第29話 隠し事
女将に話があるという玉虫を当のお亮は訝った。勇次も眉を顰める。やはり昨日のことだろうか。
「お入り」
お亮は玉虫を招き入れた。これほど神妙な顔つきの玉虫は見たことがない。姉弟のみならず、いつも彼女と罵り合っている竜弥も少々驚いていた。
「玉虫、わっちに話ってなんだい?」
「実は蜩のことで……」
「昨日のこと、聞いたんだね?」
「あい。さっき仕置き部屋の戸板越しに蜩と話をしたんですがね」
「蜩と? それでなんだって?」
「それが……昨日のことは一切覚えてないって……」
「覚えてないだって? あんな大騒ぎを起こしといて覚えてないってどういうことだい」
またも姉弟は顔を見合わせた。
「やはり奴の仕業では?」
喬史郎が口を挟んだ。黒い遊神——。4人の脳裏にその名が浮かぶ。勇次はすぐさま視線を玉虫に戻した。
「覚えがねぇってなぁほんとか?」
長いまつ毛の奥に光る眸が玉虫を映す。これに捉えられては為す術もない。彼女は早々と観念し、白状した。
「たぶん、嘘だと思う……」
皆呆れ顔で一様に頭を抱えた。さらに問いただす。
「蜩が馴染みを空蝉に盗られたってなぁ?」
「いいえ、わっちが知ってる限り、そんな話聞いたことありませんねぇ」
玉虫が首を傾げる。
「玉虫、おめぇ、なんか隠してねぇか?」
今度は竜弥が詰め寄った。玉虫は唇を尖らせ、上目遣いで竜弥を見た。ピンとくる。
「あー、わかったぜ。蜩のやつ、勇次のことが好きなんだな? そうだろ。だから空蝉に嫉妬して言いがかりつけやがったんだ」
玉虫が躊躇いがちにこくりと頷くと、勇次は天井を仰ぎ見た。あまりの馬鹿さ加減に呆れ果ててものが言えない。遊女と妓夫の色恋沙汰がご法度であることを知らないはずはないだろう。それでも、いや、と思い直す。暴走を止められないのが色恋なのだ。その気持ち、今の自分ならわからないでもない。
「蜩のやつ、相当病んでるな」
竜弥は深い溜め息をついた。玉虫は、だから蜩をすぐに釈放してやってくれと懇願する。だがお亮は首を横に振った。玉虫の話をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。彼女が黒い遊神に操られている可能性もあるのだ。
「おまえの気持ちはわかったよ。けどね、どんな事情があろうと刃傷沙汰を起こしたことには変わりないんだ。みんなの動揺もまだ収まっちゃいないだろう。ほとぼり冷めるまで蜩には謹慎してもらうよ」
毅然と突き放す。うなだれる玉虫に勇次も声をかけた。
「心配すんな、すぐに放免してやるから。そうだ、せっかく休みになったんだ。おめぇも髪でも洗ってすっきりしたらどうだ?」
ひとまず言いくるめ、風呂に入るよう促す。丸めた背中を見送り、お亮が溜め息をついた。
「どうにかしてやりたいけど、こうなっちゃ蜩に分が悪いねぇ」
「女将さん、遊女を悪者にしてはいけません。これでは黒い遊神の思う壺ですよ」
お亮を励ます喬史郎を見て、勇次は沸々と怒りが込み上げるのを感じた。もちろん怒りの矛先は黒い遊神だ。
「にしても、黒い遊神の黒幕は誰なんだ。そいつの狙いはよ」
黒い遊神が存在する限り、それを創造した者も存在する。勇次に呼応するかのように喬史郎は身を乗り出した。
「幕府が滅びた以降も動きがあるということは、黒幕は旧幕府ではなく新政府と考えるのが妥当でしょう」
すると、即座に竜弥が反応した。
「いや、それは無ぇ」
3人一斉に竜弥を見る。
「なんで?」
「い、いや、なんとなくそう思っただけだよ」
ふうん、と勇次が竜弥を見据えた。不自然に目を逸らす竜弥に詰め寄ろうと体勢を変える。そのとき、今度はバタバタと子供の足音が近づいてきた。かと思った瞬間、内証の障子が開けられた。
「ねぇ、お薬のおにぃちゃん、まだぁ?」
障子の向こうから顔を出したのは七星だった。
「これっ、七星っ。内証に入っちゃ駄目だって言っただろ」
遣り手婆のお亀がぜいぜいと息を切らして追いかけてくる。子供のすばしこさには敵わないらしい。
「はははは、そうだったね。ようし、遊んであげよう。でも少しだけだよ」
喬史郎は笑いながら立ち上がった。わぁい、と人形片手に喜ぶ七星を抱き上げ、勇次を振り返る。
「少し相手をしたら私はお暇します。毒消しの丸薬を作らなければならないので、りんちゃんをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「あ……、りんはちょっと……」
歯切れの悪い物言いで勇次が口ごもる。お亮が躊躇いがちに寄り合いでの経緯を説明すると喬史郎は憤慨した。
「それはひどい。りんちゃんを疑うなんてもってのほかだ。それこそ黒い遊神の仕掛けた罠かもしれません。女将さん、勇次さん、私はりんちゃんがそんなことをする子ではないことはよく知っています。心を強く持ってくださいね」
最後に笑顔を見せる喬史郎に、勇次は戸惑いつつも礼を言った。
「……ありがとう。恩に切るぜ」
辨財天の隠し井戸は混み合っているため、丸薬作り用の水は邑咲屋の井戸を使ってくれと続ける。
「空蝉の顔、見てくかい?」
「いえ、今日はやめておきます。大門が閉まっているのに登楼したら変に思われるでしょう? それこそ空蝉は姉女郎たちの妬みを買ってしまいますよ」
さすがは遊女屋の息子、よくわかっている、と勇次と竜弥は満足げに微笑んだ。
喬史郎は元子持ちとあって子供の扱いが上手かった。聞くと、禿ともよく遊んでやっていたのだと笑う。
亡くした娘との時間を取り戻すかのように七星とひとしきり遊んだあと、彼は邑咲屋の井戸から水をもらい玄関を出た。暖簾先まで見送る勇次と竜弥を振り返る。
「初めて七星を見たのは道中でした。あまりにも生き写しだったから娘が生きていたのかとびっくりしましたよ」
「え、ひょっとして本物なんじゃ……。だって娘さんが亡くなったところは見てねぇんだろ?」
しかし喬史郎は苦笑しながら首を横に振った。
「私も最初はそう思ったのですがね。娘は生きていたら十歳です。残念ですが他人の空似でした」
ふと瞳に点った光が寂しげに揺れる。
「ああ、辛気臭くなってしまいましたね。忘れてください。では、私はこれで」
丁寧に頭を下げる喬史郎に、今度は竜弥が語りかけた。
「喬史郎さん、弾左衛門は芸州口での戦こそ行っちゃいねぇが、革田たち部落民を集めた功で平人に引き上げてもらえたんだ。ついでに手下まで引き上げてもらえたんだから、俺たち制外者もまだ望みを捨てずにいようぜ」
にかっと笑い、胸の前で拳をぐっと握りしめる。勇次は口を閉じたままその言葉を聞き、彼の拳を見た。喬史郎も同じように無言で視線を落とした。顔にはうっすら笑みが浮かんでいる。
「では」
微かな笑顔を見せ、喬史郎は背を向けた。小さくなってゆく後ろ姿が悲哀の色に染まって見えるのは気のせいか。想像を絶するほどの愛別離苦を背負ったその心理は、けして知ることができないのだろう。
「なんだ、今の?」
喬史郎の姿が見えなくなったところで、勇次はくるりと竜弥を振り返った。次はお前の番だと言わんばかりだ。
「今のって?」
「望みを捨てるなって言ったことだよ。おめぇ、まだなんか隠してるだろ」
「そう来ると思ったぜ」
竜弥はしれっと目を逸らした。
「わかってんなら洗いざらい吐け」
じっと竜弥の横顔を見つめ、勇次が詰め寄る。だが、竜弥は口をつぐんだままだ。
「言わねぇなら俺が言ってやる。おめぇ、さっき喬史郎さんが新政府を疑ったときムキんなって否定したよな。その前にゃ全然違うとも言ってたし。まさかとは思うが、おめぇ、新政府と何か関わりがあるのか?」
竜弥は尚も黙ったままだ。ほかの相手ならばおチャラけて誤魔化すところだが、目の前にいるのは勇次だ。簡単に煙に巻ける相手ではないことは当の竜弥が一番よく知っている。
「今は言えねぇ」
「なんで?」
「策がおじゃんになっちまったら困るんだ」
「策? おめぇ、なんかとんでもねぇ悪巧みしてんじゃねぇだろな」
「悪巧みなんかしてねぇよ。その逆だ。勇次にとっても悪ぃ話じゃねぇぜ」
「だったらなんで言えねぇんだよ」
勇次に詰め寄られ、竜弥はふたたび黙りこくってしまった。勇次は竜弥の肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
「竜弥、おめぇが俺に言えねぇことなんか何もねぇはずだろ。俺たちゃガキの頃からなんでも腹割って……」
「るせっ、俺たちゃもうガキじゃねぇんだ。ツレだからっていい年こいてなんでもかんでも教えなきゃいけねぇってこたねぇだろ」
竜弥は勇次の手を乱暴に払いのけ、彼の衿を掴んだ。驚いたのは勇次のほうだ。言葉を失い驚愕の眼を向ける竹馬の友に、竜弥ははっとした。
「……すまん、言い過ぎた」
目を伏せ、手を離す。
「とにかく今は言えねぇんだ。俺一人で進めてる策じゃねぇからな。万が一どっかから漏れて邪魔されでもしたらやべぇのは俺だけじゃねぇんだよ」
仲間に迷惑はかけられないと訴える竜弥の眸の奥を、勇次がじっと見つめる。見つめながら何か思考を巡らせているようだ。やはりこの男の頭脳は侮れない。
竜弥も勇次の眸から目を逸らさず真摯に告げた。
「俺はなんとしてでもこの策をやり遂げたい。勇次、頼む、わかってくれ。時機が来たら必ず話す。だから……」
「わかったよ」
勇次は乱れた衿元を直しながら深い溜め息をついた。
「おめぇがそこまで賭けてることなら聞かねぇでおいてやる。その代わり、命だけは落とすんじゃねぇぞ。これだけは約束しろ。命を粗末にするような真似しやがったら、そんときゃ黙ってねぇからな」
そう言い切って拳を顔の前に突き上げる。
「わかった、約束する」
竜弥も拳を握りしめ、勇次の拳にこつんと付き合わせた。
次回は第30話「お国言葉判明」です。