第21話 もどかしいふたり
「男のくせに長風呂しやがって」
風呂から上がると、早速姉のお小言が待っていた。
「男が長風呂しちゃいけねぇのかよ。女郎どもがいねぇときくれぇゆっくり入ったってバチ当たんねぇだろ」
「わっちは別にかまわないんだよ。けど、いいのかい? 八つ半の鐘はとうに鳴り終わってるよ」
勇次の顔からみるみる血の気が引いてゆく。泡食って台所にいるりんの元へ駆けつけるも、目が合った途端ぷいっとそっぽを向かれてしまった。頭をぶん殴られたような激しい衝撃に襲われ、心臓は粉々に砕け散った。
「なになに、どしたの?」
後をつけてきた竜弥がにやにや声をかける。お亮も含み笑いしながらやってきた。
「この馬鹿、今日りんを雪之丞の芝居に連れてく約束してたんだよ」
「へぇ、芝居って何時に始まんの?」
「八つ半」
「えーっ、とっくに過ぎてんじゃん!」
竜弥が叫ぶと同時に勇次は彼の胸倉をぐいっと引き寄せた。
「おめーが長っ話してっからだろがっ」
「なにそれ、俺のせい? てかぶはははははは! 勇次だっさー恥っずー、ばーかばーかばーか!」
竜弥は笑いが止まらない。
——こいつ……ぜってーころす。
腹をよじらせ笑い転げる竜弥に憤りを感じながらも、しかし勇次は自らの失態を認めざるを得なかった。
「ほら、竜弥、そのへんにおし。さ、ふたりとも座った座った」
お亮に促され、ふたりは台所横の板間に腰を下ろした。りんが握り飯を運んでくる。膳を並べた彼女に勇次は手を合わせた。
「りん、ごめん。ほんとすまねぇ。この通りだ。許してくれ」
正座で頭を下げ、必死に謝意を伝える。それを見てりんも手を合わせて頭を下げた。彼女も自分が井戸に入ったせいで時間を費やしてしまったことをわかっているのだ。それどころか多大な迷惑をかけてしまった。さきほど顔を逸らしたのは申し訳なさの表れだ。
「もういいだろ。さぁ、お食べ」
姉の声で膝を崩す。いただきまっす!と隣で竜弥が握り飯を頬張った。
「うめぇなぁ。我が家の味はやっぱ格別だねぇ」
頬を押えてにこにこする竜弥を見ていると、勇次も次第に気持ちが落ち着いてきた。りんの顔もほころんだ。
「一息ついたら、3人でお大師様でもお詣りしてきたらどうだい?」
お亮がふたりに団扇で風を送りながら雷おこしをぽりぽり食べる。朱座遊郭に隣接する川越大師喜多院は施餓鬼会も済んで静かだろう。
「だったら甚さんも誘って5人で氷川さんまで行こうぜ」
勇次が身を乗り出す。姉は一旦手を止めた。
「甚さんは今、宗と話し込んでるみたいだから邪魔しちゃ悪いだろ」
「甚さんが遊神様と? 珍しいな」
竜弥が首を傾げる。お亮は気にしない素振りを見せ、ふたたび団扇で扇ぎはじめた。
「わっちも留守番してるよ。日暮れには女郎たちもぼちぼち帰ってくるだろうしね」
それならしょうがないかと、勇次は竜弥を向いた。
「じゃあ、3人で氷川さん行くか」
「りんとふたりで行って来いよ」
「遠慮すんなよ」
「遠慮なんかしてねぇよ。俺、ほかに行きてぇとこあるから」
「行きてぇとこ? どこだよ」
手拭いで濡れ髪をわしゃわしゃと拭く竜弥に代わり、答えたのはお亮だった。
「赤間川だろ」
あ……と、勇次は小さく声を上げた。竜弥が赤間川へ行く理由はただひとつ、灯篭流しだ。
川越の灯篭流しは毎年お盆に赤間川で行われる。赤間川の灯篭流しは、川越藩最後の大名家である松平周防守家が始めた行事である。江戸時代末期から始まったこの行事は、川越の風物詩としてすっかり馴染んでいた。
「先代の女将さんも喜ぶだろうね」
お亮が呟く。竜弥が先代女将である母の死を知ったのはつい半年前、母が死んでから実に2年の歳月を経ていた。ゆえに彼の感覚としては今年が新盆で、特別な思いがあるのかもしれない。
りんが冷ました狭山茶を3人の前にそれぞれ置く。おっとりとしたその仕草を竜弥は目で追った。
「りんは連れてけねぇもんな。だから俺ひとりで行ってくるよ」
りんは1月の大火で父親とともに焼死したことになっている。だが、ひと月半後に生きて発見されたのはすでに人別帳から除籍されたあとだった。制外者となった彼女の生きる場所はかくし閭の朱座遊郭をおいて他にはない。
「知り合いに見つかったらまずいだろ。役人に垂れ込まれでもしたら面倒なことになるからよ」
「だな」
赤間川の灯篭流しは石原宿と城下町を結ぶ高沢橋の袂で行われる。石原宿の奥はりんの生家のあった小久保村だ。小久保村の村民も赤間川まで灯篭流しにやってくるだろう。となれば高確率でりんの知り合いに会うことになる。あらぬ疑いをかけられるのは避けたいところだ。
「そうだ、竜弥」
勇次が思い出したように顔を上げる。
「うん?」
「ひとり、一緒に連れてってやってほしい女郎がいるんだが」
そう空蝉のことを切り出すと、蜩との騒動を手短に説明した。
「なんでぇ、そんなの遊郭じゃ日常茶飯事じゃねぇか。で、その女郎を連れてってやれって? なんで?」
「そいつ、先月子供亡くしてんだ」
なるほどね、と事情を呑み込んだ竜弥は快諾してくれた。勇次は、それからもうひとつ、と続ける。
「それ食ったらすぐ孔雀に顔見せてこい」
「んー……、帰ってからでいいじゃん」
へらへら笑う。黙って出ていった罪悪感があるのか、竜弥は孔雀に会うことを躊躇した。
「遊神様なんだから先にご挨拶するのが筋ってもんだろ。さっさとお行き」
お亮もびしっと断じる。
「へいへい」
竜弥は狭山茶を飲み干し、渋々重い腰を上げた。やはり義姉には逆らえないようだ。総髪を無造作にまとめながら廊下へ出てゆく。
竜弥と入れ違いに禿の七星が2階からばたばたと降りてきた。彼女を見たりんは、すぐさま立ち上がって庭へと向かった。井戸に落ちて水浸しになってしまった人形を干してあったのだ。猛暑のお陰もあり、人形はすっかり乾いていた。
「りんちゃん、ありがとう」
戻ってきたりんに人形を手渡されると、七星は嬉しそうににっこり笑った。よほど大切なものなのだろう。りんは七星の思いを敏感に掬い取っていたに違いない。
——ん?
一方でこのとき勇次はどこか違和感を覚えた。だが、それがなんなのかはわからない。心のどこかで引っ掛かりを感じるだけだ。胸中に靄が立ち込める。
りんが雷おこしを七星の口に放り込んでやっている。大喜びの七星を見つめる勇次に気づき、りんは彼の口元にも雷おこしを近づけた。至近距離の無邪気な顔にドキリとしつつ口を開けると、彼女は雷おこしを勇次の口に押し込んだ。思わず顔がにやける。
「うんまっ」
靄は一瞬で消え失せた。
「遊神様、竜弥です。ただいま戻りました」
孔雀の座敷の前で竜弥が正座で声をかける。だが返事がない。
——あれ?
もう一度声をかける。
「花魁、入ぇってもよござんすか」
やはり返事はない。もしや孔雀の身になにかあったのではあるまいな。焦燥に駆られた竜弥は障子に手をかけた。
「孔雀、入ぇるぞ!」
勢い付けて障子を開ける。が、いない。いつも鎮座している床の間の前に彼女の姿はなかった。
「くっ孔雀、どこ行った!」
奥の寝所の襖を勢いよく開ける。見ると孔雀は窓辺にもたれ、物憂げな表情で視線を落としていた。
「いるんじゃねぇか。心配させんなよ」
ほーっと安堵の息を吐き出し、孔雀に腕を伸ばす。その手が触れた瞬間、孔雀はぴしゃりと撥ねつけた。
「どの口が言ってるんだい。いつも心配させてるのは竜さんのほうじゃないか」
竜弥は返す言葉もないのだが、久しぶりに会ったのだからもう少し優しい言葉をかけてほしいと勝手なことを思ったりする。
「長旅で疲れてんだよ。もうちっと労わってくれたっていいんじゃねぇのか?」
嘘ではない。妓楼の休日しか一緒にゆっくり過ごせないから、どうしてもそれに間に合わせたくて摂津から休まず急いで帰ってきたのだ。
「せっかく帰ぇってきたってぇのに不機嫌な顔見せられたんじゃたまったもんじゃねぇぜ」
「……じゃあ、もういい……」
「あ?」
孔雀は枕をぐっと掴んだ。
「もう帰ってこなくていいって言ってんだよっ!」
そう叫んだかと思うと竜弥めがけて枕を思い切り投げつけた。
「なっなっなにすんだよ!」
「うるさいっ! こんな顔見たくないんだろ。だったら二度と帰ってくんな、このドラ息子!」
竜弥は口をぱくぱくさせて言葉を失っていた。孔雀が追い打ちをかける。
「邑咲屋の跡取りは勇さんなんだ。あんたなんかいなくたって誰も困りゃしないんだよ」
はあっはあっと憤りの呼吸を乱れさせ、見えない眼で睨みつける。自分でも般若の形相になっているのがわかった。しかしどうしようもなかった。抑えきれない感情がとめどなく溢れ返ってくるのだ。
「……わかったよ」
竜弥はゆらりと立ち上がった。
「もう帰ぇってこねぇから安心しろ。邑咲屋のことは勇次に任す」
そう言い残して座敷を出た。
——どうして……
どうしてこんなことになってしまうのか。逢いたくて逢いたくてたまらなかった人なのに、逢った途端に恨み言をぶつけてしまう。恋焦がれれば焦がれるほど扱いに困るこの想いは……。
うなだれて2階から降りてきた竜弥を待っていたのはお亮と空蝉だった。
「あれ、勇次は?」
義姉に訊ねる。
「りんと出かけたよ。春蚕と七星も連れてね」
「禿も連れてったのか。せっかく……」
ふたりきりで過ごす絶好の機会なのに——と言いかけたところで口をつぐんだ。自分も人のこと言えないか、と頭を掻く。
「遊神様のご機嫌損ねないでおくれよ」
「わかってますって」
ひとつ小さく吐息を漏らし、空蝉に目を遣る。
「勇次が言ってた女郎って、こいつ? 見ねぇ顔だな」
「先月入ったばかりなんだよ。勇次が誘ったのさ」
ふーん、と空蝉をじろじろと眺める。器量はさほど悪くはないが、表情が辛気臭い。覇気のないその瞳に〝色〟があるとは甚だ思えなかった。勇次も物好きだな、と苦笑する。
「ま、いいや。俺にゃ関係ねぇし」
「どういう意味だい?」
「別に」
怪訝に眉を顰める義姉を素通りし、竜弥は玄関に降りて雪駄を履いた。慌てて空蝉も後を追う。
「じゃ、この女のこと頼んだよ。はぐれないようにね」
「あいよ」
お亮は玄関先で竜弥と空蝉の背を見送った。手の甲で汗を拭い、傾きはじめた陽を見上げる。心配が尽きることはないのだろう。
次回は第22話「嫌いな理由」です。
★みてみん、活動報告にてりんのイメージ画を公開しました。
今回の一場面です。よろしければご覧くださいませ。
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