第28話 緑山の素性
今回から第7章「朱座にやってくる者たち」に入ります。
——緑山さんが喬史郎……?
勇次は緑山と竜弥の顔を交互に見比べた。竜弥もにわかに信じられないようで、緑山の顔をまじまじと見つめている。
「あんた、本当に喬史郎さんかい? へぇ、意外と色男だったんだな。こりゃたまげたぜ」
竜弥が驚くのも無理はない。彼が喬史郎を助けた当時、喬史郎は髪はザンバラ、頬から顎は伸びた無精髭に覆われ、身体も痩せこけていたのだから。
「竜弥さん、その節はお世話になりました。あなたに命を救っていただいたお陰で今の私があります。感謝してもしきれません」
「いやぁ~、照れるぜ」
でへへと竜弥が頭を掻きながら白い歯を見せる。横目でそれを一瞥し、勇次は袖に手を入れ腕組みした。状況がいまいち呑み込めないお亮が怪訝な顔で竜弥の腕をどつく。
「竜弥、どういうことだい? 説明おし」
立ち話もなんだからと、4人は内証へ場所を移すことにした。
「あっ、お薬のおにぃちゃん」
2階の踊り場で遊んでいた七星が声を上げる。人形を小脇に抱え、だだだっと駆け降りてくる彼女を勇次は階段途中で抱き止めた。
「おっと、来るんじゃねぇ。俺らはこれから大事な話があるんだ。おめぇは花魁の部屋で読み書きの練習してろ」
不服そうに頬を膨らませる七星に、緑山もとい喬史郎も声をかける。
「七星、話が終わったら少しだけ遊んであげるから、いい子にして待っていておくれ」
喬史郎の笑みは中毒騒動の直後とは思えないほど穏やかだ。勇次はほんの一瞬、この男の奥底に潜む闇を感じた。気のせいか。
ひとまず七星を孔雀の部屋に送り届けてから、勇次は内証へと入った。床の間の前にはすでにお亮、竜弥、喬史郎の3人が座っている。勇次もすぐに姉の横に腰を下ろした。
「さて……」
と、まずは竜弥が切り出した。昨日風呂で勇次に話した内容をざっとお亮に説明する。喬史郎もそれを聞きながらうんうんと頷いているところを見ると、竜弥の話に相違はないようだ。
「緑山さん、じゃなくて喬史郎さんと呼んだ方がいいか」
竜弥が一通り話し終えたところで勇次が訊ねる。喬史郎は、どちらでも、とにっこり笑った。
「じゃ、喬史郎さん。まず、ひとつ確かめてぇことがある。芸州にかくし閭があったってなぁ間違いねぇんだな?」
「はい。間違いありません。私の実家はそのかくし閭で遊女屋を営んでいました。私はそこの次男坊。つまり私は竜弥さんと同じく生まれついての制外者なのです」
勇次はゆっくりと頷いた。彼の凛とした表情を見て喬史郎も、この男ならば大丈夫、と安心したように語りはじめた。
「旧幕府が長州征討に乗り出したのは3年前のことでした。旧幕府は穢多頭の弾左衛門を使って穢多や非人たちからも兵を集めたのです。弾左衛門は幕府の期待に応え、大坂のとある革田の村を通じて摂津、河内、播磨一帯の部落民をまとめ上げました。ただ、この軍勢は摂津の反対にあって動かされることはありませんでした。そこでこれに代わる戦力を旧幕府は集めなければならなくなったのです」
出兵要請は西国の各藩に出された。芸州藩ははじめ長州征討に難色を示すが、それでも最終的には幕府軍に加担することになった。長州藩が町人や農民のみならず力士・僧侶・猟師・漁夫などありとあらゆる平人に加えて被差別層の部落民まで動員したのに対抗し、芸州もすべての領民を動員できるよう手配したのである。
「有無を言わさず、我々かくし閭の制外者も頭領惣領以外はもれなく徴兵されました。遊女屋の次男坊に過ぎなかった私もその一人です」
喬史郎は一息つき、勇次と竜弥の屈強な体躯をちらりと見た。
「おふたりならおわかりいただけるかと思いますが、かくし閭の男衆、特に遊女屋の若い衆は気性が荒く腕の立つ者ばかりでしてね。それはもう勇ましい戦いっぷりでしたよ」
結果的に長州軍の最新鋭の武器を前に屈することにはなったが、芸州の制外者たちはまるで勝利したかのような感覚に陥ったという。
「敵将の首をたくさん上げたから、当然褒美も期待したんですがね。たとえば平人に戻してもらえるとか……」
喬史郎はふっと鼻を鳴らした。実際翌年の春には褒美をもらった者もいたようだがそれは身分解放とは程遠いものだった、と虚し気に笑う。
「結局、帰郷してからは以前と変わらない生活が待っていたようです。戦の最中は百姓らと変わらぬ身形を許されていましたが、戦から帰ったあとはふたたび部落民の格好に戻されて。けれども、それに……」
「それに抗った者は皆殺し——。そういうことだな?」
勇次が代わって答える。喬史郎は唇を震わせた。彼らは激戦区へ送られ、危険地帯である最前線での死闘を余儀なくされている。旧幕府や藩が被差別民の命を虫けら同然に扱い、利用したことは誰の目にも明らかだ。
「現実は目を覆うばかりのものでした。戦から帰ってきた日の光景などはいまだに忘れることができません」
戦功を挙げ意気揚々と帰郷した男たちを愕然とさせたのは、跡形もなく消え去ったかくし閭と灰燼と化した革田の村だった。彼らの絶望感たるやいかばかりか。
「私は恋女房と愛娘を失いました。私だけではありません。戦に出ていたかくし閭の制外者すべての者が皆、家族や友を失ったのです」
勇次は腕を組み、瞼を閉じた。眼裏に映し出されたのは1月16日、川越城下炎上の惨劇だ。翌日りんが焼死したと知ったときの絶望は筆舌に尽くし難い。胸が張り裂けそうなほどおりに沈む悲しみに身も心も壊されてゆく感覚。あれは誰であろうと理解し得ないだろう。
愛する者たちをすべて失い、悲嘆に暮れる男たちの姿があの日の自分に重なる。しかもかくし閭の制外者たちには無慈悲な仕打ちが追い打ちをかけた。穢多にならなければ生かしてはおけぬ、という残酷な指令だ。
お亮が目を閉じ、首を横に振る。竜弥は無言のまま動かない。だが勇次は感傷を押し殺し、冷静な口調である疑念を発した。
「なんで皆殺しにする必要があるんだ? また戦が起こったときのために兵は少しでも多く残しといたほうがいいだろ。ここまであからさまに利用したんだ。制外者の身分引き上げは難しいとはいえ、褒美を与えてまた働いてもらったほうが得なのにな」
「誰が得するんだい? 旧幕府かい? それとも新政府かい?」
愚かな戦への憤りをひた隠し、お亮も疑問をぶつけた。喬史郎も腕を組む。
「たしかに、我らはそのどちらにも利用価値はありました。抹殺してしまうには惜しいほどの戦力です」
「戦力どころか脅威なんじゃねぇか?」
勇次の一言に一同が黙った。異国船の来港、物価高騰など不安定な世情の中、徳川幕府の権威が失墜の一途を辿っていた当時、鬱積した不満を爆発させた百姓らの一揆が各地で勃発した。旧幕府にせよ新政府にせよ、部落民や制外者ら被差別民が一大勢力となり得ることを危惧した支配層が長州征討を機に一気に葬ってしまおうと画策したとしてもおかしくはない。
皆、頭を捻った。だが、どれもいまいち説得力に欠ける気がして議論はそこで滞ってしまった。
「なーんて全然違ったりしてな」
と、さっきからずっと黙りこくっていた竜弥が唐突に声を上げた。
「ん?」
3人が同時に竜弥に視線を向ける。
「あれっ? 俺、なんか今すげぇいいこと言った?」
「いや、そうじゃねぇけど、何が違うんだ?」
「だってよ、葬られたのは戦に出てた制外者だけじゃねぇじゃん。かくし閭まるごと葬られたんだろ? てこたぁ、かくし閭の存在そのものを抹殺したい奴らがいたってことじゃねぇのか?」
「だから、お上が一揆を起こさせねぇために先回りして全滅させたってことじゃねぇのか?」
「一揆なんか起こす必要ねぇだろ。かくし閭の連中はただ穏便に暮らしてぇだけだ。遊神さまに護られて遊郭が繁盛すりゃぁそれでおまんま食っていける。それ以上のことなんか望んじゃいねぇ」
たしかに……とほかの3人は声を唸らせた。
「じゃあ、いったい誰がかくし閭を滅ぼしたんだ?」
勇次の疑問に答えたのは喬史郎だった。
「黒い遊神です」
「……!」
その言葉に一同緊張が走った。
「黒い遊神が?」
「はい。私は竜弥さんと別れた後、かくし閭を滅ぼした者の正体を突き止めようと各地を旅して回りました。そしてついにその正体を突き止めたのです」
竜弥の眸が鋭く光る。その気配を察しつつ勇次はつぶやいた。
「それが黒い遊神だったってわけか」
その導き出した答えに喬史郎が大きく頷く。直後勇次の頭に浮かんだ素朴な疑問は竜弥の胸にも湧いたようだ。
「それ、どうやって知ったんだ?」
「サンカです。サンカから聞き出しました」
納得したように一同が頷いた。遊神は白黒にかかわらず霊山で作られる。山を自在に往来するサンカは山のことならすべて知っているのだろう。
「サンカから黒い遊神がかくし閭すべてを滅ぼすつもりだと聞いた私は、以前助けてくださった竜弥さんが川越のかくし閭の傾城屋だということを思い出したのです」
「なるほど、黒い遊神の次の標的は朱座ってわけか。それであんたは仲間の仇を討つために黒い遊神を追って川越に来た、そういうことなんだな?」
勇次の言葉に喬史郎は口を堅く結んで頷いた。腕を組み直す勇次の横で竜弥はしたり顔だ。勇次は竜弥の頬をぎゅっと摘まんだ。
「いてっ。なんだよ、勇次。俺が喬史郎さんを助けたお陰でことの経緯がわかったんだぜ」
「だからといってまだなんにも解決しちゃいねぇんだ。へらへらすんじゃねぇ」
竜弥に釘を刺し、喬史郎を向き直す。
「ところで、喬史郎さん、あんた、今この朱座に黒い遊神が潜んでると思うかい?」
鎌をかけてみる。喬史郎は即答した。
「はい、なんとなく」
「その根拠は?」
「奥井戸の騒動です。黒い遊神のやり口は人の心を分断することから始まるのです」
「分断……。やっぱり奴らは住人の仲違いを狙ってやがったんだ」
「そうです。芸州のかくし閭は燃えて滅びました。火を消し止めるためにはどうしても住人同士が力を合わせなくてはなりません。しかし仲違いをしたままでは……」
喬史郎が皆まで言わずとも勇次は話を理解した。消火活動の連携を崩そうと住人の分断が図られたことは容易に想像がつく。そのために井戸に毒を盛るという手段がとられたのだろう。
そのとき、そうか……とお亮が思い出したように顔を上げた。
「昨日の蜩と空蝉の諍いもそのせいかね?」
「うーん、まだなんとも言えねぇなぁ」
勇次が半信半疑で首を捻る。だがお亮はまだ不安を隠せない。
「でも、黒い遊神が蜩を操って……てことは考えられないかい?」
「けど、そうなると奥井戸に毒を盛ったのは蜩ってことになっちまうぜ。だって朱座に潜んでる黒い遊神が操れるのは一人だけなんだろ? って甚さんが言ってたんだよな?」
お亮は弟の返答を聞き、うつむいた。女将として従業員ら全員を信じなければならないのだ。ましてや遊女を疑うようなことはしたくない。
「姉ちゃん、それは一旦置いておこう」
勇次がなだめるように姉の背中に手を置く。と、そこへ番頭新造お甲が障子の外から声をかけてきた。
「女将さん、お取込み中すみませんが、ちょいとよござんすか?」
「なんだい、急ぎの用かい?」
「急ぎといいますか、玉虫が女将さんにお話があるそうで……」
玉虫?とお亮は勇次と怪訝に顔を見合わせた。
次回は第29話「隠し事」です。
【用語解説】
◎遊女屋:遊郭の妓楼。傾城屋、女郎屋と同義。