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非公許遊郭かくし閭(ざと) 巻の弐《黒い遊神》  作者: 阿羅田しい
第1章 新座者(しんざもの)
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第3話 薬売り

 (あか)()の薬売り緑山(りょくざん)が追いかけてくる。勇次とりんは立ち止まって彼を待った。

(むら)(さき)屋さんの若頭、こんにちは。おふたりも高林先生のところへ?」

 緑山が笑顔で問いかける。そうだと勇次が頷くと、緑山はりんを向いた。

「りんちゃん、こんにちは。毎月高林先生のお手伝い、精が出ますね」

 にっこりとお辞儀をするりんに代わり、勇次が答えた。

「毎月預かってもらってるんでね、診療所の手伝いくれぇしねぇと申し訳たたねぇから」

「高林先生、りんちゃんが手伝ってくれる日は患者が増えるっておっしゃってましたよ。りんちゃんは患者さんから人気あるみたいで」

「へぇ、そうなんだ……」

 勇次は少し寂し気な表情を残した。自分の知らないりんを知っている人間がほかにいる。心にかかる微妙な靄は嫉妬だろうか。

 顔を振り、気を取り直してふたたび歩き出す。朱座の住人に自分とりんの関係を悟られてはならないのだ。


 高林家の母屋に着くと妻のはま子が出迎えてくれた。

「勇次さん、りんちゃん、こんにちは。あら、緑山さんもご一緒でしたのね」

 3人は一緒に居間へ通された。勇次が高林に菓子折りを渡し、丁寧に挨拶する。それが終わるとりんは一息入れる間もなく、すぐに診療所へと向かった。

「りんは働き者だな。こっちは助かるが、今日はもう遅いんだから休んだっていいのに」

 高林が目を細めて溜め息をつく。妻はま子も温かい眼差しをりんの背中に向けた。

「じっとしてられない性分なんでしょう。動いていたほうが色々と気が紛れるのかもしれませんしね」

 ふたりの会話を聞き、勇次は静かに頷いた。城下町の大火からまだ半年も経っていない。業火に包まれ父親を失ったりんの心痛は計り知れないだろう。彼女にとっては記憶と聴力を失うほどの衝撃的な出来事なのだ。その辛い現実から目を逸らしたくなるのも無理からぬことである。


 高林の一人娘秀子が狭山茶を運んできた。優男二人を前に、年頃の秀子は顔を赤らめた。緊張しているのか、差し出す湯吞み茶碗がかちゃかちゃ音をたてている。震える手元を見遣り、勇次は秀子に微笑みかけた。

「秀子お嬢さん、りんと仲良くしてやってください。あいつ、耳が不自由なせいかなかなか友達できなくて」

「……はい……」

 秀子が慎ましやかに目線を下げる。勇次は安堵の笑みで畳に手を着き、頭を下げた。

「では、俺はこれで失礼します。りんのこと、よろしくお願いいたします」

「あら、もうお帰りですか? もう少しゆっくりしていらっしゃればいいのに。ねぇ、あなた」

 立ち上がろうとする勇次をはま子が引き留めた。高林も秀子も頷いている。

「ありがたいんですが、これから帰って道中の準備をしなきゃいけねぇもんで」

 するとそれまで黙って狭山茶をすすっていた緑山が口を開いた。

「花魁道中ですか……。そういえばいつの間にか肩貸し役は勇次さんになっていたのですね」

「ああ……」

 緑山の言いたいことはすぐにわかった。りんが大火で焼死したと思い込んでいたひと月半ほどの間、失意のどん底に陥り仕事にならなかった勇次の代わりに(たつ)()が花魁道中の肩貸し役を担っていたのだ。

「竜弥さん、最近お見掛けしませんがお元気にしてらっしゃいますか?」

「いや……その……」

 勇次は口ごもった。妓楼の跡取り息子が置手紙を残してふたたび失踪したなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えないではないか。

 ——竜弥の野郎、今度帰ってきたらまじ殺す。

 奴のことは思い出すだけではらわたが煮えくり返る。が、今ここで表情(かお)に出すわけにはいかない。

「ちょっと知り合いに会いに東京のほうへ……」

 竜弥が失踪する直前、陸奥陽之助という者から竜弥宛に文が届いていた、と姉お亮から聞かされていた。竜弥はその陸奥とかいう男に会いに行ったのではないかと姉は推測する。

「知り合い? どなたです?」

「……」

 問われて勇次は緑山の顔をじっと見つめた。緑山は朱座遊郭に来てまだ日が浅い(しん)()(もの)である。朱座は制外者(にんがいもの)の受け皿となっている「かくし(ざと)」だ。制外者は皆理由(わけ)有りの者たちばかり。だから、誰も互いの過去や事情は詮索しない、というのが暗黙の了解となっている。緑山はその朱座の不文律にまだ慣れていないようだ。

 勇次の諭すような鋭い眼光にはっと気づいた緑山は慌てて口をつぐんだ。

「あっ、すみません。余計なことを。では、私は薬の補充をしてまいります」

 そそくさと診療所へ向かう。その様子を見ていた高林は、狭山茶をすすりながら勇次の気を逸らした。


「今夜の道中も狭山の綿貫さんかね? 明治の世になっても遊郭に通えるほどの財があるのは羨ましいかぎりだね」

「いやいや。先生こそ茶園を作るって話じゃねぇですか。俺らちんけな妓夫(ぎゅう)からしたら、それこそ羨ましい話ですよ」

「やはり物を作ったり農作物を育てたり、なにかを産み出す仕事というのはいざというとき人を救うことになるだろうからな」

 生産は天候などの自然に左右される部分もあるが、半永久的に雇用を生み出すこともできる。一方、金融業や販売業は時代や景気に左右されやすく、破産の危険と常に隣り合わせだ。

「知っているか、勇次? どうも政府は秩禄の扱い方を考えているらしいのだ」

「秩禄の扱い方? いえ、初耳です」

「このところ続いていた戦でかなりの財を使ったようでな、どうにかして歳出を減らしたいのだろう」

 徳川幕府滅亡によって武家社会が終焉し、武士らはその職を失った。だが、彼らの秩禄負担は藩に委ねられたまま。このままでは藩の財政は破綻してしまう。戊辰戦争での功績を政府として還元することはできるが、章典禄を給付し終わったらその後はどうする……。

「政府は藩に、版と籍を国に返させようとするだろう。そうなれば武士だった者たちに秩禄は与えられなくなる」

「えっ?」

 勇次は目を丸くして驚いた。すぐさま顎に手を当て考える。武士の稼ぎが無くなれば巷に失業した浪人が溢れかえることは想像に難くない。武士の客が減れば遊郭も大打撃を受けるだろう。

 ——武士……? いや、待て。

 この問題の本質はそこではなく、もっと根深いところにあるのではないか。

「先生。狭山の綿貫家……山下屋さんは札差で莫大な財を成しています。旧幕府の家老たちにもけっこうな大金を貸してるって話です。その金を返してもらえなくなったら山下屋さんは……」

「勇次、気づいたか。やはりおまえは賢いな」

 勇次が続きを言いかけたところではま子が口を挟んだ。

「あなた、勇次さんをあまり引き止めたらいけないのではありませんか? これから大事なお仕事があるのでしょう?」

「ああ、そうだった。すまなかったな、勇次。りんのことは心配するな。大切に預かるゆえ」

「ありがとうございます、先生。よろしくお願いいたします」

 勇次は深々と頭を下げると高林の家を出た。診療所へ回り、そっと中を覗く。慈愛に満ちた笑顔を浮かべて患者に接するりんを見て、ホッとするやら少々寂しいような複雑な感情を抱いた。とともに、ぐっと愛しさが込み上げる。このままずっと見ていたい……。

 ——やべ、仕事仕事。

 そのままりんには声をかけず、西に傾きかけた太陽を見ながら勇次は朱座へと戻っていった。




 高林の診療所は陽が傾きかけても患者が途切れない。忙しく患者の手当をしていたりんは勇次が帰ったことを知らなかった。

 やがて陽が飯能や秩父の山塊の尾根にかかろうという頃、ようやく患者が途切れる。と、最後の患者を見送ろうと戸口に出たりんは、無言でそこに立っている百姓の少女に気づいた。年の頃は5、6歳だろうか。つんつるてんの短い裾から見える膝小僧が真っ赤に染まっている。りんは急いで少女を診療所に招き入れた。

 とりあえず板縁に座らせ、裏井戸へ水を汲みに走る。

「酷い傷ですね」

 緑山も急ぎ薬の用意をする。そこへ高林が戻ってきた。すぐに、小さな少女が膝小僧から真っ赤な血を流しているさまが目に入る。

「これは酷い。放っておいたら傷から風が入ってテタヌス(破傷風)になってしまうぞ。急ぎ手当てをせねば」

 風とはウィルスのこと。この時代、破傷風は命取りだ。井戸から水を汲んできたりんが少女の傷口をせっせと洗う。

「痛いよ、痛いよ!」

 少女は泣き叫んだが、りんは彼女を何とかなだめながら傷口を洗い終えた。次に緑山が用意しておいた消毒薬を高林が患部に塗る。少女はまた痛い痛いと泣き喚いたが、りんが彼女をしっかりと抱きしめてやり、なんとか治療を無事に終えた。

 りんが少女の涙を拭いてにっこりとやさしく微笑みかけると、少女は安心したのか次第に泣きやんでいった。


 やがて少女は放心したように大人しくなった。その場に和やかな空気が流れる。が、高林だけはその少女に違和感を抱いていた。大人しいのではない。どこか目が虚ろなのだ。今少し症状を詳しく診ようとした、そのときである。突然戸口から鬼のような形相をした女が飛び込んできた。

「うちの娘になにするんだい!」

 叫ぶなり女は少女の腕をむんずと掴み、ぐいと引っ張った。彼女は少女の母親らしい。

「大怪我をしていたゆえ手当てを施していたのだ」

 高林が冷静に答える。だが母親は聞いていないのか、その場で喚きはじめた。

「嘘つくんじゃないよ。勝手に手当てして薬礼をせしめようったってそうはいかないよ。わっちらみたいな貧乏人から金をむしり取ろうとするなんてとんだヤブ医者だよ、まったく」

 一気にまくしたてられ面食らう高林に代わり、緑山が割って入った。

「なんという言い草ですか。高林先生が手当てしてくださらなかったらあなたの娘さんは風が身体(からだ)中に回って死んでしまうのですよ」

「うるさい! わっちが馬鹿だと思って小難しいことぬかしやがって。金なんかビタ一文払ってやるもんか!」

 母親はそう吐き捨てるなり娘の腕を引き、戸外へと飛び出した。

「待て! 金はいいからもう一度診させてくれ!」

 高林が叫ぶも母親は聞く耳を持たない。道端に置いておいた御座(ござ)(むしろ)を拾い上げ、脇に抱えてあれよあれよという間に娘を引きずり去ってしまった。

「まるで嵐のようでしたね」

 緑山がきょとんと目を丸くする。高林は「よくあることだ」と言いつつも眉間に畝を作っていた。あの母親は小仙波村の貧しい百姓だが、おそらくそれだけでは食っていけず、毎晩夜鷹をして日銭を稼いでいるのだろう。医療費を払う金などあるはずもない。だからといって幼い少女を見殺しにできようか。

「緑山さんもお夕飯、一緒に召しあがっていってくださいな」

 心配そうに少女を見送る緑山にはま子が声をかける。りんは黙々と診療所の後片付けをした。高林家の一人娘秀子も診療所の片付けを手伝った。

 憮然と薬箱を片付ける緑山の横顔を、りんがちらっと見る。憂いの色を浮かべるその瞳が少し気になった。

次回は第4話「御曹司」です。


【用語解説】

◎秩禄:華族や士族が与えられた家禄&維新功労者に与えられた章典禄。ここでは主に武士の給料を指す。

◎版:土地

◎籍:人民

◎札差:江戸時代の蔵米の仲介業。旗本や御家人に代わって蔵米を受け取り、代行の手数料で儲けていた。蔵米を担保に金貸し業も行い、巨万の富を築く。

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