第18話 女の嫌いな女
遣り手婆のお亀の様子からして、遊女たちの間で何か騒動が持ち上がっていることは大方察しがついた。2階へ向かう内階段を昇っている最中からすでに遊女たちの金切り声が響いている。
若い衆は盆休みで出かけている者が多く、残っているのは新入りなど経験の浅い者ばかり。どう対処したら良いかわからずあたふたするだけで頼りにならない。
「どうした! なにがあった!」
勇次が番頭新造のお甲に駆け寄る。
「あっ、勇次さん! 女将さんも! 早く、早くふたりを止めておくんなまし!」
「ふたり?」
「蜩と空蝉ですよ」
廊下では遊女たちが大部屋の前でぎゃあぎゃあ騒いでいる。勇次とお亮はすぐさま現場へ駆け付けた。
「なにがあったんだい?」
お亮が後方から中の様子を見ていた穂垂るに訊く。
「あっ、女将さん。それが……蜩姉さんがいきなり空蝉に掴みかかって……」
「蜩が空蝉に? なんでまた?」
訊き返された穂垂るは首を傾げた。いきなり、ということは彼女もよくはわからないのだろう。勇次は遊女たちを押しのけ、部屋に足を踏み入れた。
「あっ、勇次さん! 助けとくれ! わっち、この女に殺されちまうよ!」
空蝉は髪を振り乱して勇次にしがみついた。
「殺されるだと? 空蝉、おめ、何言ってやがる。とにかく落ち着け」
「これが落ち着いていられるかい!」
喚き散らす空蝉の両肩をどうにか抑え込んだ勇次は、蜩に目を移した瞬間ぞっとした。あろうことか彼女の右手には剃刀が握られていたのだ。
「蜩、どうした。なにがあったんだ?」
「その女がわっちの情夫を盗ったんだよ!」
蜩は真っ赤な顔で目を吊り上げ、わなわなと震える指で空蝉を指し示した。
「空蝉が?」
勇次は空蝉を見た。彼女はふるふると首を横に振っている。
「わっちがそんなことするわけないじゃないか」
「嘘つくんじゃないよ、この女狐が!」
「嘘じゃないよ。勇次さん、信じとくれよ」
空蝉はすがるような目で勇次を見上げた。
「そうやっていつも色目使って勇次さんの同情買おうとしやがって。さもしいったらありゃしない。魂胆が見え見えなんだよ!」
興奮しきった蜩の怒りはちょっとやそっとでは収まりそうもない。まずは刃物を取りあげるほうが先決だろう。
「とにかく、その物騒なもんを放せ」
空蝉を背中に隠し、右手を差し出す。それでも蜩は剃刀を固く握りしめたまま離さない。
「来るな!」
「俺が話聞いてやるから、とりあえず剃刀を寄こせ」
勇次がゆっくりと歩みを寄せる。それを見て蜩は剃刀を両手で握り直した。
「来るなって言ってんだろ!」
「いいから寄こせ。ほら」
言いながら勇次は素早く距離を詰め、彼女の手首を掴んだ。これでもう大丈夫、と誰もが安堵したそのときだ。
しゅっ……! 抗おうと蜩が腕を捻った拍子に剃刀が勇次の頬をかすめたのだ。瞬時、一本の真っ赤な線がすうっと勇次の頬に浮き上がった。
「きゃああああああ! 勇次さんの綺麗な顔がっっっ!」
その場にいた遊女たちの悲鳴が妓楼中に響き渡った。はっとした蜩の動きが一瞬止まる。勇次はその一瞬を逃さなかった。滲む血を拭いもせず、蜩の手首を捻り上げる。ついに力の抜けた彼女の手から剃刀が落ちた。
すかさずお亮が懐から手拭いを取り出し、畳に転げ落ちた剃刀を拾う。手拭いに包まれた剃刀はお甲の手に渡り、ようやく騒ぎは収束した。
剃刀を振り回した蜩は、一旦仕置き部屋に閉じ込められることとなった。仕置き部屋から戻ってきた勇次は台所の戸棚で紫雲膏を探しながら困惑の表情を浮かべている。
「蜩はまだ興奮してるから話になんねぇな。情夫を盗られたの一点張りだ」
蜩から事情を聞くも、事の経緯がはっきりしない。穂垂るら居残っている遊女たちに話を聞いても詳細はわからないようで埒が明かなかった。蜩と仲の良い姉女郎の玉虫は情夫との逢瀬で留守だ。彼女の帰りを待って事実関係を明らかにしようにも、蜩とつるんでいる玉虫の話では空蝉に分が悪い。
「差し詰め、蜩の馴染みが新顔の空蝉に手ぇ出したってとこだろな」
言いながら勇次は鏡の前で頬の傷に紫雲膏を塗っている。幸い傷は浅く痕は残らずに済みそうだが、これからりんとふたりきりで出かけるというのに傷がつくなんて、しかもよりによって顔とは……。やり場のない怒りがこみ上げる。
お亮はそんな弟を気の抜けた顔で見ていた。
「空蝉はまだ入ったばかりだから、どの客がほかの女郎の馴染みなのかわからなくても仕方ないよ」
客も客で困ったことをしてくれたもんだとぼやく。
「けどね、妓夫がちゃんと客を回していればこんなことにはならなかったんだ。勇次、若頭のおまえの責任でもあるよ。しっかりしとくれ」
「こればっか返す言葉もねぇわ。野郎どもも盆休み前で浮足立ってたからな。もっと締めとくべきだったよ。面目ねぇ」
憮然と肩を落とす弟を見てお亮は溜め息をついた。
「まぁ、一番悪いのは客だけどね。しかし、よりによってこんな若い衆が手薄なときに限って騒ぎが起きるなんてね、間が悪いというかなんというか……」
「俺も、遊郭じゃよくあることだから気が緩んでたかもしんねぇ。これからはもっと気を引き締めてかかるよ」
もっとも今回のことで遊女間の対立構造が見えた部分があったことは収穫でもある。
「大ごとにならなきゃいいけどね」
何気なく零したお亮のつぶやきに、勇次も引っ掛かるものがあった。黒い遊神の話を聞いたばかりのせいかもしれない。黒い遊神に心の闇をつけ込まれないよう、隙を作ってはいけないのだ。
「部屋を変えようかね?」
「そだな。あいつら、離した方がいいかもな」
お亮はお甲とお亀を呼び、彼女らにも話に加わってもらった。蜩は留袖新造出身だから遊女歴もそこそこ長い。そろそろ大部屋を卒業させて部屋持ちにし、下っ端女郎たちとつるまないよう隔離した方がいいのではないかと相談する。
「けど女将さん、今回の件で蜩は剃刀振り回したんですよ。ほかの女郎たちにゴネ得だって思われるのも良くないんじゃありませんか?」
「それも一理あるね。でも、もう蜩と空蝉を同じ部屋に置いとくわけにゃいかないよ。今は蜩を仕置き部屋に入れてるから顔を合わせずに済んでるけど、そのあとはどうしたもんかねぇ」
お亮が頭を抱える。お甲も頬に手を当て考え込んだ。
「玉虫が戻ってきて騒動を聞いたら、またひと悶着ありますよ。あの子は蜩を可愛がってますからね」
「なんで空蝉はそんなに嫌われるのかねぇ?」
お亀も首を捻る。
「なんとなく虫が好かないってやつですよ。女に嫌われる女っているじゃないですか。理由なんかないんですよ。ただ、気に入らないだけ」
「そういう女に限って男がほっとかなかったりするから余計にむかつくんだろうね」
女性3人は一斉に勇次を見た。勇次が慌てて目を逸らす。お亮は侮蔑の眼差しを弟に射かけた。
「空蝉は借金が少ないから、返し終わったらすぐに出てってもらうほかないね」
「え、でも、空蝉は帰るとこねぇんだぜ。金もねぇのに追い出すのは酷ってもんだろ」
「それならそれで切見世でも岡場所でもどこでも行きゃあいいんだよ。なんでうちがそこまで面倒見てやんなきゃならないんだい」
いや、でも……と食い下がろうとする弟に、お亮は人差し指を突きつけた。
「ほら、そういうとこだよ。なら、どうしろってんだい。空蝉を下働きで雇い直せってのかい? それじゃ玉虫たちが面白くないだろ」
「そんなの知ったこっちゃねぇよ」
「馬鹿。おまえはどっちの味方なんだい」
「味方……って」
お亮の一喝に勇次が一瞬怯む。お亮は柳眉を逆立て弟を睨みつけた。
「傾城屋がおまんま食べていけるのは女郎の働きあってこそなんだ。女郎を優先するのは当たり前じゃないか」
「そりゃそうだけど……」
勇次は言葉に詰まりうつむいた。姉の言い分は至極まっとうなものだ。遊女は借金の形に売られてきた印象が強いが、実は奴刑が多い。しかし本人が罪を犯した例は少なく、ほとんどは縁坐である。いずれにせよ憐憫の対象になりこそすれ、蔑視される存在ではないのだ。
「おう、どうなった? 騒ぎは収まったみてぇだな」
重くなった空気を変えてくれたのは甚吾郎だった。勇次はほっと胸を撫で下ろす。
「甚さん、お騒がせしました。なんとか今は落ち着いてますよ」
お亮が立ち上がろうと腰を浮かせたそのときだ。血相を変えた権八が台所に飛び込んできた。
「てぇへんです! りんが……!」
その名に反応したのはやはり勇次だ。
「りんがどうした。今度はなんだ? また胡瓜でももらったんか? それとも茄子か?」
「違いますよ。りんが奥井戸に落ちたんです!」
「なっ……!?」
勇次が仰天の声を上げる。台所にいた一同も蒼褪めた。
「奥井戸って……広小路の向こうのかえ?」
お亮が権八に詰め寄る。奥井戸は広小路の向こう側、商店街と職人長屋の間にある共同井戸だ。自前の井戸を持っている妓楼以外の住人は、皆この共同井戸を使用している。
「おう、パチ、梯子持ってこい!」
叫ぶやいなや、勇次は大急ぎで表へ飛び出していった。お亮も血相を変えて後を追う。甚吾郎は自分の妓楼へ戻り、縄梯子を探した。金舟楼の若い衆は盆休みで出掛ける者も多く、手薄になっている。邑咲屋の若い衆もそれは同じだった。頼みの元力士富蔵もこんな日に限って留守にしている。勇次の焦りは濃くなる一方だ。
——りん、なんだって井戸なんかに……?
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
——りん、待ってろよ! 俺が絶対助けてやるからな!
なにがなんでもという覚悟を胸に、勇次は奥井戸へと急いだ。
次回より第5章「灯篭流し」に入ります。
次回は「りんを救え!」です。