第17話 姉への思い
「やっと起きてきたかい、この寝坊助が。今日はりんを呑龍さんに連れてってやるんじゃなかったのかえ?」
姉お亮が煙管を咥えて悪態をつく。貴重な休日くらいお小言は勘弁してもらいたい。不機嫌そうに団扇を帯に差し、煙管を取り出す。
「雪之丞の出番は八つ半なんだよ。まだ全然余裕あるし」
この日、蓮馨寺の境内では旅一座「松風座」の興行が行われていた。看板役者松風雪之丞の芝居は大人気で、早くから並ばないと観劇できない。だが、雪之丞と懇意にしている勇次は事前に良い席を確保してもらっていたのだ。
「でもよ、りんは耳が聞こえねぇんだから芝居なんか観たってつまんねぇだろ」
その場にいた甚吾郎が素朴な疑問を投げかける。彼から火を借り、勇次は煙を軽く吸った。ひとしきり口の中で香りを転がし、吐き出しながら答える。
「それについては雪之丞にも話してあってさ。そしたらな、りんがつまんなそうだったら途中で出てってくれてもかまわねぇって言ってくれたから、お言葉に甘えることにしたんだよ」
無造作に無精髭をさする。
「でもま、せっかく起きたことだし、早めに行って境内で遊んでんのもいいかもな」
猿回しや曲芸など乞胸の芸は見飽きているが、景色が変わればまた新鮮に映るだろう。しかも仕事のことを忘れ、りんとふたりきりで過ごすとなれば格別な一日となること間違いなし。
にへらにへらと頬を緩める勇次に呆れながら、お亮と甚吾郎は顔を見合わせた。
「出掛ける前にちょいといいかい?」
ぽんっと灰を灰筒に捨て、甚吾郎が切り出した。
「なんだい、甚さん、あらたまって」
勇次が怪訝な表情で煙を吸い込む。姉の顔を見ると、彼女も真面目な表情を浮かべていた。あまり良い話ではないようだ。煙を吐き出し、気を落ち着かせて耳を傾ける。
「黒い遊神? なにそれ?」
勇次は目を丸くした。初めて聞く言葉だ。しかしふたりの表情と、「黒」という色からして良からぬものは想像できる。
「人の心を操るって尋常じゃねぇな。なに企んでやがる」
「そこまではまだわからねぇ。だが宮城の話じゃ、そいつは弱ってる人間を標的にするらしい」
「弱ってる人間? 病とか? 年寄りとか?」
「それと、あと、心もな」
「心……。心の弱い人間てことか」
甚吾郎は否定も肯定もしなかった。代わりにお亮が口を開く。
「わっち、思ったんだけどね。心の弱い人間っていうより、そいつは人の心の闇につけ込むんじゃないかなって」
「闇か。“黒”っつうぐれぇだから確かにそのほうがしっくりくるな」
甚吾郎が頷く。勇次もなるほどと思った。
「遊郭は闇だらけだからな。黒い遊神が標的にするにゃもってこいってわけだ」
「でも、なんで遊郭なんか狙うんだろな? 朱座を潰したところでなんの得があるってんだよな」
「だよな。しかも女郎を操ってなにがしてぇんだか」
黒い遊神の企みが今ひとつ絞り切れない。うーん……と3人そろって唸り声を上げる。
「女郎とは限らないかもしれないよ」
「惣名主とか? たしかに、それなら操り甲斐がありそうだな。初雁(川越城)のお殿様に働きかけることもできる」
姉弟の会話に甚吾郎が真顔を向けた。
「心配すんな。よしんば親父が操られるようなことがあったら俺が親父を殺る」
この男ならやりかねない、と姉弟はさほど驚きもしなかった。お亮は話の矛先を変えようとひとつ咳をする。
「それよりも遊神様が狙われるほうが朱座としては厄介じゃないかえ?」
「遊神様が? まさか」
笑い飛ばす勇次を見て甚吾郎は眉間に畝を作った。
「いや、あり得るぜ。宮城は孔雀のこと、色ボケしてるって言ってたからなぁ」
勇次は煙管の吸い口を噛んだ。思い当たる節はある。孔雀は近ごろ竜弥のことで思い悩んでいるようだ。
お亮と甚吾郎が勇次をじっと見据える。勇次は話を逸らした。
「ま、まぁ、それはさておき。ところで、その黒い遊神ってなぁいつから朱座に潜り込んでるんだ?」
「宮城の感じじゃ、ここひと月くれぇかな」
となれば、ここひと月の間に移住してきた者を調べればよいということになる。
「切見世はかどわかしてきた女郎が少なくねぇからな、本当のことを教えるとは思えねぇ」
甚吾郎は腕を組んだかと思うと、何か思い出したように顔を上げた。
「そういや、お亮、おめぇんとこ、新入りの女郎いたよな?」
空蝉のことだ。すぐに察した勇次が反応する。
「あれは大丈夫だ。怪しい女じゃねぇよ。素性もわかってる。小仙波の水飲み百姓だ」
「勇次。甚さんはまだなにも言ってないだろ」
姉に諫められ、ぐっと口をつぐむ。
「自分が勧誘してきたから気にかけたくなるのもわかるけどね、禿みたいな子供じゃないんだから空蝉のことはいい加減ほっときな」
「……」
「勇次」
姉の鋭い明眸が突き刺さる。勇次は灰を灰筒に落とし、ぎゅっと煙管を握りしめた。
「俺はもう嫌なんだよ。姉ちゃんみてぇな女郎、二度と見たくねぇんだ」
「勇次、おまえ……」
お亮は言葉を失い、弟を見つめた。甚吾郎は視線を落とした。彼も知っていたのだ。お亮が遊女時代、遊女仲間から壮絶ないじめに遭っていたことを。
「着物切られたり、化粧道具隠されたり、飯捨てられたり。やってもいねぇ罪被せられて折檻受けることもあった。なのに俺、姉ちゃんがすげぇ辛ぇ思いしてるのそばで見てたのに、あんとき俺はまだガキだったから助けてやれなかったんだ。だから、もう……」
勇次が言葉に詰まる。お亮も絶句したまま甚吾郎の背中に隠れた。
「勇次、俺も同じだよ。他所の妓楼のことに首突っ込むんじゃねぇって親父にきつく言われてたから見て見ぬ振りしちまった。あんときゃ俺もまだ若造だったから親父にゃ逆らえなかったんだよな」
「とか言いながら甚さん、お団子とか焼き芋とか、こっそり持ってきてくれたよね」
甚吾郎の背中越しにお亮の涙声が聞こえる。甚吾郎は苦笑いした。
「ああ。なのにお亮ったらよ、それを全部勇次に食わしてやるんだもんな。だからこんなでかくなっちまってなぁ」
勇次を尻目にふたりが笑い合う。
「なぁ、勇次。お亮は女将だぜ。女郎どものこと、黙って見てるとでも思ってんのか?」
「あ……」
勇次ははっとした。涙を拭ったお亮が甚吾郎の背中から顔を出す。
「おまえなんかが心配しなくたって、ちゃあんとお甲さんとお亀さんには目を光らせとくように言ってあるから安心おし」
彼女らはお亮が受けた仕打ちをよく知っている古株なのだ。
「そっか……」
勇次の表情がふっと和らぐ。今のところ物を壊されるなどの問題はないが、いじめの種は目に見えないところに潜んでいることのほうが重い。女のことは女のほうがよくわかっているのだからふたりに任せたほうがいい、と諭される。下手に男が関わると火に油を注ぐことにもなりかねない、という甚吾郎の失敗談にも納得した。
「さ、この話はもういいだろ。おまえもさっさと出掛ける支度してきな。りんはもうとっくに準備できてるよ」
「はっ」
慌てて煙管を煙管箱に仕舞う。
「とびきり可愛く仕上げといたからね。びっくりして腰砕けちまうよ」
「まじか!」
突として鼓動が高鳴った。息を呑み、団扇で心臓を押える。が、意気揚々と踵を返し、着替えに向かおうと戸口に入ったときだ。遣り手婆のお亀がバタバタとひどく慌てた様子で駆けてきた。
「あっ、勇次さん、大変だよ! 早く来とくれ!」
「どした、お亀さん。なんかあったんか?」
勇次の背後からお亮も顔をのぞかせる。
「お亀さん、落ち着いて話しな。なにがあったんだい?」
「あっ、女将さん! あああの……えと……女郎たちが……!」
お亀はあわあわと取り乱して話にならない。勇次とお亮は急ぎ2階へと走った。
次回は第18話「女の嫌いな女」です。