第12話 強い男はウブだった
6月も終わりに近づき、梅雨の晴れ間の陽射しがきつくなってきた頃だ。お縫は冬物の法被が大部屋に置かれていることに気づいた。
「これって、りんに貸してた法被じゃないかね?」
注文していた夏物の法被が届くまで、これで我慢してもらっていたところである。やはりこの暑さには耐えきれず、脱いでしまったのだろうか。急ぎ勇次に知らせる。
「しょうがねぇなぁ。ま、邑咲屋ん中にいるときゃ無理に着るこたねぇだろ」
「それが……」
お縫はなんだか落ち着かない様子だ。
「どした、お縫さん。また、りんがなんかやらかしたか?」
「いえね、さっきから見当たらないんですよ。もしや、また……」
勇次は一瞬天を仰いだあと、すぐに外へと駆け出した。また捨て場に行ったのだろうか。杞憂を祈る一方で、口頭ではなく筆談で説明すべきだったと今さらながら後悔する。
——りん、俺が行くまで無事でいろよ。
りんの顔を見るまでは気が気でない。ざわざわと波打つ胸を抱えながら、切見世の一角へと辿り着く。
すると奥のほうからなにやら騒ぎが聞こえてきた。何事かと声のする方へと走り出す。もしや、りんが何か騒動に巻き込まれているのだろうか。表情に焦りの色を浮かべ、足を速める。と、騒がしい切見世の中を覗こうとしたときだ。
突如、見世の中から男が飛び出してきた。いや、飛び出してきたというより、投げ飛ばされたというべきか。いずれにしても身を投げ飛ばされた男が勇次の足元に転げてきたのだ。
「おいっ、大丈夫か?」
見ると男は気を失っていた。吉原繋ぎの柄から見て、彼はここの切見世の若い衆のようだ。中を覗くと、まだ騒ぎは収まっていないらしく、客と思しき男が見世の若い衆多勢を相手に大立ち回りを演じていた。
男は見事な立ち回りで襲いかかってくる若い衆を次々に投げ飛ばしたりして、ばったばったと捌いてゆく。勇次は妙に感心しながらその華麗なる動きに思わず魅入ってしまった。
——強ぇ……
ふと、そのとき、男の背後に隠れている娘に目が留まった。
——りん?
なんと、男の後ろにいるのはりんではないか。
「りん!」
勇次の叫びにりんはもちろん気づかないが、若い衆の相手をしていた男が代わりに気づいて振り返った。
「あ、勇次さん」
「え? 緑山さん?」
男は朱座の薬売り緑山だった。人違いではあるまいなと勇次が緑山に近づく。と、そのとき、勇次に気を取られていた緑山の隙を狙って若い衆が拳を振り上げた。
「この野郎っ!」
ばきっ……と鈍い音が響いたと同時に、若い衆はばったりとひっくり返った。ぶくぶくと泡を吹いて白目を剥いている。彼が拳を振り下ろす前に、勇次の前蹴りがその顔面に直撃したのだ。
「お見事」
緑山が勇次に向けて拍手する。勇次は乱れた裾を直しながら緑山を見た。
「緑山さん、これはいってぇどういうことだい?」
勇次の問いに緑山が説明しようと口を開きかける。それを遮るように奥から切見世の主人が顔を出した。
「うちの若ぇ衆が連れてきた娘をその野郎が横取りしようとしたんだよ」
どうやら、捨て場へ行こうと切見世の一角を通りがかったりんを切見世の若い衆が誘拐しようとしたらしい。
「連れてきただぁ? かどわかしてきた、の間違いじゃねぇのか?」
勇次がぎろりと睨む。だが主人が引き下がる様子はない。それどころかドスの利いた低い声で凄んできた。
「おめぇさん、邑咲屋の若頭だな。中見世が切見世のやり方に口出すんじゃねぇ。おめぇんとこみてぇにお上品な商売やってたら俺たちゃおまんま食ってけねぇんだよ」
「別に俺は切見世がどういう商売しようが知ったこっちゃねぇ。だがな、邑咲屋のもんに手ぇ出したとあっちゃ話は別だ。それなりの落とし前はつけさせてもらうぜ」
「うちのもん?」
主人は訝った。勇次の代わりに緑山が教えてやる。
「このお嬢さんは勇次さんの妹さんなんですよ」
「……!」
突如、主人の表情が強張る。りんは勇次のそばに駆け寄り、彼の法被の裾をぎゅっと握りしめた。
「おめぇらがあくどい商売してるのはよーくわかったぜ。今回のことは惣名主さまに報告しとくから、指の1本2本覚悟しとくんだな」
みるみる蒼褪めてゆく主人は、踵を返す勇次に追いすがった。
「そっそれだけは勘弁してくれ! 頼む、邑咲屋さんっ。金舟楼に目ぇ付けられたら俺たちゃ朱座にいらんなんくなっちまう」
「だったらもうちっと大人しくしときやがれ。今度邑咲屋のもんに手ぇ出したら指くれぇじゃ済まさねぇからな」
そう吐き捨て、勇次はりんを連れて外へ出た。緑山も後を追う。切見世の一角から抜け出たところで勇次は立ち止まり、緑山を振り返った。
「緑山さん。りんを助けてくれて恩に切ります」
深々と頭を下げる。りんもそれに倣ってお辞儀した。
「いや、そんな。たまたまりんちゃんを見かけただけですから。もうっ、おふたりとも頭を上げてください」
緑山は恐縮することしきりである。頭を上げた勇次は安堵の吐息を漏らした。
「にしても、緑山さん、強ぇんだな。たまげたぜ。どこであんなすげぇ腕磨いたんだい?」
「……あ……それは……」
やにわ口ごもった緑山を見て勇次はすぐに口をつぐんだ。
「あっ、すまねぇ。制外者同士、詮索は野暮だって、こないだ俺が言ったばっかだよな。許してくれ」
「いえいえ。お気遣いなく。それよりもりんちゃんが無事で何よりでした」
「いや、ほんと。切見世のほうには近づくなって言ったんだけど、なかなか伝わらなくて」
やはり面倒だが一度書面にするか……と、ぶつぶつ零す。すると、緑山がなにか閃いたようだ。
「りんちゃんに読唇術を覚えてもらってみてはいかがです?」
「読唇術?」
読唇術——相手の唇の動きだけでその言葉を理解する方法だ。
「けど、どうやって?」
「筆結の彦さんができます。彼に教わってはどうでしょう?」
筆結の彦助は生まれつき耳が不自由なこともあって、早くから読唇術を習得していた。読唇術に長けた者は、耳が不自由なことを感じさせないほど自然に会話ができるという。
「実は私も少しできるので、お力になれるかと」
「えっ、緑山さん……まさか?」
「あっ、いいえ、私はちゃんと聞こえています。実は昔、少しだけサンカの世話になっていたことがあって、そのとき彼らから教わりました」
「サンカ……って、あの山のやつらか?」
勇次は緑山の顔をじっと見つめた。あまり大柄ではないが、切見世の気性の荒い若い衆を次々に投げ飛ばす体躯を思い出す。普段穏やかな彼からは想像もつかない猛者ぶりだ。薬の知識、腕っぷしの強さ、読唇術……。彼はいったい何者なのだろうか。
首を振り、邪念を払う。制外者の過去は詮索してはいけないのだ。
「緑山さん、ありがとな。暇みてりんを連れてってみるよ」
緑山はにっこりと頷いた。
「そうだ。今度、邑咲屋に遊びに来てくれよ。今日のお礼にただで遊ばせてあげますよ」
「えっ? でも朱座の男衆は朱座の遊郭で遊んではいけないのですよね?」
「それが、こないだの寄り合いで決まりが変わったんだよ」
妓楼の若い衆以外の男衆は遊女をひさいで良いことになった、と勇次が説明する。
「だから心配しねぇで遊びに来てくんな。いい遊女紹介しますぜ」
「そそそんな、そんな。まっ間に合ってますんで。でででは、私はこれで」
女を知らないのだろうか。顔を真っ赤にして両手を振る緑山を勇次はにやにやしながら見送った。意外と初心なのだな、と内心ほくそ笑む。
やおら、りんに今回のことを再度注意しようと振り返る。それに気づいたりんも彼を見上げた。吸い込まれそうな瞳に、一瞬で負ける。
——だめだ。何も言えねぇ。
あっという間に身体中が熱くなった。にじみ出る汗が止まらない。勇次はりんに赤くなった顔を悟られないよう、法被の裾を握らせたままゆっくりと歩いていった。
「若旦那さま、大旦那さまがお呼びです」
金舟楼の廊下で、若い衆が甚吾郎を呼び止める。
「親父が? なんの用だ?」
内証に向かおうとすると若い衆はまたも声をかけてきた。
「そっちじゃありやせん。花魁のお座敷に来るようにと」
花魁の座敷——。なにか重要な話でもあるのだろうか。父勝治郎が花魁の座敷に呼び出すということは、遊神が関係しているということだ。
金舟楼には遊神が二柱鎮座している。朱座遊神の宗である宮城と、その下に仕える如意。邑咲屋の孔雀を加え、朱座には遊神が三柱いることになる。その三柱とも仮の姿は花魁だ。
「花魁、甚吾郎です」
「お入り」
甚吾郎が宮城の座敷の障子を引く。中に入ると、父だけでなく如意もいた。
「おとっつぁん、お呼びですかい?」
「甚、まぁ座れ」
「なんですかい? あらたまって」
「遊神様からお話があるそうだ」
甚吾郎は宮城と如意の二柱にやおら目を向けた。ただならぬ空気を醸す二柱を注視する。甚吾郎が座布団に腰を下ろすと、一呼吸間を置いてから宮城が口を開いた。
「この朱座に遊神がもう一柱いるよ」
「もう一柱? どこの妓楼に?」
「わからない。気配だけするのさ。でも確実にこの朱座のどこかにいる」
甚吾郎は首を傾げた。
「それって、なにか不都合なことでもあるんですかい?」
「大ありさ。宗のわっちのあずかり知らぬところで遊神が潜んでいるってことだからね」
息を呑み、甚吾郎は勝治郎の顔を見た。父は難しい顔で目を閉じたままだ。その場に不穏な空気が流れた。
次回より第4章「女の園」に入ります。
次回は第13話「黒い遊神の魔手」です。
※評価ポイント・ブックマーク・いいね・感想などいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
【用語解説】
◎宗:ここではリーダーのこと。