第16話 女衒(ぜげん)とサンカ
【ご注意ください】
作中に残酷な表現が含まれています。ご了承の上ご覧くださるようお願いいたします。
標高が上がるほどに冷気は増してゆく。やはり羽織を1枚多めに持ってきてよかった、と半十郎は足を休めた。
「しかし、なんだって元締めは三方山なんかに根城を置いたんだ……」
竹筒の水で喉を潤し、独り言つ。女衒仲間の平助はそれを聞き洩らさなかった。
「反魂の術を使うにゃ霊山はもってこいなんだとよ」
「だったら前に棲んでた青梅の御嶽山でよかったじゃねぇか」
半十郎は額の汗を拭いながらふぅと息をついた。千曲川源流に竹筒を沈め、水を注ぎ足す。武州最高峰である三方山の沢水は、真夏だというのに鳥肌が立つほど冷たい。ふたりは武蔵御嶽山から三方山へ移住した元締めを訪ねるべく、登頂を目指している最中だ。
「足がつく前にずらかるのは日陰者の鉄則だぜ」
女衒の元締めは、武蔵御嶽山に根城を構える前は秩父の霊山三峰山に潜伏していた。狼を眷属とする三峰神社の霊域に護られた三峰山では、想像を超絶する霊力を発揮できたらしい。
「元締めが三峰山にいたころに作られた遊神様は、とんでもねぇ力を持って生まれ変わったって話だぜ」
平助は我がことのように語った。遊神の生みの親でもないくせによくもまぁそんなしたり顔ができるものだと、半十郎は鼻白む。
「にしてもよ、御嶽山にゃ三月もいなかっただろ。ありゃ、なんでだ?」
「実はここだけの話だが……」
突として平助は声を潜めた。こんな山奥には熊しかいないというのに、辺りをきょろきょろと窺っている。
「襲われて逃げたらしいぜ」
「襲われた? 熊か?」
平助が首を横に振る。
「人間だってこたぁ確からしい。だが、そいつが何者なのかはわからねぇ。ただ、」
半十郎がごくりと息を呑む。それを見てから平助は続けた。
「そいつは黒い遊神の生みの親なんじゃねぇかって、仲間内じゃもっぱらの噂だ」
「黒い遊神……」
噂には聞いたことがある。あくまでも噂であり、それについての詳細は謎だ。わかっているのは、かくし閭の守護神白い遊神とは対を成す存在だということだけである。
「白い遊神を作れる元締めを潰しにきたってか」
関八州を取り仕切る女衒の元締めは、反魂術の使い手だ。しかし、彼が術で甦らせるのは「白い遊神」に限られている。その彼を亡き者にするべく襲ったということは——。
平助が答えを口にしようとした、そのときだ。半十郎の頬をなにかがシュッとかすめた。かと思うと、足元に石の塊がごろりと転がった。
「……!」
一瞬心臓が止まりそうになった。その塊は石なんかではなく、人の頭部だったのだ。
平助っ!と慌ててその肩に手をかける。が、ゆらり……と彼の身体は力なく崩れ、無残にも岩畳に打ちつけられていった。
頭と胴体の離れた平助を見た半十郎は、しかし、腰を抜かしている暇などなかった。頬の切り傷から染み出る血もそのまま、反射的に鈴を鳴らし身構える。
——熊が出やがったか?
だが、辺りを見回しても熊の姿などどこにもない。鈴を鳴らす手を止め、岩陰に潜んだ。次の瞬間だ。
凍るような殺気を覚え、咄嗟に竹筒を投げ上げた。シュパッ……! 驚愕の眼で空を見上げる。半十郎の瞳には、空中で横に真っぷたつに割かれた竹筒が映っていた。
岩に叩きつけられた竹筒を見てぞっとする。切り口は鋭利な刃物で斬られたようにつるりとしていたのだ。
——こりゃ、やべぇな。
懐の匕首に手をかける。相手は相当な手練れだ。まともにやり合っても勝てる気がしない。何か逃げる手立てはないかと考えあぐねていたそのとき、またも鋭く光る鉄の塊が飛んできた。頭上から襲いかかってくるそれは鎖鎌だった。
「くっ!」
咄嗟に匕首を抜き、間一髪、鎌を撥ね退ける。だが間髪入れずに鎖分銅が飛んできた。かわす間もなく半十郎は手首を絡めとられてしまった。
——しまった!
万事休するかと思われた。だが——。
「ぐあっ!」
突然鎖鎌を持った男が断末魔の叫びを上げ、目の前にばったりと倒れ込んだのだ。半十郎は一瞬何が起こったのかわからず、呆然とその場に腰を落とし、目の前の光景を瞠目した。彼を襲った男は白目を剥き、口から泡を吹いている。首には一本の矢が貫かれていた。
「山を荒らす不届き者め」
音もなく背後から忍び寄ったその声に、ぎょっと振り返る。見ると腰に鹿の毛皮を巻きつけた髭面の男がひとり、ぎょろりとこちらを睨んでいた。手には弓を握りしめている。この男が救ってくれたのだろうか。半十郎は安堵の息を吐き出した。
「おめぇさんのお陰で命拾いしたよ。恩に切るぜ」
だが男は弓を構え、立ち上がろうとする半十郎に鏃を向けた。
「おまえも山を荒らしに来たなら殺す」
半十郎は慌てて両手を上げた。
「待て待て! 俺は川越の女衒だ。山を荒す気なんざさらさらねぇよ」
「ふん、人買いか。外道め。なら、おまえもこれを奪いにきたのだな」
「おまえも?」
髭面の男は倒れた男の懐を開き、革袋を取り出した。どうやら彼はこれをこの男に盗まれ、追って来たらしい
「なんだ、それは?」
「とぼけるな。この中身が石黄と知っていて奪いに来たのだろう。そうでなければ城下町の人間がこんな山奥まで来るはずがない」
呆気にとられる半十郎は反論するのも忘れていた。男が続ける。
「石黄はわしら以外には扱えない。命が惜しくばすぐに去れ」
「ちょっと、待て。石黄……って、あの猛毒か? それを持ってるってこたぁ、おめぇさん……サンカ……」
「わかったら山の神の怒りに触れる前に去れ。さもなくば殺す」
サンカの男は一旦下した弓をふたたび構えた。
「わ、わかった、帰ぇるよ。けどその前にひとつだけ訊いてもいいかい?」
「ひとつだけだぞ」
息をひとつ呑んでから半十郎は口を開いた。
「この山の頂上付近に俺らの元締めがいるんだが、俺らはその元締めに会いに行く途中でこいつに襲われちまった。こいつはいってぇ何者なんだ?」
「知らん。だが、」
男は弓を下ろし、ややあってから答えた。
「会いに行っても無駄だ」
「え?」
「おまえたちの元締めとやらはもうこの世のものではない」
半十郎が驚愕の眼を見開く。
「いつの間に……」
男は矢を靭に納めた。
「御嶽山にいるときにはすでに殺られていた。この山にいるのはおそらく囮だろう。会いに行けば必ず殺される」
「するってぇと俺らはおびき出されたってことか?」
「問いはひとつだけだと言ったはずだ」
取り付く島もなく、男は踵を返した。半十郎もあきらめて立ち上がる。と、不意に男が振り返った。
「おまえ、川越の女衒とか言ったな」
「あ? ああ」
きょとんとして半十郎が顔を上げる。男は横を向いた。
「数年前、芸州で匿ってやった若い男が川越の傾城屋だと言っていた憶えがある」
「傾城屋?」
川越の傾城屋といったら朱座遊郭の妓楼に他ならない。
「男の名は?」
「忘れた」
男は短く答えたかと思うと、あっという間に山あいへと姿を消した。サンカは足が速い。常人では考えられぬほどの高速で山から山へと移動する。彼らは山で起きたことは瞬く間に把握するのだろう。それは自分たちの身を護る術でもあったに違いない。
半十郎は平助の髻を切り取り、半紙に包んで合掌した。
「こうしちゃいらんねぇ」
彼もまた川越へ戻るべく、大急ぎで山を降りていった。
7月12日から13日にかけて上方を通過した台風は、少なからず武州にも影響を及ぼした。台風一過で気温も一気に上昇し、今年の盆は厳しい残暑に見舞われている。
この時代はまだ旧暦であったため、盆は7月15日。6月晦日からひと月の間、引手茶屋の軒先には絵師たちの見事な画が描かれた燈籠が吊るされていた。それの見物人で茶屋見世通りは賑わっている。一方、盆は遊女の数少ない休日でもあるため、妓楼街は閑散としていた。
正月と盆の年に2回しかない遊女の休日。当然ながら彼女らはこの日を心待ちにしている。だいたいの遊女は情夫と逢引きをして過ごすが、情夫のいない遊女は妓楼でのんびり過ごすことになる。故郷に許婚のいる穂垂るや帰る場所のない空蝉、禿などがそうだ。ちなみに胡蝶は運悪く夏風邪を引いてしまい寝込んでいる。
遊女の大半が留守にしているこの日は、空蝉にとっても束の間の安息日となった。幼い七星を見ていると亡き娘が帰ってきたようで、嬉しい新盆ともなった。
蝉しぐれと蒸し暑さに耐えきれず目を覚ました勇次が、あちーあちーと団扇で扇ぎながら裏口から出てきた。盆は若い衆や使用人たちも一斉に休みを取るため静かなものである。
ギラギラと照り付ける太陽を見上げる。正午の時鳴鐘も聴こえないほど熟睡していたようだ。
次回は第17話「姉への思い」です。