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第25話 周章狼狽

 勇次と竜弥が広小路を通り抜けるころには、騒ぎはさらに大きくなっていた。

「甚さん!」

 茶屋見世通りの入り口から騒ぎを俯瞰していた甚吾郎にふたりが駆け寄る。彼の視線の先には朱座の住人たちが苦しみ悶える地獄絵図が広がっていた。胸を掻きむしりもがき苦しむ者、腹を押えてのたうち回る者、血反吐を吐いて気を失いかけている者など、皆一様に苦痛を訴えている。

「甚さん、いってぇ何が起きてんだ?」

「わからねぇ。だが、見ての通りだ。俺一人じゃどうにもなんねぇ。今、うちの(わけ)()に傾城屋から人手を集めさせてる。おめぇらんとこも若ぇ衆総出で貸してくれ」

 合点承知と竜弥が邑咲屋に急ぎ戻る。勇次は甚吾郎とともに住人たちの介抱に奔走した。


「あっ、勇次さん! 助かります」

 住人らを介抱する者の中には緑山もいた。

「緑山さん。あんた、無事なのかい?」

 勇次が駆けつける。緑山は苦しむ住人に丸薬を飲ませながら答えた。

「はい。私は昨日の夕方から出かけてまして、つい今しがた帰ってきたばかりなんです。そうしたらこんなことに……」

 とりあえずこれを飲ませるようにと、勇次と甚吾郎に毒消し薬の入った袋を渡す。溶けやすい薬だから水なしでも飲めるらしい。次々に倒れている者に飲ませてゆく。たしかに水を汲んでいる暇などないかもしれない。さすが緑山の薬は要領を得ていると感心しつつ、勇次と甚吾郎も彼の真似をして飲ませていった。

 ——しかし、なんだってこんなことに……

 勇次が疑念に思っているところへ竜弥が若い衆を引き連れて駆け付けた。

「勇次、原因はわかったのか?」

「いや、わからねぇ」

 とにかく薬を飲ませてやってくれと指示し、介抱に明け暮れる。そうしている間にも病人は増える一方だ。大なり小なり、おそらく広小路から向こうの住人のほとんどが苦痛を訴えている。

「これじゃキリがねぇな」

 丸薬を与えつくした甚吾郎が立ち上がる。それに合わせて緑山も勇次を振り返った。

「薬が足りないかもしれません。急いで作らなければ。勇次さん、りんちゃんを貸していただけませんか。彼女なら作り方を知っていますので」

「あ、ああ。わかった」

 勇次は韋駄天の権八に急ぎりんを連れてくるよう命じた。空になった薬袋を見る。

「緑山さん、この薬を使うってこたぁ、こいつらみんな毒に当たったってことかい?」

「ええ、症状からいっておそらくは。なにか悪いものでも口にしたとしか思えません」

 緑山は集団食中毒の可能性を示唆し、追加の薬を作るため長屋へと戻っていった。


 勇次は考える。広小路のこちら側——妓楼街の住人には症状を訴える者は皆無だ。緑山の見立てによれば広小路の向こう側の住人だけが全員同じものを食べたということになるが、昨日は盆休みで飲食店も一斉に休業している。全員が同じものを食するということは不可能に近い。

「毒気が流れているなら妓楼街(おれらのほう)にも被害が出ているはずだが……」

 甚吾郎が腕組みして首を傾げる。妓楼街の人間はぴんぴんしている、ということは毒気のせいでもない。

「昨日までは何ともなかったんだよな。今朝になっていきなり変わったことがあったってことか?」

 竜弥の疑念に勇次も拳を口に当てて頭を捻った。記憶の糸を手繰り寄せ、昨日と今日の違いを必死に考える。


 昨日は起床後、奥井戸に落ちたりんの救出騒動があった。そのあと自分はりんと禿(かむろ)たちを連れて氷川神社参拝に出かけ、朱座を留守にしていた。竜弥もそのあとすぐに空蝉を連れて赤間川の灯篭流しへ出かけてしまった。自分と竜弥が留守の間に何かあったということか。

「甚さんは?」

「俺はずっと朱座にいたが、別におかしな騒ぎはなかったぜ」

 甚吾郎の答えに嘘はないだろう。姉お亮もなにも言ってはいなかった。何かあればすぐに教えてくれるはずだ。さらに、自分たちの帰宅後も特段変わったことはなかった。

「茶屋見世通りか商店街のほうで何かあったのか?」

 竜弥が呟いた。広小路のこちら側にいる自分たちの気づかぬところでなにか小さな騒動があったのだろうか。ほんのわずかでもいい、何か手がかりはないだろうかと辺りを見回す。だが不審な点はそう簡単に見つかるはずもない。

 長屋の木戸の陰では緑山がこちらの様子を窺っている。人影に紛れて視線は合わなかったが、おそらくりんの到着を待っているのだろう。


 引き続き皆で首を捻っていると、権八がりんを連れて戻ってきた。りんはそのまま長屋へと走ってゆく。勇次はその姿を見送りながらふたたび頭を捻った。

 茶屋見世通りか商店街で何かあったのでは、という竜弥の言葉が妙に引っ掛かる。

 ——広小路の向こう側で何かがあって、こっち側ではなかったこと……

 しばらくすると、事情を把握したりんが丸薬を練るために奥井戸へと水汲みに向かっていった。と、そのとき、彼女を見ていた勇次がはっと顔を上げた。

 ——もしかして……

 咄嗟に駆け出す。彼が向かった先はりんの元だった。

「りん、待て!」

 だが、耳の不自由なりんに勇次の声が届くはずもない。りんは彼に気づかず、鶴瓶桶を井戸の中に落とし、綱を引っ張り上げた。

「りん、触るな!」

 勇次はりんを羽交い絞めにし、彼女が掴んでいた綱を取りあげた。と同時にカラカラと滑車は勢いよく回り出し、水の入った鶴瓶桶はあっという間に井戸の中へと沈んでいった。

 りんを抱きしめたまま、井戸の中を覗き込む。波紋に騒いだ水面は次第に鎮まり、やがて青空を背にした勇次とりんの顔をくっきりと映し出した。

「パチ、緑山さん呼んで来い!」

「へ、へいっ!」

 わけもわからず言われるがまま権八が走り出す。りんも突然のことに驚き、勇次の腕の中でしばし固まっていた。そんな彼女を勇次がさらにきつく抱きしめる。ほーっと安堵の息を大きく漏らす彼に、甚吾郎が青褪めた表情(かお)で近づいた。

「勇次、まさか……水か?」

 勇次はりんを抱きしめていた腕を少し緩めた。だが、まだ完全に離す気にはなれない。右腕を解き、左腕でりんの肩を抱いたまま答える。

「ああ、そうだ。広小路の向こう側にあって俺たち妓楼街にないもの」

 そこでようやく竜弥が勇次の言わんとしていることを理解した。

「奥井戸……。そうか、俺ら傾城屋は自分とこの井戸を使ってるから巻き込まれなかったんだな」

 勇次は拳を唇に押し当て考え込んだ。何気なくりんを見つめていると、不意に空蝉の娘が怪我をして高林医師の手当てを受けたという話が思い出された。娘は疫痢に罹患していて、その後すぐ死に至ったのだ。


 苦しむ住人らに目を遣る。嘔吐、腹痛、意識混濁……。もしや奥井戸は疫痢の細菌に穢されてしまったのではないか。

 ——いや、でも疫痢は子供しか罹らねぇ病だ。空蝉も俺も感染(うつ)っちゃいねぇし……

 勇次の顔色がさっと変わった。ならば奥井戸を汚染した細菌は大人も感染する赤痢ということなのか。そのことを甚吾郎に伝えようとしたところで緑山がやってきた。

「勇次さん、なんでしょう?」

「緑山さん、この井戸の水、調べられるかい? たとえば血屎(赤痢)とか……」

 緑山は勇次の言葉にはっとし、一瞬言葉を失った。が、すぐに冷静さを取り戻し、事態を察知したようだ。

「残念ながら水を調べる薬はありません。古典的な方法ですが、金魚か何か生き物があればわかるかもしれません」

 それを聞いた甚吾郎がすぐに金魚屋を呼び寄せた。全額買い受けると言うと金魚屋は縁日の金魚すくいで売れ残った分をすべて分けてくれた。それを井戸の中に放流する。

「血屎ならば数日のうちに異変が起こるでしょう」

 だが彼らは目を疑う光景に遭遇することになる。緑山が言い終わるか終わらないうちに結果が出たのだ。金魚は少しの間も経たずくるくると狂ったように水中を泳ぎ回り、やがてぷかーっと水面に腹を出したまま動かなくなったのである。

 それを見ていた一同が息を呑む。りんは衝撃のあまり気を失ってしまった。

「りん!」

 勇次が慌ててりんを抱きかかえる。しまった、見せるんじゃなかったと後悔しても遅かった。腕の中のりんの顔は可哀想なほど血の気を失っている。

「勇次、おめぇはりん連れて先に帰ってろ。こっちは俺らが何とかしとく」

 竜弥の気遣いに感謝し、勇次はりんを抱き上げた。一方、邑咲屋へ帰ってゆくふたりを見送る竜弥は、あることが気になっていた。






 邑咲屋に戻ってきた勇次から事の次第を聞いたお亮は、青くなって声を震わせた。

「奥井戸の水に毒が混ざってたってことかい? てことは、もし昨日りんが奥井戸に落ちていたらただじゃ済まなかった……?」

 背筋の凍る想いでお亮は横たわるりんの手を握りしめた。今のところりんの身体に異変はない。幸い水には触れていなかったようだが、昨日の時点では水質に異常はなかったということなのだろうか。それとも——。

 考えれば考えるほどわからなくなる。勇次は唇を噛みしめ、りんの白い寝顔を見つめた。

「原因はわからないのかえ?」

 姉の問いに黙ったまま頷く。今は竜弥たちの帰りを待つほかないが、そう簡単に原因を突き止めることはできないだろう。自分なりに考察してみるが、やはり思い当たる節は何もない。

「なんでこう次から次へと厄介ごとが立て続けに起こるんだ」

 昨日の(ひぐらし)と空蝉の(いさか)いからりんの奥井戸騒動、そして今朝の中毒騒ぎ——。休む間もなく事件が続くのはただの偶然なのだろうか。

「黒い遊神の仕業かね……」

 ぽつりと零した姉の言葉にぴくりと反応し、その顔を見た。

「黒い遊神は人の心を操るんだろ? 奥井戸の水に毒を入れて住人らに害を与えることとどう結びつくんだ?」

「だって、こっちの妓楼街にはなんの被害もなかったじゃないか」

「あ……まさか、仲(たが)い……?」

 弟の出した答えにお亮はゆっくりと頷いた。広小路のこちらと向こう側の住人の分断を謀るため、誰かを操って毒を盛らせた——。そう考えれば合点がいく。勿論あくまでも推測の域を出ないが。

 ——そもそも黒い遊神は何が狙いなんだ?

 本当に朱座を潰す気なのだろうか。ならばその動機は? 目的は? ふと湧いた疑念を勇次が口にしかけたとき、ちょうど竜弥たちが戻ってきた。

次回は26話「容疑者はりん」です。

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