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第14話 洗礼

 張見世の奥のほうへと追いやられていた空蝉に、緑山は気づいたようだ。

「ああ、あいつな。そう、りんが薬礼を立て替えようとしていた女だよ」

「やはり、そうでしたか。しかしなんでまた彼女が邑咲屋さんに?」

 緑山が不思議そうに問う。勇次は空蝉を雇うことになった経緯をかいつまんで説明した。

「なるほど、たしかに夜鷹よりかはましかもしれませんね。邑咲屋さんは、傾城屋にしてはまともな飯を遊女に出しますから」

「ん……、まぁ……ねぇ……」

 どこか小難しい顔つきで空蝉を見つめる勇次に緑山は気づいた。

「どうかされましたか?」

「……それが、あいつ、なかなか客がつかなくてさ。いい色持ってると思ったんだがなぁ」

 腕組みして首を傾げる。自分の色を見る目に狂いはないはずなのだが、最近鈍ってきたのだろうか。

 しかも、今月中に馴染みがつかなかったらクビにすると女将である姉にきつく約束させられている。邑咲屋を追い出されてしまったら、畑を失った空蝉は帰る場所もなく夜鷹に逆戻り、あるいはふたたび不老川(としとらずがわ)に身を投げてしまうかもしれない。

 だが、浮かない表情の勇次に緑山はあっけらかんと言い放った。

「なんだ、そういうことは早く言ってくださいよ、勇次さん。ならば今日は私が彼女を買います」

「えっ? 緑山さん、いいのかい?」

「ご案じなさいますな。彼女が嫌がることはしませんから。まだ昼間ですし、なんならおしゃべりだけで十分です」

 遊郭の遊女になって初めて当たる客は不安もあろう。しかも空蝉は愛娘を亡くしたばかりで未だ悲嘆に暮れている。これだけの気遣いができる客を取れるとはなんという幸運なのか。

 ——緑山さん、神っ!

 勇次は思わず二礼二拍手一礼しそうになった。まずは手を合わせて謝意を告げる。

「いや、そんなわけには。でも、ありがてぇ。また緑山さんに借り作っちまったな」

「そんなことありませんよ。私のほうこそいつもりんちゃんには仲良くさせてもらってますからね。ありがたいことです」

 りんと仲良くしている——という部分は引っ掛かったが、兎にも角にも第一関門は突破した模様で安堵する。そのまま緑山を2階の部屋へと案内し、客用とは別の階段から空蝉を緑山の待つ部屋へと向かわせた。




 この日は花魁道中だった。いつもなら妓楼主伊左衛門のいる月末か月初に登楼する太客綿貫親子が、今回は少し早めにやってくるとの差し紙が引手茶屋から届いたのだ。 

 昼見世の営業が終わり、道中用の吉原つなぎに着替えた勇次は2階へと向かった。新入りの禿(かむろ)七星は今宵が初道中だ。支度部屋をのぞくと、胡蝶が甲斐甲斐しく七星の()(なり)を整えてやっていた。胡蝶はわがままな面もあるが、あれでいて妹分の面倒見はいい。

 勇次は満足げに頷き、そっとその場を離れた。孔雀の座敷へ向かう前に、大部屋にいる空蝉の様子を見に行く。

「おう、空蝉。緑山さん、どうだった?」

 廊下に出てきた空蝉はもじもじしながら顔を赤らめた。身綺麗にびしっと支度した勇次があまりにも美しすぎて、彼の顔をまともに見られない。

「びっくりした。あの薬売り、わっちには指一本触れてこなかったよ。黙って娘の話をずっと聞いてくれてさ。泣いてもそっと手拭い貸してくれるだけで、泣きやむまで文句ひとつ言わずに待っててくれた。遊郭の客って、みんなあんなやさしいのかい?」

 それを聞いて勇次もびっくりした。指一本触れないとはこれ如何に。

「いやいや、んなわきゃねぇだろ。緑山さんみてぇな客は(まれ)だよ。滅多にお目にかかれねぇぞ」

 そうなんだ……と少々がっかりしたように空蝉はうつむいた。が、すぐに気を取り直す。

「でも、世の中にはやさしい男の人もいるってわかった。あんたも……」

 それ以上は恥ずかしくて言えなかった。

「どした?」

 勇次が顔を近づける。どきり……。空蝉は心臓の音が聴こえないよう軽く咳払いをして気を散らした。

「ううん。わっち、ここに来てよかった。毎日美味しいおまんまを食べさせてもらえて、ぬくとい布団でも寝られて。風呂だって毎日入らしてもらえる。夢みたいだ」

「そうか。そりゃよかった」

 勇次が満面の笑顔を見せる。空蝉は顔を上げ、眩し気に目を細めた。

「わっち、あんたと出会えて本当に……」

 そのとき、彼女の言葉を遮るように番頭新造お甲が声をかけてきた。

「勇次さん、花魁のお支度が整いましたよ」

「あいよ、今行く」

 伽羅(きゃら)の香りをその場に残し、じゃあな、と彼は去って行った。その(かぐわ)しい香りにうっとりする空蝉に、お甲が声を低めて告げる。

「勇次さんは若頭だから忙しいんだ。新入りにかまってる暇なんかないんだよ。引き留めるんじゃないよ」

 ぴしゃりとたしなめて勇次の後を追う。引き留めたわけではない、勇次のほうから声をかけてきたのだ。空蝉はそう言い返したかったが、突然のことで頭が真っ白になってしまった。言葉を失っていると、今度は玉虫がやってきた。

「新入りのくせに勇次さんに馴れ馴れしくするんじゃないよ。ちょっとやさしくされたからってつけあがりやがって」

「つ、つけあがってなんか……」

 そこへ妹分の(ひぐらし)がわざと肩をぶつけてきた。

「ちょいと、おどき。廊下の真ん中にいたら邪魔じゃないか」

 空蝉はここでも面食らった。これが女の園の洗礼というやつか。遊女数人がこちらを見ながらこそこそ話している姿に怒りが込み上げる。だが生憎(あいにく)、新入りの自分は言い返す言葉を持ち合わせていない。

 ぎり……と歯を食いしばり、拳を握った。今はただ、じっと耐えるしかないのだ。




「花魁、お迎えに上がりました」

 勇次が障子の外で声をかける。中から禿の(はる)()が障子戸を開けると、美しく着飾った孔雀が遣り手婆のお亀に手を取られて立っていた。まさにその姿は大輪の芍薬、否、それ以上だ。

「勇さんが2階まで迎えに来てくれるなんて珍しいね」

「たまにゃいいだろ?」

 先日の言い争いを気に病んでいるのか。孔雀は手をお亀から勇次の腕に移し、囁いた。

「こないだはわっちが悪かったよ」

「別におめぇを責めちゃいねぇよ。俺の気遣いが足りなかったんだ。悪いと思ってる」

 そう言ったきりふたり無言で階段を降りてゆく。まだ少々ぎこちない動きで玄関にたどり着くと、りんが八寸ある高下駄をせっせと磨いていた。ふたりに気づいたりんが顔を上げ、にこっと微笑みかける。このとき孔雀は勇次の鼓動を聴き逃さなかった。

 勇次の腕から手を離し、りんの気配がする方へと腕を伸ばす。りんに触れたいらしい。勇次が孔雀の手を取り、それを手助けする。りんの頬に触れた瞬間、孔雀の掌に何とも言えない癒しが広がった。あたかもあさましき心が浄化されてゆくかのように。

「勇さん、いい()見つけたね。お似合いだよ」

「あたぼうよ。おめぇにゃ負けねぇぜ」

 ふふんと笑って孔雀が高下駄に足を入れる。勇次の肩に手を乗せたときには、気まずさもだいぶ落ち着いていた。

「行くぜ、孔雀」

「あいよ、勇さん」

 颯爽と上げられた朱色の暖簾から花魁孔雀が姿を現すと、割れんばかりの歓声が遊郭中に響き渡った。それに負けじと先頭の金棒引き権八が声を張り上げる。

「お練ぇ~りぃ~!」

 シャンシャンと錫杖の鈴を鳴り響かせながら花魁道中は始まった。相も変わらず息の合ったお練りに、観衆から歓声と拍手が湧き起こる。

 りんは路地に回って道中を眺めていた。いつも月末から月初は高林医師のもとに預けられているため、なかなか孔雀の道中を目にすることは叶わない。だが、今宵久々に見られる道中に、りんは煌々(きらきら)とつぶらな瞳を輝かせた。

 路地の前を通り、眼の端にりんを感じた勇次は、一瞬ほんの僅か背筋を伸ばした。孔雀が勇次の肩に置いた手を軽く添え直す。肩から孔雀の笑いが伝わってきた。

 勇次が微かにはにかむ。ふたりのわだかまりはすっかり消え去ったようだ。またも、りんに救われた気がした。




 約7、8町の距離を半刻ほどかけてゆっくりと練り歩く花魁道中。一行は、陽が沈むころに引手茶屋へと辿り着く。そこで待っていた客と一刻ほどお座敷遊びを楽しんだあと、客を連れてまた自分の妓楼まで戻る、というのが一連の流れである。

 幇間の太鼓が止んだ。それに合わせて芸妓の三味線も止んだ。笑い声はまだまだ続いているが、そろそろお開きの時間らしい。引手茶屋から出てくる花魁を一目見ようと、観衆が再度わらわらと集まってきている。

 その中には緑山の姿もあった。少し離れた通りから待っていると、金棒引きと提灯持ちの若い衆が暖簾から出てきた。その光景を、ほかの観衆と同じように笑顔で眺めている。遊郭にとって花魁道中は一番の目玉といっても過言ではない。

 屋号と花魁の名が記された提灯を見れば、どこの妓楼の道中かは一目瞭然。緑山も懇意にしている勇次の肩貸し役を冷やかし半分、話の種にと見届けに来たのだ。

 提灯持ちに続いて禿の春蚕が暖簾から出てくる。彼女は狭山入間川村の豪商綿貫淑之と手をつないでいた。

 ——次は花魁と勇次さん……

 ワクワクしながら次を待つ。だが、その前に今宵初道中の禿七星がいた。彼女も淑之の息子徳隆と手をつないで出てきた。花魁孔雀は手間取っているのかなかなか出てこない。観衆がざわつきはじめたころ、ようやく孔雀が勇次の肩に手を乗せ姿を現した。待ってましたと言わんばかりに歓声と拍手が湧き起こる。帰りは外八文字ではなく普通の歩行であったが、それでも孔雀の艶姿には皆溜め息を漏らし、見惚れることしきりであった。

 傘差し役の富蔵に続き、玉虫や胡蝶など主だった遊女たち、そして殿(しんがり)に番頭新造お甲が一列に並んで一行は邑咲屋へと帰ってゆく。緑山も観衆に混ざり、その姿を刮目していた。




 翌日の夜見世、緑山はふたたび邑咲屋を訪れていた。指名は空蝉だ。次の晩もその次の晩も訪れ、空蝉を指名した。彼の登楼は月末最終日まで続き、指名はすべて空蝉だった。緑山は空蝉の馴染み客となったのである。

「緑山さん、恩に切るぜ。お陰様で空蝉を追い出さねぇで済みそうだ」

 登楼した緑山を2階に案内する勇次の声は躍っていた。だが緑山は勇次を見ず、花魁の座敷の方をしきりに気にしている。

「悪いが、花魁は太客しか相手にできねぇんだ」

「あ、いいえ。それはわかってます。花魁ではなくて……」

 緑山は怪訝に首を傾げる勇次に視線を移した。

「今宵は七星の姿が見えないな、と思いまして」

 ははは、と照れ笑いしながら頭に手を当てる。時折、彼が七星にかまっている姿を勇次は微笑ましく眺めていた。

「緑山さんも子供好きなんだ」

「も、ということは勇次さんも?」

 ふたり顔を見合わせ、苦笑い。子供は邪気がなくて心が洗われる、などと意気投合する。このときふたりは、互いにどこか同じ匂いを感じていたのかもしれない。

「実は……」

 緑山ははにかみながら答えた。

「私には子がいたのです。七星そっくりの可愛い娘でした」

「あ……、そうだったんだ」

 緑山に子供がいたとは初耳だ。現在独り身ということは、女房とは別れたのだろう。バツが悪そうに勇次は口元に手をやった。

「聞いちゃいけなかったかな」

「いいえ、かまいませんよ。隠すようなことではありませんから」

 笑いながら緑山は続けた。

「奇遇なことに名をお七と言いましてね。年齢(とし)も偶然今の七星と同い年、七つでした」

「でした……ってこたぁ……」

「亡くなりました」

 どう返したらよいかわからず、勇次は緑山の目をじっと見つめるほかなかった。子を亡くした親の哀切極まりない心情は、独身の自分にはどうあっても計り知れない。

「だから、七星を見ると娘を思い出して、ついかまいたくなってしまうのですよ」

 遠い目をして緑山が笑う。

「ああ、つまらない話をしてしまいましたね。忘れてください。では、私はこれで」

 軽く会釈をし、緑山は空蝉の待つ部屋へと入っていった。

次回は第15話「嫉妬の眼差し」です。

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