第19話 りんを救え!
今回より第5章「灯篭流し」に入ります。
朱座遊郭の中心を通る広小路を走り抜け、商店街まで行き着くと、その向こうから騒ぎ声が聞こえてきた。住人たちは何事かとわらわら集まってきている。
黒山の人だかりを押しのけ、勇次は奥井戸の前に駆け込んだ。息を切らし、半信半疑で井戸の中を覗き込む。果たしてりんは井戸の中にいた。権八の言ったとおりだ。
「りん!」
水面に映った丸い青空の中に勇次の姿を見つけたりんは、はっとして上を見上げた。申し訳なさそうな、それでいてどこかほっとしたような表情を浮かべている。
「勇次さん!」
呼ばれて振り返ると、そこには薬売りの緑山が立っていた。
「緑山さん、なんでこんなことに……?」
「すみません、私が駆けつけたときにはすでにりんちゃんが降りたあとで……」
「降りた?」
ふたたび中を覗き込む。よく見ると、りんは水面ぎりぎりのところで梯子の途中に掴まっており、水の中にまでは落ちていないようだ。ひとまず安心する。
「りんちゃん、これを取りに行こうとしたみたいです」
そう言って緑山が見せたのは鶴瓶桶——ではなく、鶴瓶桶の中に入っていた人形だった。
「これ、七星の人形じゃねぇか。なんでこれが井戸に落ちてんだ? 七星が落としたってのか?」
だが、辺りを見回しても七星の姿はどこにも見当たらない。いや、それよりも今はりんの救出が先だ。
「りん、今行くからそこで大人しくしてろ! 動くんじゃねぇぞ!」
叫びながら尻端折りをし、雪駄を脱ぎ捨てるやいなや井戸の縁に手と足をかけまたごうとした。が、そこで緑山に腕をむんずと掴まれる。
「いけません! 勇次さんが乗ったらその梯子は崩れてしまいます!」
「なに?」
緑山に止められ井戸の中を見ると、彼の言う通り、踏桟がいくつか外れていた。古い梯子を使ってしまったようだ。降りるときに踏み抜いたのかどうかはわからないが、今はまだ小柄なりんの体重だから持ちこたえているのかもしれない。
「勇次、りんはどうなるんだい?」
お亮が泣きそうな顔で見つめてくる。勇次は頑丈な梯子を探しに行こうと踵を返した。
「勇次、これ使え!」
ちょうどそのとき駆け付けた甚吾郎が縄梯子を差し出した。
「甚さん、ありがてぇ!」
早速縄梯子を下ろす。しかし、長さが足りなかった。小柄なりんはあと少しというところで手が届かない。
「くそっ!」
勇次が苛立つ。と、そこへ、ようやく権八と若い衆が梯子を担いで到着した。
「若頭!」
「おせーぞ、パチ!」
大急ぎで梯子を下ろす。この梯子も尺が足りないが、縄梯子と合わせれば降りることは可能だ。
「待ってろ、りん!」
これで今度こそ助けに行ける。勇次は井戸の縁をまたいで縄梯子に足を掛けた。逸る気持ちを押え、慎重に降りてゆく。途中で梯子に乗り換え、ふたたび降りていき、ようやくりんの元へと辿り着いた。
「りん!」
りんの腕を自分の首に巻きつかせ、腰をぐいと引き寄せる。りんは無事、勇次の梯子へと乗り移った。と、その瞬間、りんの乗っていた踏桟が外れ、水中へドボンと落ちた。上から見守っていた一同が安堵の溜め息を漏らす。勇次も片腕でりんを抱きしめ、大きく息を吐き出した。
「りん、無事でよかった……」
1月の火事を思い出す。りんが死んだと思ったあのとき、生きてはいられないほどの衝撃に心を破壊され、打ちひしがれていた。もう二度とあんな恐ろしい思いはしたくない。
そんな感情が伝わったのか、りんも巻きつかせた腕にぎゅっと力を込めてきた。安堵の吐息がうなじを撫でる。この温もりは本物だ。生きていることの悦びを噛みしめ、ひとしきり余韻に浸った。
「おーい、勇次ぃ。もういっそのこと井戸ん中でふたりで暮らすかぁ?」
上から降ってきた甚吾郎の声に、はっと我に返る。慌ててりんの腕を解き、小さな手を踏桟に掴ませた。
りんを先に昇らせ、自分は万が一に備えながら後からついてゆく。りんが縄梯子に乗り移ったことを確認し、甚吾郎と緑山ほか金舟楼と邑咲屋の若い衆がそれを引っ張り上げた。そこでりんはようやく井戸から顔を出すことができたのである。
緑山がりんを抱き上げ、地面に降ろす。お亮は泣きながらりんに抱きついた。
「ばかっ! なんだってこんな無茶するんだい! 寿命が縮まっちまったじゃないか! 心配させるんじゃないよ!」
お亮の号泣を背に甚吾郎はふたたび縄梯子を下ろした。後方では若い衆が縄梯子の端を握りしめ、待機している。
「よし、いいぞ。上がって来い」
甚吾郎の声を合図に勇次が昇る。ふとそのとき、甚吾郎は縄が切れかかっていることに気づいた。
「勇次、急げ! 切れるぞ!」
だが、甚吾郎が叫ぶも間に合わず、無情にも片側の縄が切れてしまった。
「勇次!」
甚吾郎が咄嗟に勇次の手首をつかむ。間一髪で落下は免れた。しかし、もう片方の手で縁を掴んで踏ん張っているため、両手で引き上げることができない。異変に気づいた緑山が救助に向かおうと立ち上がる。が、その前に勇次がもう片方の手で掴んでいた縄も切れてしまった。
——しまった!
反射的に手を伸ばす。が、あと一歩及ばず縁には届かなかった。縁をかすめた指が空を切る。甚吾郎の握力も限界が近づいていた。万事休す。そのとき、勇次の手をがしっと掴む力強い手があった。
逆光に浮かぶ輪郭には見覚えがある。この男は——。
「竜弥……?」
勇次の手を掴んだのは竜弥だった。
「竜弥、おめぇ、帰ぇってきたのか……?」
「勇次、おめぇ、なまったな。この程度で落ちそうになるってだっさ」
この色のあるかすれた声は間違いなく竜弥だ。だが、にやにやするばかりでいっこうに引き上げようとしない。
「るせー! 軽口叩いてねぇでとっとと引き上げやがれ!」
「ったく世話の焼けるヤツだな」
「おめぇだけにゃ言われたかねぇ」
「あーあ、相変わらず口の減らねぇ野郎だぜ」
「おめーもなっ!」
そこで、ふたりの罵り合いを横で見ていた甚吾郎が業を煮やした。
「おめぇらいい加減にしろっ! 竜弥、とっとと引き上げるぞ」
「しょうーがねーなーもー。甚さん、せーのでいくぜ、せーのっ!」
よいしょーっ!と竜弥と甚吾郎が渾身の力で引き上げる。こうして勇次も無事生還した。
「勇次、生きてるか?」
「竜弥、おめぇなぁ……」
ぜいっぜいっと身体中で大きく呼吸を整えながら竜弥を睨みつける。だが竜弥は無邪気に両手を広げた。
「勇次、会いたかったぜー!」
勇次は抱きつこうとする竜弥の顔面を掌で押しのけた。竜弥がぶんむくれる。
「ひでぇじゃん。助けてやったのに礼もなしかよ」
「おめぇは後回しだ」
竜弥をぴしゃりと撥ねつけ、勇次はりんを見た。りんが慌てて地面に頭をこすりつける。彼女は泣きじゃくりながら何度も何度も頭を下げた。自分のせいで多くの人を巻き込んでしまったこと、何より勇次の命を危険にさらしてしまったことを激しく懺悔しているのだ。
勇次はりんの前にしゃがみこみ、震える肩に手を添えて起こしてやった。
「泣くこたねぇ。俺はおめぇが生きててくれりゃそれでいいんだ」
にこりとひとつ笑顔を見せて立ち上がる。尻端折りを解き、裾を整えながら甚吾郎を見た。
「甚さん、ありがと」
緑山にも礼を言おうと見回したが、彼の姿はなかった。お亮が察する。
「緑山さんはおまえの顔見て安心して帰っちまったよ」
「そっか。あとで礼に行かなきゃな」
若い衆にも顔を向ける。
「みんなも休みのところすまなかった。ありがとな」
お亮もりんとともに立ち上がり、周囲の者たちへ「お騒がせしました」とふたり揃って深々と頭を下げた。
一件落着したところで野次馬は散っていった。勇次たちもそれぞれの妓楼へと帰っていった。
ことの次第はこうだ。
七星の人形が奥井戸に落ちたと誰かから教えられたりんが、急ぎ奥井戸へ駆けつけ、鶴瓶桶で掬い上げようとした。だが上手くいかず、自ら梯子を下ろして水面近くまで降り、鶴瓶桶を操作したということである。人形の入った鶴瓶桶は、たまたま通りがかった緑山によって引き上げられた。しかし今度はりんが戻れなくなってしまった。老朽化した梯子の踏桟が外れてしまったのだ。慌てた緑山が邑咲屋へ駆けつける途中、ちょうど情女と逢引していた権八に出くわし、報せたというわけだ。
この騒動で、せっかくおめかししたりんの着物や結髪は乱れてしまった。汗もかいただろうということで、今りんはお亮と一緒に風呂に入っている。
「なーんで帰ぇってきた早々薪割なんかしなくちゃいけねぇんだよ」
竜弥がぶつぶつ文句を垂れながら鉈を振り下ろし、かこーんかこーんと薪を割ってゆく。
「俺なんか大汗かいたってぇのに火の番だぜ」
汗だくの勇次は火吹き竹に口をつけ、真っ赤な顔でぷーっぷーっと竈に風を送っていた。
「そーだよな。俺らだって大汗かいてんだ。あー、いーなー風呂、一緒に入りてーなー」
竜弥がでかい声でげらげら笑いながら薪をくべる。その瞬間、格子窓からバッシャーンと湯が浴びせられた。
「熱っ熱っ!」
「休みなんだから若い衆こき使うわけにいかないだろっ! くだらないこと言ってないでしっかり風呂焚きしな! まだぬるいよ!」
湯に追い打ちをかけ、お亮の罵声が飛んでくる。ふたりはびっしょりになってこそこそ囁きあった。
「お義姉さん、相変わらずきっついな」
「もー毎日あれだぜ。やんなるわ」
「甚さん、まだお義姉さんに惚れてんの?」
「ベタ惚れだよ。どこがいいんだかさっぱりわかんね」
「顔じゃね?」
「いっくら顔が良くったってあの性格じゃあよ……」
またもどばしゃんと湯が浴びせられる。
「熱いよっ!」
「すんませんしたっ!」
もう嫌だと嘆きつつ、必死で火加減する。なぜかお亮には逆らえない弟ふたりであった。
次回は第20話「芸州の制外者に起こったこと」です。