第15話 嫉妬の眼差し
緑山が空蝉の馴染み客となったことで一番ホッとしたの勇次であったかもしれない。
「朱座の住人じゃなけりゃもっと良かったけどね」
姉お亮は少々不機嫌だ。だが勇次はまったく意に介さない。
「いいじゃねぇか。どこの誰だろうと馴染みは馴染みに違ぇねぇ。これで空蝉はクビにならねぇってことだ。そうだろ、姉ちゃん? 約束だぜ」
「調子乗るんじゃないよ、このトンチキが。女郎はここからが勝負なんだ。しっかり稼いでもらわないと困るんだよ」
聞いているのかいないのか、勇次はにこにこしながら煙管を咥えている。業を煮やしたお亮は弟に釘を刺した。
「これからはあんまり空蝉にばっかりかまうんじゃないよ。女の嫉妬は怖いんだ」
「わかってるって。俺だって伊達に十何年も傾城屋にいるわけじゃねぇんだ。女同士の諍いはうんざりするほど見せられてきたからな」
「どうだか」
半信半疑で弟を一瞥する。勇次は鬱陶しげにその視線を外し、仕事へ戻っていった。
「どうしたい? 姉弟喧嘩かい?」
勇次と入れ替わりにひょっこり顔を出したのは甚吾郎だ。煙管片手にやってくる。
「ああ、甚さん。あの馬鹿には困ったもんだよ、まったく」
「いつものことじゃねぇか。で、今度は何やらかしちまったんだ?」
「いえね、こないだの女のことなんだけど……」
と深い溜め息をつき、その後の次第を打ち明ける。
「ははぁ、なるほど。勇次が空蝉に肩入れしてるもんだから、ほかの女郎どもがヤキモチ妬いてんだな? よくあるこった」
金舟楼でも日常茶飯事だと肩で笑いながら甚吾郎は煙を吐き出した。
「笑い事じゃありませんよ」
「そだな。女の嫉妬ほど怖ぇもんはねぇからな。ほっとくと大火事になっちまう」
たとえそこに恋愛感情が介在していなくとも、自分と同じ境遇の相手が優遇されている状況は誰だって面白くなかろう。
「自分だって頑張ってるのになんであの女ばっかり、って思いが強くなっちまうんだよな。うちの女郎どもも似たり寄ったりだ。同じように扱ってたって依怙贔屓だって言われちまうんだからたまったもんじゃねぇぜ」
疲れた顔で煙草を吸い込む。うんうん、とお亮は大きく頷いた。
「孔雀からも注意してくれてるみたいなんだけど、聞く耳持たないって嘆いてたよ。自分だけは大丈夫って思い込んでる節があるみたいでさ」
「遊神様の言うことも聞かねぇのか。しょうがねぇ野郎だな。痛ぇ目見なきゃわかんねぇんだろうよ、あの馬鹿は」
「痛い目って?」
「うーん、たとえば、りんに嫌われるとか?」
今の勇次が一番応える方法だ。にやにやと甚吾郎が鼻から煙を吐き出す。お亮も肩を震わせた。
「いいね、それ」
しばしふたり、勇次への愚痴で盛り上がった。
そうとは知らず、勇次は遊女たちが過ごす大部屋へと向かった。営業時間外、部屋を持たない遊女はここで生活している。客へせっせと文をしたためる者、碁や双六などの娯楽に興じる者、少しでも身体を休めようと昼寝する者など過ごし方は様々だ。
「お、いたいた、空蝉。ちょっと、いいかい」
勇次は空蝉を呼び出した。彼は姉の話などまったく聞いていないのだった。姉の危惧した通り、勇次のもとへ向かう空蝉を遊女仲間は白い眼で見ている。
「なんでしょう?」
「緑山さんが馴染みになってくれてよかったな」
だが、屈託なく微笑む勇次とは反対に、空蝉は困惑の色を浮かべている。
「どした? 嬉しくねぇのか? 緑山さん、気に入らねぇのか?」
「ううん。そんなことないよ。わっちなんかにはもったいないくらいいい人だ」
「じゃあ、具合でも悪ぃのか?」
空蝉は下を向いて首を横に振るばかり。
「なんか困ったことがあるんなら言ってみな。相談乗るぜ」
空蝉は躊躇った。さきほどから陰湿な視線が背中一面に突き刺さってくる。この大部屋も針の筵だ。とうとういたたまれず、思い切って告げることにした。
「あのね、実は……」
そう言いかけたときだ。妓夫の権八がバタバタとやってきた。
「若頭、りんが……」
「りんがどうした!」
勇次はその名に素早く反応し、振り返った。見ると権八の後ろにりんが立っている。
「え…と……、りんが冷やし胡瓜をみんなにって……」
ふたりが抱えているざるには胡瓜が山のように盛られていた。
「こんなたくさん、どこで仕入れたんだ?」
「仕入れたんじゃなくて、棒手振りの三吉がりんにって、朝採れの胡瓜を桶いっぱいにただでくれたんですよ」
「あ? なんで棒手振り野郎がりんにただでくれるんだよ?」
「りんにホの字なんじゃねぇですかい?」
うししと権八が下世話な笑いを浮かべる。その瞬間、勇次の手が権八の衿を締め上げた。
「おう、パチ、なんの冗談だ、こら?」
「じょ、冗談ですよ、冗談」
へらへらと権八が顔を引きつらせる。柳眉を吊り上げる勇次を、りんは少々怯えた目で見つめていた。はっ、とする。
「あー、りん、ありがとな」
勇次は慌てて権八から手を離し、笑顔でりんからざるを受け取った。それをそばにいた空蝉に渡し、遊女たちに配るよう伝える。それからそそくさとりんを裏口へ連れていった。
ぽつんと取り残された空蝉は何が起こったのかわからずに、言われるがまま呆然と胡瓜を配りはじめた。その姿を見て遊女たちがくすくすと笑う。彼女たちの様子から、空蝉は徐々に状況を理解していった。理解が進むとともに、急に恥ずかしさと悔しさが込み上げてきて、体中が熱くなった。これではまるで道化ではないか。こめかみを伝う汗を真夏の暑さのせいにして拭い、誤魔化した。
一方、空蝉を置き去りにした勇次は、りんを前にして必死に訴える。
「いいか、りん。俺のいねぇとこで他所の男とかかずらうんじゃねぇぞ」
身振り手振りで話すが、いまいち伝わっていないようだ。悪いことをした覚えのないりんはしきりに首を捻っている。理不尽に注意を受け、腹を立てているようにも見える。
「なにやってんだい、あの馬鹿は」
「男のヤキモチはみっともねぇなぁ」
陰から見ていたお亮と甚吾郎は、呆れ顔で煙草の煙を吐き出した。
7月に入り、残暑も厳しくなってきたころには、空蝉にもぼちぼち指名が入るようになってきた。勇次は、やはり自分の目に狂いはなかったとほくそ笑む。だが空蝉が客を取れば取るほど遊女たちの彼女への風当たりはきつくなる一方だ。中には客を横取りしたと言いがかりを付ける者まで現れる始末である。蒸し暑さも相まって、遊女たちは苛立ちを新入りの空蝉にぶつけているようでもあった。
昼見世と夜見世の合間のひととき、夕風にあたろうとふらりと廊下に出た空蝉は、板縁で本を読んでいるりんを見つけた。何とはなしに隣に腰を下ろす。彼女に気づいたりんはにっこりと微笑んだ。
「あんたはいいねぇ。女将さんと若頭の妹ってだけでみんなに可愛がられてさ」
つぶらな瞳、林檎のほっぺ、茱萸のようなぷっくり愛らしい唇。愛されているのは器量や身内びいきのせいだけではない。いつもニコニコしていて気立てもよく、働き者のりんが嫌われる要素はひとつもないのだ。
「うらやましいよ……」
自分の不遇とつい比べてしまう。自分もこんなに可愛く生まれたかった。笑顔の似合う女になりたかった。同じ人間として生まれてきたというのに、どうしてこんなに差があるのか。
温かい手が肩に触れる。気づくとりんが心配そうにのぞき込んでいた。当てられた手がやさしい。なんと心根のきれいな娘なのだろう。そばにいるだけでこちらの屈折した心まで洗われるようだ。
「りんちゃん、あそぼ」
階段を駆け下りてきた幼子の声に振り返る。七星だった。空蝉につられてりんも振り返った。七星の姿を見つけると、りんは無邪気に笑った。
七星がお手玉をりんに差し出す。七星はすっかりりんに懐いていた。片手にはりんに繕ってもらった人形をしっかりと抱えている。両手を使えないから、いつもりんにお手玉をせがむのだ。
ふと、りんがなにか閃いたようだ。七星から受け取ったお手玉を空蝉に渡す。
「わっちにやれって?」
りんはにっこり微笑んだ。戸惑いながらも空蝉はお手玉をひとつ放り上げた。最初はひとつ、それからふたつみっつと徐々に数を増やしていく。鮮やかな手つきにりんと七星の目は釘付けだ。
いつしか空蝉も笑顔になっていた。七星を見ていると今は亡き我が子を思い出す。ああ、こうしてよく一緒に遊んでやっていたな、そういえばもうすぐ新盆……。
「楽しそうだな」
勇次の声にはっと我に返る。動揺し、思わずお手玉を落としてしまった。
「ああ、邪魔して悪かったな。気にしねぇで続けてくれ」
勇次はおもむろに蚊遣りを彼女らの足元近くに置いた。杉や松の葉に伽羅の薫香が付けられているのか、蚊遣火の芳しい香りが中庭に広がってゆく。彼はりんの本を拾い上げ、板縁に寝転んだ。
——源氏物語か。頭のどこかで憶えてるのかな。
りんが記憶を失う前、読みたいと言っていた『源氏物語』。記憶の片隅に残っていたのだろうか。それともただの偶然か。
巻名を見ると「空蝉」とあった。
——もう、ここまで読んだのか。
ほう、と感心する。記憶を失くして間もないころは文字も忘れていたようだが、時が経つにつれ少しずつ思い出してきたらしい。一度教えればすぐに覚える賢さもあり、砂が水を吸い込むように読み書きを習得していった。
——これなら読唇術もすぐに覚えちまうかもな。
緑山から助言された読唇術の件も一考の余地はあるだろう。
「空蝉の羽に置く露の木隠れてしのびしのびに濡るる袖かな……」
ぱらぱらと頁をめくり、手を止め、ぽつり……つぶやく。
「なんだい、それ?」
空蝉に聞こえてしまったみたいだ。
「おめぇ、お露って名だろ。それ聞いたとき、真っ先にこの歌が浮かんだんだ」
勇次はそれだけ言うと、目を閉じ、顔の上にその頁を開いたまま本を乗せた。しばらくすると、すぅーっと寝息が聞こえてきた。歌意は訊けずじまいだ。
それを見てりんは立ち上がり、どこかへ行ってしまった。そうかと思うとすぐに薄手の法被を手にして戻ってきた。それを勇次の腹にかけてやる。風にめくれた裾には「りん」の文字が刺繍されていた。
ごく自然な動作に、空蝉は目を見張った。そんな彼女に気づかず、りんは落ちたお手玉を拾う。
今度はりんが七星にやってみせた。夜見世が始まるまで、3人、いや4人は平和なひとときを過ごした。
次回は第16話「女衒とサンカ」です。