第24話 異変
今回から第6章「心の闇」に入ります。
これより物語は後半、本格的に黒い遊神の謎へと迫っていきます。
東の空が白みはじめた。一番鶏が鳴くころ、緑山は夜露に肩を濡らし、独り喜多院の玉砂利を踏んでいた。
「会いたい人には会えたか?」
五百羅漢像が並ぶ一角から出てきた緑山に、僧妙海が声をかける。
「これは和尚様、おはようございます。ありがたいことに、羅漢様のお導きで思いが通じました」
緑山は合掌し、恭し気に頭を垂れた。
「それはよかった。お大師様にも手を合わせてゆくがよい」
妙海もにっこり頷いた。はい、と素直に慈恵堂へ向かう緑山を呼び止める。
「糸くずがついておる。取ってやろう」
妙海は緑山の背中に手を伸ばし、小袖に触れた。
「ありがとう、和尚様」
軽く一礼し、緑山がふたたび歩き出す。その背にまたも妙海の声が届いた。
「ぬし、川越の者ではないな。どこから来なさった」
緑山が立ち止まり、顔だけ向ける。
「私は朱座の住人です。理由有りの身ですゆえご容赦ください」
「こりゃ、すまなんだ。許せ」
「もう、よろしいですか?」
ふいと前を向き、慈恵堂の階段を昇る。笑みを湛えた瞳の奥はどこか醒めていた。
手を合わせていると、頭の片隅を、ふと空蝉との会話がよぎった。とりとめのない身の上話。さして珍しい話でもない。仲良くしていた友人の亭主に言い寄られ、友と仲違いしてしまったというものだ。
なぜ男の邪な恋情を受け入れてしまったのか。寂しさからとはいえ、己の心の弱さを激しく悔やんでいると彼女は泣いた。彼女だけが悪いのか。取り返しのつかない悪行に救いはないとは思いつつ、しかし自分に断ずることはできなかった。
心の淵にまだ迷いを残したまま、両手を下ろす。階段を降りると、待っていたかのように妙海が立っていた。
「まだなにか?」
「これは、羅漢様に思いが通じた者だけにいつも言っておるでな、聞き流してくれてかまわんのだが」
「なんでしょう? 急いでいますので手短にお願いします」
苛立ちを見せはじめた緑山に、妙海は落ち着き払って告げた。
「人は何度でも生まれ変われる」
はじめきょとんと妙海を見ていた緑山だが、やおらふっと鼻を鳴らした。
「来世での再会を期待しろと、そういうことですか? お大師様も随分と気の長いことをおっしゃる。所詮、人の命など儚いものだと思われているのでしょうね」
「儚いからこそ尊いのじゃ」
ふふふ……と浮かべた緑山の笑みは、どこか嘲笑めいている。
「そのように儚いものを、なぜ神はお造りになられたのでしょう?」
尊くなくてもいい。永遠の時を共に過ごせたならそれでよかったのに……。
「知らん。ここはお大師様の教えを請うところじゃ。神の考えが知りたければ神社へ行け」
「お話になりませんね。私はもう失礼しますよ」
今度こそ話しかけてくるなよと言わんばかりの気を発し、緑山はどろぼう橋方面へと消えていった。境内に残された妙海が呟く。
「あの男、気になるな。あとで甚吾郎に知らせておくか」
ひとまず五百羅漢像のところへ戻った。さきほど緑山が立っていた場所へ向かう。と、一体の羅漢像が手拭いをかけられたままでいることに気づいた。
「あやつ、手拭いを外すのを忘れていきおった」
追いかけようとも考えたが、そろそろ朝の勤行が始まる時間だ。とりあえず手拭いは預かっておき、後ほど届けに行くことにする。
手拭いを外しながら羅漢像の顔を見た。その尊顔はどこかうら寂しい女の顔にも見える。あの男の想い人だろうか。成仏はできたのだろうか。
そういえばあの男の背中もうら寂しさを漂わせていた。出会ってはいけない縁だとしても、無意識に惹かれ合ってしまうこともある。似た者同士なのかもしれない。
妙海は数珠を絡めて合掌し、そこでしばらく経を唱えていた。
たった一日の盆休みが明けると、朱座遊郭にはふたたび日常が戻ってきた。遊郭の朝は町村部より遅いが、それでも下働きの者たちは遊女より早めに起きて朝餉の支度やら洗濯やら雑用をこなさなければならない。
竈から煙が立ち、米の炊ける芳醇な匂いと味噌汁の湯気が妓楼内に立ち込める。続いてめざしの焼ける匂い。それらにつられて先ず、腹を空かせた若い衆が起き出してきた。
気温が上昇してくると、さすがに勇次も目を覚ました。隣で大いびきをかいている竜弥を叩き起こす。寝起きの悪い竜弥は不機嫌そうに総髪を掻きむしりながら大あくびをしている。
「もうちょっとだけ寝かせて」
「駄目だ。起きろ。今日からまた仕事が始まるんだ。傾城屋の息子がそんなんじゃ若ぇ衆に示しつかねぇだろ」
勇次は無理矢理布団を引っ張り、竜弥を畳に転がした。有無を言わさず蚊帳を片付けはじめる。竜弥は渋々起き上がった。
「長旅で疲れてんのにぃ。どいつもこいつもうちの連中は情け容赦ねぇなぁ」
「おめぇは昨夜早く寝てただろ」
「……」
竜弥はぶすっとむくれている。
「また孔雀と喧嘩したのか? どうせおめぇが怒らせたんだろ」
「ちゃんと仲直りしたもん」
「じゃあ、なんであんな早く戻ってきちまったんだよ。一晩中一緒にいるかと思ったぜ」
「だってしょうがねぇじゃん。禿が戻ってきちまったんだからよ」
布団を上げながら竜弥が文句を垂れる。それならしょうがないか、と勇次も布団を押し入れに押し込んだ。
「そうだ、勇次。禿で思い出したんだけどさ、昨夜孔雀が気になること言ってたわ」
うん?と耳だけ傾け勇次が浴衣の帯を整え直す。竜弥も浴衣の帯を解いた。
「あのちっこいほうの禿、七星っての? 妙な臭いがするって」
「ああ、ふた親とも戦でおっ死んじまったらしくてな、風呂にもろくに入ってなかったんだろ。体に染みついちまった臭いってなかなか取れねぇもんだぜ」
自分もそうだったと苦笑する。
「そういうもんかね。言われてみりゃ、なんか滅多に嗅いだことねぇ臭いっつうか、けどどっかで嗅いだことあるような……」
「ここ来る前は非人溜にでもいたんだろ。あそこはいろんな臭いが混ざってるからな」
だが竜弥はまだ首を傾げていた。勇次がそれに気づく。
「ほかにもなんか言ってたのか?」
「ん……。気をつけてくれって」
「なにを?」
「子供ってなぁあの世に近い存在だからって」
戦、飢饉、疫病等々、世の中に事変があれば真っ先に犠牲になるのは幼い命だ。あの世からこの世に生まれ落ちてからまだわずか数年の子供は、この世よりもあの世との縁のほうが近いという。だからちょっとしたことで簡単に命を落としてしまうのだと。
「わかった、覚えとくよ。とりあえずとっとと飯済ましちまおうぜ。片付かねぇからよ」
勇次は竜弥を引きずるようにして部屋から追い出した。
台所横の大部屋で、勇次と竜弥も若い衆に交じって朝餉をとる。
「味噌汁の味、変わったな。厨房、新しいやつ雇ったのか? 激ウマじゃん」
竜弥の感嘆を聞き、勇次は顔をにやつかせた。その表情から竜弥はピンときた。この味噌汁はりんが作ったのだろう。しかし朝っぱらから惚気話など聞きたくもない。勇次の機嫌は無視して話題を変える。
「ところで昨日の人形、なんで井戸に落としたのか七星に訊いてみたか?」
勇次はたくあんをぽりぽりかじり、首を横に振った。
「氷川さんに行ったときは春蚕もいたから訊けなかった。あとで訊いとくよ」
ふうんと竜弥がめざしをくわえ、女中頭お縫におかわりを欲する。それを皮切りに若い衆が次々とおかわりを要求するものだから厨房は大忙しだ。
「おめぇら、自分でよそいに行け」
若頭勇次に命じられ、若い衆がぞろぞろと立ち上がる。彼らから受け取った茶碗に盛り付けるのはりんだ。にこにこして彼女がよそってくれるから、皆の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。
「平和だな、朱座は」
竜弥は穏やかな笑みを浮かべ、その光景を眺めている。勇次は一旦箸を休めた。
「天子様がお作りなさる娑婆はあんまり平和じゃねぇか?」
「そう…だなぁ……」
天皇と将軍——どっちもどっちかな、と竜弥が苦笑する。勇次はふたたび箸を動かしはじめた。
「ま、俺ら制外者にとっちゃ誰が天下を治めたって関係ねぇやな」
そう笑って飯を頬張る勇次に答えることもなく、竜弥は二膳目の飯をかき込んだ。朝はゆっくりおしゃべりしている暇などない。朝餉が終わればすぐに掃除だ。
その前に一服……と勇次と竜弥が連れ立って裏口へ向かおうとしたときである。
「邑咲屋の女将さん! いなさるかい!?」
突然、玄関に駆け込んできたのはお隣金舟楼の若い衆だった。
「おや、金舟楼さんの若いの、朝っぱらからどうしたんだい?」
甚吾郎が珍しく若い衆を使いに寄こしたことにお亮は驚いた。
「甚さんはお留守かい?」
「いや、それがてぇへんなんです」
「落ち着いて話しな」
お亮がなだめると、泡食って息を切らしていた若い衆は深呼吸してから告げた。
「広小路の向こうのやつらがみんな、いきなりばたばた倒れちまったんでさぁ」
「広小路の向こう……って、茶屋見世通りとか長屋とかかい?」
駆け付けた勇次と竜弥も怪訝に顔を見合わせる。詳しい事情を聞くもあまり要領を得ない。彼も何が起きているのかわからないのだろう。
動ける者は自力で高林の診療所へ向かったそうだが、動けない者は緑山が介抱に奔走しているという。
「今、うちの若旦那さまが様子を見に行ってます。邑咲屋の女将さんと若頭にも知らせておけと言われまして……」
「よし、わかった。俺と竜弥で行ってくる。姉ちゃんはうちで待っててくれ」
言うが早いか、勇次と竜弥は暖簾を飛び出した。なにかとんでもないことが起きているのではないか、そんな胸騒ぎを抱え、お亮は弟ふたりを見送った。
次回は第25話「周章狼狽」です。