬまま弁解した。
「マジで気づかなかったわ。だって俺が助けたとき、喬史郎さん、きったねぇ髭面で肌も灼けて真っ黒で髪もザンバラのボサボサで……。そういやまともに素顔……見てねぇや」
「このトンチキが……」
お亮も呆れてうなだれた。だが勇次がここで疑問を呈する。
「しかし妙だな。やたら話の辻褄が合ってたじゃねぇか。竜弥の話とも寸分違わなかったし。かくし閭のこともやけに詳しくて。戦のことなんかまるで自分が戦ってきたみてぇにしゃべってやがった。あれじゃ本人と間違えても不思議はねぇ」
「だっ、だよな? やっぱ勇次、さすがだぜ。俺の心の友だけのことはある」
竜弥は子犬のように勇次の背中にすりすりと頬ずりした。
「けどよ、実は俺、なんかところどころアレ?ってとこがあってさ」
「なんでそれを早く言わねぇんだよ」
勇次の声は今にもぶち切れそうだ。ミサゴから目を離せるものなら竜弥の喉輪を締め上げているところである。
「たとえばどこがアレ?なんだよ」
「うーん、たとえば、かくし閭を滅ぼしたやつの正体を突き止めたってとこ」
竜弥がかくし閭を滅ぼした者の正体が黒い遊神だと聞いたのは喬史郎からだ。だが喬史郎に成りすました緑山がそれを知ったのは、竜弥と別れた後だと言っていた。
「緑山め、ちょいちょいボロが出てきやがったな」
勇次が奥歯を噛みしめる。竜弥はやにわに立ち上がった。
「ちきしょう、あの野郎、この俺様をコケにしやがって。化けの皮剥してやるぜ」
真っ赤な顔をしてすっ飛んでゆく。竜弥が部屋から出ていくと、勇次はミサゴに問いかけた。
「喬史郎じゃなかったら、ヤツはいったい何者なんだ?」
「何者かは知らん」
ミサゴは素っ気なく答えた。彼は石黄を取り戻すことさえできれば、緑山が何者であろうとどうでもよいのだろう。やはり本人を締め上げるしかなさそうだ。
だが竜弥はすぐに泡食って戻ってきた。
「あいつ、いつの間に帰りやがった。早く帰って薬作んなきゃいけねぇとかぬかしてたってよ」
「なんだと?」
甚吾郎が緑山を追いかけようと急いで戸口へ向かう。が、勇次は彼を呼び止めた。
「甚さん、待ってくれ。俺が行く」
りんがミサゴの手当てを終えたところで、お亮が彼女を連れて部屋を出ていった。それを見届け、勇次はミサゴから匕首を離し、立ち上がった。
「竜弥、おめぇはここでミサゴを見張ってろ。ぜってぇ逃がすんじゃねぇぞ」
訊きたいことはまだある。石黄の使い道だ。緑山らがなんのために危険を冒してまでサンカから石黄を盗んだのか。それが今回の奥井戸騒動と何か関わりがあるのではないか——。勇次はそう睨んでいた。
勇次が自室から着物を取ってくると、甚吾郎が玄関で待っていた。
「勇次、俺も一緒に行こうか?」
「いや、ひとりで大丈夫だよ」
にこっと微笑んで雪駄を履く。ふたりで外に出ると、ちょうどそこへ金舟楼の若い衆が走ってきた。
「あっ、若旦那さま。ちょうどようございやした」
「どうした?」
「へぇ。遊神様がお呼びです」
「宗が? わかった。すぐ行くと伝えといてくれ」
ちょうど自分も訊きたいことがあったのだ、と、ぽつりと漏らす。
「訊きてぇこと?」
勇次は怪訝に甚吾郎を見た。甚吾郎は懐手し、薄雲に透けた月を見上げる。
「なぁ、勇次。俺たちゃ目先のことばかりに気ぃ取られてて、何かひとつ見落としてやしねぇか?」
「見落としてるって、何を?」
甚吾郎はゆっくりと月から目線を勇次に移した。
「かくし閭の遊神様はみんな仮の姿が花魁だ。だから俺たちゃ、遊神はみんな女だと勝手に思い込んでた節があるだろ」
「あ……」
勇次は息を呑んだ。
「黒い遊神は男かもしれねぇってか……?」
甚吾郎は否定も肯定もせず、勇次の瞳を真っ直ぐ見つめている。
「まさか甚さんは緑山が黒い遊神だって睨んでるのかい?」
「さっき、カマかけてみたんだ。空蝉が黒い遊神なんじゃねぇかってな」
「空蝉が? そしたらなんだって?」
「ムキんなって否定しやがった。てこたぁ、裏を返せば……だ」
「……」
「どう見てもまっクロだろ」
勇次は半信半疑で目を泳がせた。しかし、たしかに思い返せばそれらしい節はある。緑山は空蝉の馴染み客だ。彼女から蜩の愚痴を聞かされていた可能性は大いにあるだろう。それに加えて竜弥の言葉も思い出された。
——蜩のやつ、勇次のことが好きなんだろ。
妓夫への許されない恋心。空蝉に対する風当たりの強さからいって蜩が心を病んでいたであろうことはある意味わかりやすい。緑山がそれに気づいていたとしたら彼——黒い遊神が蜩を標的として心の闇に潜り込み、傀儡にしたのもうなずける。
——女心を利用しやがって……許せねぇ……
歯ぎしりする勇次の前で、甚吾郎は黙ったまま懐からリボルバーを取り出した。それを勇次の胸板に押し当てる。
「使い方はわかるな? あと4発残ってる。いざってときゃぁ迷わず撃て」
勇次の全身に緊張が走った。受け取るべきか受け取らざるべきか。勇次の右手はその迷いを示すかのように開閉を繰り返している。
——許せねぇ……けど……
ふと、緑山が登楼した後朝の空蝉の顔が脳裏をかすめる。彼の話をするときの弾んだ声、名残惜し気に見送るせつない瞳。緑山は彼女の恋情に気づいていながらそれをも利用したのだろうか。
温い夜風が頬を撫で、雲を取り去った。月明かりに照らされた右の掌をじっと見つめる。
「……」
ややあってから、勇次は意を決した顔で右手を上げた。
「甚さん、すまねぇ。俺にゃどうしても緑山が根っからの悪人たぁ思えねぇんだ」
そう告げ、リボルバーを押し戻す。
「甘っちょろいやつめ」
甚吾郎はふっと鼻を鳴らすとリボルバーを懐に仕舞い、金舟楼へ戻っていった。消える背中に一礼し、勇次も職人長屋へと向かった。
次回は第35話「腹の探り合い」です。