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非公許遊郭かくし閭(ざと) 巻の弐《黒い遊神》  作者: 阿羅田しい
第1章 新座者(しんざもの)
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第2話 大火のその後

 ざくっ、ざくっ……と聞き慣れない足音が裏口の外から近づいてくる。足音は(ちゅう)()()()(ろう)(むら)(さき)()』の裏口でぴたりと止まり、やがて、そこからぷはーっと煙を吐き出す息遣いが聞こえた。

「やっぱ甚さんか。他人(ひと)んちの裏口で煙草ふかすのやめてくんね?」

 と言いつつ、邑咲屋の若頭勇次も煙管(きせる)箱から煙管を取り出した。お隣の大見世妓楼『(きん)舟楼(しゅうろう)』の若旦那甚吾郎はおかまいなしに煙を(くゆ)らせている。勇次の姉お亮目当てなのは明白だ。

「甚さん、またその妙な履き物履いてるのかい?」

 勇次が甚吾郎の足元へ目を遣る。甚吾郎は着物の裾を捲り上げ、片足を高々と上げてみせた。

「靴っていうんだよ。どうだい? 似合うか?」

「なんか変」

「……」

 呆然と眉を(ひそ)める甚吾郎にさらなる追い打ちをかける。

「足だけ異国の真似ってだっさ」

「だっ、だせぇだと? おめぇ……なんちゅうこと……」

 煙を吹きかける勇次に負けじと煙を吹き返す。

「この靴はな、弾左衛門がメリケン野郎に教わって作った代物なんだよ。去年やつが穢多から平人に身分を引き上げられただろ。そのときそれと引き換えに牛とか馬の死体処理の独占権を取りあげられちまったからよ、食い扶持が無くなっちまったんだ」

 したり顔で語る甚吾郎の話を勇次は煙管を(くわ)えながらふんふんと聞いている。

「そこでだ。前々からつながりのあった百姓に頼んで牛や馬の死体を譲ってもらってな、その皮で靴を作ることを思いついたってわけだ」


 異国の文化が流入著しい昨今、製靴業に舵を切ったのは穢多頭弾左衛門の妙案だった。アメリカ人の技術者を招き、ともに身分を引き上げられた手下(てか)らにも製靴技術を学ばせているのだという。洋式の軍隊を整えんとする明治政府に軍靴を売りつければ莫大な財を成せるかもしれない。弾左衛門の一種の賭けでもあった。


「伊左衛門さんは弾左衛門が抜け駆けして自分だけ平人になりやがってみたいに言ってたけどよ、弾左衛門のやつ、本当は穢多や非人全部が自由になれるように幕府に働きかけてたって話じゃねぇか。ま、幕府がなくなっちまったからその話はうやむやにされちまったらしいけどな」

「へぇ、そうだったんだ。けど、仕事がなくなっちまった穢多たちに手に職をつけさせるなんて上手いこと考えたな」

「だろ? だからよ、俺も一役買ってやろうと思ってよ」

 甚吾郎は得意げに靴をだんだんと鳴らした。

「ちなみに履き心地はどうなんだい?」

 勇次が問うと、甚吾郎の表情がやにわに曇った。

「……まぁ、あれだ。フランス製には劣るらしいが……」

 ごにょごにょと口ごもる。皮が悪いのか技術が劣っているのか、はたまた日本人の足に合わないのか、新政府軍はアメリカ製よりもフランス製を好んでいるらしい。

「じゃあ、ダメじゃん」

 勇次は煙草の燃えカスをぽんっと灰筒に捨て、一蹴する。おいおい、と甚吾郎が反論しようとしたところへ邑咲屋の花車お亮が裏口から出てきた。

「ああ、いたいた、勇次。そろそろ出掛けたほうがいいんじゃないかえ? 遅くなると道中までに帰ってこれなくなるからね」

「そうだ、今夜は山下屋さんが登楼するって差し紙が来てたんだった。じゃ、ぼちぼち出掛けるか」

 『山下屋』とは狭山入間川村の大富豪綿貫家の屋号であり、綿貫親子は邑咲屋の太客でもある。邑咲屋は綿貫家のお陰で黒字経営を保っている部分もあるゆえ、粗末に扱うことはできない。

「じゃあな、甚さん」

 煙管箱に煙管を仕舞いながら勇次が妓楼に入ってゆく。弟の後に続こうとするお亮を甚吾郎が呼び止めた。

「おう、お亮」

「なんだい、甚さん、いたのかい」

 つれない返事に苦笑いするも、めげずに裾をつまみ上げて足元を見せる。

「どうだい? 格好いいだろ?」

 お亮は鼻を膨らませる甚吾郎の靴を一瞥した。

「ださっ」

 一言でばっさり切り捨て、さっさと中へ消える。甚吾郎の目の前はしばらく真っ黒だった。




 黒縞の小袖に着替えた勇次を、すでにりんは玄関の外で待っていた。朱色の暖簾の下から切れ上がった白い足首が見える。

「鼻の下、伸びてるよ」

 姉お亮に指摘され、勇次は薄羽織の袖で口元を隠した。

「いちいちうるせぇな」

「ふん。おまえはりんのこととなるとすぐ顔に出るんだから気をつけな」

 返す言葉もない。きりりと眉尻を上げ、両手で頬をぴしゃりと叩く。姉から菓子折りを預かると、勇次は暖簾を上げ外へ出た。彼に気づいたりんが振り返り、にっこりと笑顔を見せる。勇次の顔面はまたも崩れた。お亮は弟の馬鹿面に呆れ、りんの(かんざし)をちょいちょいと直してやった。弟に告げる。

高林(こうりん)先生によろしく伝えとくれ」

「あいよ」

 勇次とりんがにこにこと仲睦まじく手を繋いで大門を出てゆく。ここ(あか)()遊郭では、女は大門を出るとき手形がなくては出られないのだが、男と手を繋いでいれば出られるという不可思議な仕掛けがある。この時ばかりは堂々と手を繋げるので手形は使わない、という下心があることは言うまでもない。

 それでも傍から見れば仲の良い兄妹だ。りんも勇次のことを本当の異母兄だと信じ込んでいる。消えゆくふたりの後ろ姿を、お亮も微笑ましげに見つめていた。

女将(おか)さんも勇次さんも、本当に妹が可愛くて仕方ないみたいですねぇ」

 邑咲屋の女中頭お(ぬい)が打ち水しようと出てきた。彼女はりんがお亮と勇次の本当の異母妹だと信じて疑わない。お縫だけでなく、朱座のほとんどの者がりんをふたりの異母妹だと信じ込んでいる。朱座でりんが本当の異母妹ではないと知っているのは甚吾郎と邑咲屋の花魁(おいらん)孔雀(くじゃく)、そして女衒の半十郎くらいだ。

「うん、可愛いよ、とっても」

 お亮は西の夏空を見上げ、思い出していた。今年——明治2年1月16日、川越城下の大火で父親を亡くしたりんは天涯孤独の身となってしまった。奇跡的に助かったりんをこの邑咲屋で引き取ったのは、弟勇次が彼女と夫婦(めおと)の約束を交わしていたからである。

 ただし、すぐに祝言とはいかなかった。唯一の肉親である父を亡くした心痛からか、りんは記憶と聴力を失ってしまったのだ。聴力はともかく、せめて彼女の心が自分に戻るまではと、勇次が彼女をそばで見守ることを決意したのである。

「りんはよく働いてくれて助かりますよ」

「そうかい? そりゃあ良かった」

 本来なら15歳という年齢や器量からしてりんは遊女にされてもおかしくはない。お亮の夫であり妓楼主でもある伊左衛門にりんの存在が知られたら、間違いなく遊女にされてしまうだろう。その可能性を危惧し、りんをお亮勇次姉弟の異母妹ということにして下働きとして引き取ったのだ。さらに念には念を入れて伊左衛門の目を(くら)ますため、彼が回遊から帰ってくる月末から月初の数日間、りんを()(せん)()村の名医(たか)(ばやし)(けん)(ぞう)の家で預かってもらうことにした。つまり、今日はその日というわけだ。




 勇次たちが暮らしている朱座遊郭は初雁城(川越城)の南——小仙波村の一角にある。遊郭の大門を出て杉林を歩くうちに結界を潜り、仙波東照宮と中院の間の通りを抜ければ川越大師喜多院の向こうに小仙波の田園風景が広がっていた。その中に高林の診療所がある。


 そこへ向かう途中、りんは何度も振り返っては首を傾げていた。たった今自分が出てきた大門の向こう側に、遊郭ではなく、さつま芋畑が広がっているのが不思議で不思議でたまらないらしい。

「ははは。そりゃ不思議だよな。俺も初めは狐につままれた気分だったし」

 勇次が笑いかける。りんは紅い唇を尖らせ首を捻るばかりだ。耳が不自由なのでは説明しようがない。それでも勇次は以前と変わらぬ態度でりんに接していた。

「朱座はな、遊神様の結界に守られてるんだ。だから外からは見えねぇようになってんだよ」

 無論、りんに勇次の声は届かない。川越藩は廃娼藩だから遊郭の存在は公に認められていない、だから非公許の遊郭である朱座は外部の目から秘匿されなければならない「かくし(ざと)」なのだ、といくら説明したところでわかるはずもなかった。

 りんはひとしきり考え込んだ後、何度か小刻みに頷き、やおら顔を上げて笑みを浮かべた。かと思うとふっと寂しげな表情を浮かべる。くるくると変わる表情に目が離せない。勇次は愛し気にその横顔を見つめ、徐々に足取りをゆっくりしていった。りんも歩幅を合わせる。高林の診療所が見えてきたのだ。


 診療所の一町ほど手前でりんが立ち止まった。

「どした? 疲れたか? 高林先生んちはすぐそこだぞ」

 うつむくりんは懐から1枚の紙を取り出した。

「なんだ、それ?」

 勇次がのぞき込むと、そこには一から三十までの漢数字がびっしりと書かれていた。すぐにピンとくる。これは暦だ。りんの手書きの暦なのだ。

 りんは暦を見せ、いつ迎えに来るのか日付を指し示すよう(うなが)した。

 ——そっか……

 いつもなら三日(みっか)四日(よっか)で旅立つ伊左衛門が、先月は七日(なのか)ほど長居してりんのお迎えが遅くなってしまった。もう二度と迎えに来てくれないのではないかと、さぞかし不安にさせただろう。遊郭などという鬼畜の環境にもかかわらず早く帰りたいと思ってくれる健気さが嬉しくてたまらない。

「りん、おめぇ……」

 なんて可愛いんだ!と思わず抱きしめてしまいそうになる衝動を必死に抑え込む。ここは見通しの良い田圃(たんぼ)のど真ん中。遊郭と違って真っ昼間から破廉恥な行為はできない。

 腰をかがめ、小さなりんに目線を近づける。気まぐれな伊左衛門がいつまで滞在するのか予想できないから適当には答えられない。

「必ず迎えに来る。ご楼主がなかなか旅立たなかったら途中で顔を見に来るから。だから俺を信じて待ってろ」

 真摯な眼差しをりんも見つめ返した。必死で彼の意を汲み取ろうとしているようでもある。りんはこくりと大きく頷いた。伝わったのだろうか。ほっとする。

「さ、行こうか」

 ふたりがふたたび歩き出した、そのときだ。

「邑咲屋さん」

 聞き覚えのあるその声に勇次がふり向いた。つられてりんもふり返る。と同時にりんの顔がぱぁっと明るくなった。

「あ、(りょく)(ざん)さん。いつもお世話になってます」

 勇次が会釈した相手は朱座の薬売り緑山だった。

次回は第3話「薬売り」です。

新キャラ登場です。


【用語解説】

◎花車:妓楼の女将のこと。

◎一町:約109メートル。

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