第26話 容疑者はりん
竜弥の話では、茶屋見世や商店街の住人が軒並み被害に遭い、開店が困難であることから、今日の朱座遊郭の営業は見送られることになったという。
結界は白い遊神三柱によって閉じられ、住人もそれ以外の者も出入りは不可とされた。高林医師の診療所で受診していた者たちも連れ戻され、実質、朱座遊郭の住人らは結界内に監禁状態となったのである。
仮に毒を盛られたのだとすれば下手人がいるはず。出入り禁止は下手人を逃さないための緊急処置でもあった。
午後になると、比較的軽傷で済んだ住人らを交え、急遽寄り合いが開催された。邑咲屋は竜弥に留守を頼み、女将のお亮と若頭の勇次が出席した。惣名主でもある金舟楼は大旦那の勝治郎と若旦那甚吾郎が雁首揃えている。
「伊左衛門さんが留守なのが幸いだったな」
甚吾郎がお亮と勇次に耳打ちする。ふたりは大きく頷いた。邑咲屋妓楼主伊左衛門がいたら場違いなことを言い出しかねない。不幸中の幸いというべきか、彼が盆に帰省しなかったことに心底安堵する。だが、彼がいないからといってその場に波が立たないわけではなかった。
「おうっ、惣名主さんよぉっ! こりゃあ、いってぇどういうことだい!」
「なんで俺らが使ってる奥井戸だけに毒が入ってたんだよ」
「水がなかったら、俺ら、これからどうやって暮らせってんだ」
住人らの不満は一斉に惣名主へとぶつけられた。
「まぁ、一旦落ち着いてくれ。水は弁天様の井戸を使ってくれればいい。こんなときのために備えてあるんだから遠慮なく使ってくれ」
朱座遊郭では元々、井戸枯れなど不予の事態を想定し、金舟楼近くにある辨財天の社殿下に隠し井戸を備えてあるのだ。
「なぁ、金舟楼さんよ。あんたら傾城屋の井戸はなんともねぇっていうじゃねぇか。なんでなんだよ?」
「それは、水脈が別だから……」
各妓楼が持っている井戸は辨財天の水脈を元としている。つまり、広小路のこちらと向こうの井戸は水脈が別なのだ。これもやはり不測の事態に備えてのことだった。だが——。
「そういうことじゃねぇよ!」
声を荒げたのは酒屋の店主だった。茶店の女将も同調する。それで皆が納得するはずがないのだ。
「なんでわっちらの井戸だけ毒を盛られて、あんたらの井戸には毒を盛られなかったのかって聞いてんだよ」
そうだそうだ、と住人たちが口々に声を上げる。勝治郎は返答に窮し、息子を見た。だが、父に助けを求められた甚吾郎も住人が納得する答えが見つからず、厳しい顔つきで唇を噛むばかりだ。
「まだ毒を盛られたと決まったわけじゃねぇ。今調べてる最中だ」
苦渋の表情で絞り出した甚吾郎の答えに、住人たちは苛立ちを隠さない。
「なに呑気なこと言ってやがる。あんたらは被害に遭ってねぇからどうせ他人事なんだろ」
「他人事なわけねぇだろ。これは朱座全体の問題だ。もし毒を盛られたとしたら、次は俺ら傾城屋の井戸が狙われるかもしれねぇんだ。呑気になんかしてられるかよ。傾城屋の井戸までやられちまったらそれこそ朱座の人間全員が共倒れになっちまうんだぜ」
甚吾郎の言葉でひと先ず住人たちは口をつぐんだ。それを見て続ける。
「結界の外に出られねぇのは、下手人がいた場合に逃さねぇためだ。しばらくは堪えてくれ。原因を突き止めるためにもみんなで力を合わせるんだ。そうだろ?」
次第に場の空気が融和に傾いてゆく。最初は息まいていた酒屋の店主も大人しくなった。
「わかったよ、金舟楼の若旦那。よし、こうなりゃ俺もひと肌脱ぐぜ。下手人を捕まえるためにゃどうしたらいい?」
陶器屋の亭主も呼応する。
「よし、みんな、怪しい奴を見かけたらすぐとっ捕まえようぜ。幸い昨日は盆休みで客はいなかった。てこたぁ、下手人は朱座の住人に絞られるってこったな」
もはや下手人が存在することを前提に話が進められてゆく。甚吾郎が訂正しようとするも、怒りに任せた彼らの勢いはもう止まらなかった。
するとそれに水を差すように建具屋の息子が鼻を鳴らした。
「ばーか、朱座なんか怪しい奴だらけだろ。なんたって制外者の寄せ集めなんだからよ。特に……」
せせら笑いを浮かべ、切見世の連中を一瞥する。それに気づいた切見世の主人が激高した。
「てめぇ! 俺らを疑ってやがるのか! ざけんじゃねぇ! 俺らだって奥井戸使ってんだ。なんで自分で自分の首絞めることしなきゃなんねぇんだよ!」
切見世の主人は立ち上がり、真っ赤な顔で建具屋の息子に掴みかかった。勇次ら男衆が慌ててふたりを止めに入る。
「やめろって! 仲違いしてるときじゃねぇだろ。今、若旦那がみんなで力合わせようって言ったばっかじゃねえか。あんたら何聞いてたんだ?」
その様子を見ていたお亮がはたと思い出した。
——仲違い……?
まさか、黒い遊神はこれを待っていたのではないか。このことを甚吾郎に伝えようと腰を浮かせたそのときだ。
「そういえば、わっち、怪しい奴を見かけたよ!」
唐突に声を上げたのは、青屋の女房だった。一斉に皆が彼女を注視する。
「怪しい奴を見かけたって本当かい? いってぇいつ、どこで?」
「昨日だよ。ほら、奥井戸に落ちた人形を拾いに入った娘がいたじゃないか。きっとあの娘が人形を拾うふりして毒を入れたんだ」
青屋の女房の言葉に、にわかにその場がどよめいた。勇次とお亮が咄嗟に顔を見合わせる。昨日奥井戸に落ちた人形を拾った娘といえば、りんしかいないではないか。
「は? ざけんな! りんが毒を盛るわきゃねぇだろ!」
勇次は反射的に叫んでいた。だがそれを聞き、茶店の女将が鬼の首を取ったようにまくし立てる。
「そうだ、りんとかいうあの娘、邑咲屋さんとこの使用人じゃないか。たしか、あんたたち姉弟の妹だったよね? そうだよ、あの子だよ。あの子が下手人に違いないよ」
突としてざわざわと場の空気が澱んでいった。確かに昨日の騒ぎは多くの住人たちが目撃している。
「そういや昨日、井戸ん中にいたのは邑咲屋さんとこの娘だったなぁ」
「うんうん。井戸に人形落とすなんて出来すぎだよな」
「てこたぁ、やっぱりあの娘が……」
寄り合いに参加している者たち一同が勇次とお亮に疑いの眼差しを向けた。
「てめ、適当なこと言いやがって。なんの証拠があるってんだ。言ってみろ!」
鬼の形相で勇次が茶店の女将に詰め寄る。茶店の女将も負けじと言い返した。
「証拠なんかなくたって忘八の身内ならやりかねないってことだよ!」
「だれが忘八だ、このアマ!」
勇次は茶店の女将の衿を掴もうと手を伸ばした。
「お待ち、勇次!」
咄嗟に彼を制したのは姉のお亮だった。
「姉ちゃん、なんでだよ。こいつらりんを疑ってんだぜ。これが黙ってられっかよ!」
一度足を止めた勇次は、ふたたび茶店の女将を睨みつけた。今にも掴みかかりそうな彼を、今度は甚吾郎が止める。
「待て、勇次」
勇次の腕を掴み、お亮を見る。甚吾郎につられて勇次も姉を見た。お亮はゆっくりと腰を上げ、粋な立ち姿で皆の前に躍り出た。
「皆の衆。この邑咲屋をお疑いになるのも無理はござんせん。たしかにわっちら傾城屋は忘八と呼ばれてます。ですがね、わっちらは傾城屋の稼業以外、お天道様に顔向けできないことなんざ何ひとつしてやしませんよ」
お亮は色気のある吐息をひとつ漏らし、鮮やかな明眸でぐるりと全員の顔を一望した。男衆はその色気にやられ、ごくりと息を呑む。女衆は妬まし気に歯ぎしりしながら厳しい眼を向けている。だがお亮はそれらを一顧だにせず続けた。
「それでもこの邑咲屋をお疑いなら、わっちらが本当の下手人を捕まえてみせようじゃありませんか」
瞬間、その場が一気にざわめいた。勇次は黙っていられず口を開く。
「姉ちゃ……」
「おまえは引っ込んでな!」
姉に一喝され、勇次はぐっと言葉を呑み込んだ。仕出し屋の女房が口を挟む。
「あんたらが下手人を捕まえるだって? 面白い。やってみなよ。ただし早いとこ頼むよ。こちとら商売がかかってるんだ」
「よござんす。氷川さんの神幸祭までに形付けようじゃありませんか」
「ちょいとお待ちよ。氷川さんの神幸祭っていや再来月じゃないかえ。あとふた月も先だよ。そんなには待てないね」
女衆からは不満が上がったが、男衆からは嘲笑が上がった。
「まぁまぁいいじゃねぇか。それよりお亮さんよ、もし約束が守れなかったらどうしてくれるんだい? 広小路で裸踊りでもしてくれるってのかい?」
どっと下世話な笑いが湧き起こる。ぶち切れそうになる勇次の肩を押え、代わりに甚吾郎が怒号を飛ばした。
「うるせぇっ! 黙って最後まで聞きやがれ!」
その場が一瞬にして水を打ったように静まり返る。やはり甚吾郎の一声は絶大だ。お亮もふっと笑みを浮かべ、続けた。
「よござんす。裸踊りでもなんでもいたしんす。その代わり、もし下手人がわっちの妹じゃなかったら、この落とし前、きっっっちりつけさせてもらいますよ」
微笑を一変させ、鋭い目つきで周囲を睨みつける。
「よござんすね!」
それ以上は誰も何も言わなかった。いや、お亮の気迫に気圧され何も言えなかったといったほうが正しいか。皆が納得したかどうかはわからない。が、その場は一旦散会となった。と、思ったのだが——。
「ちょいとお待ち。まだ話は終わっちゃいないよ」
皆が帰ろうと腰を上げる中、茶店の女将がお亮を呼び止めた。彼女が歩み寄る。
「わっちらはまだあんたの妹を信じたわけじゃないんだ。本当の下手人を捕まえるまでは納屋にでも閉じ込めておいとくれ」
吐き捨てるように言い、茶店の女将はその場を後にした。彼女の後に続く他店の女衆どももこれ見よがしに悪態をついてゆく。
「ちょっと美人だからって調子に乗りやがって。男衆に色目使ってんじゃないよ」
だが、お亮は一瞥をくれただけで不敵な笑みを浮かべている。
「なにが可笑しいんだい。馬鹿にしてんのかい?」
ぎりぎりと歯ぎしりする女衆を尻目に、お亮は涼しい顔で素通りしていった。同じ土俵に立つのも馬鹿馬鹿しいといったふうだ。かつては朱座随一の花魁であったお亮に彼女らが敵うはずがないのである。
「竜弥がこの場にいたら、うるせー附子とか言って火に油注いでたろな」
危ねぇ危ねぇと炎上を免れたことに安堵し、甚吾郎が冷や汗を拭う。勇次はうんうんと頷いたあと、姉の背中を追った。
次回は第27話「お亮、甚吾郎にフラれる」です。