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第11話 福原遊郭の月

※歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションであり実在の人物とは一切関わりありません。

 花魁の座敷を追い出された勇次は、階段を降りながらふと思った。

 ——甚さん、芸州のかくし閭は消えちまったって言ってたけど、遊神様はどうなっちまったんだ?

 まさか遊神様もろとも消滅してしまったなどということはなかろうか。遊神は内から結界を張ることしかできない。遊神がかくし閭と命運を共にしたことは十分あり得る。

 勇次の全身に戦慄が走った。が、すぐさま首を横に振る。

 ——いやいや、隣の革田村に飛び火したんだから結界は完璧じゃなかったんだ。

 故意に結界を一部開けたのは自分の逃げ道を確保するためだったのかもしれない。「かくし閭が奪われないとも限らない」とも言う甚吾郎の言葉を思い出す。孔雀の座敷を見上げた。竜弥が戻ってくるまでは、なんとしてでも孔雀を守らねば。

 ——てか、竜弥のやつ、ほんとに戻ってくる気あんのか?

 竜弥は今、どこで何をしているのだろうか。格子窓から見える更待(ふけまち)(づき)を見つめながら、勇次は深い溜め息をつくのだった。




 昨夜から降りつづいた神戸の雨は、昼過ぎには止んでいた。今は晴れた夜空に更待月が浮かんでいる。

 勇次と孔雀の心配をよそに、竜弥は乱れたおくれ毛を潮風に()かせたまま海を照らす月明かりをぼんやりと眺めていた。

「なに見とん?」

 白粉(おしろい)のきつい香りを漂わせ、遊女がしどけなくしなだれかかる。

「るせぇな。べたべたすんじゃねぇ。仕事が終わったらとっとと寝とけ」

「なんやの? もう知らん」

 遊女は不貞腐れて布団に飛び込んだ。掛布団をそっとずらし、目だけのぞかせる。竜弥が相手をしてくれないとわかると、彼女はあきらめてそのまま目を瞑った。

 竜弥は耳を澄ませた。ほどなく聞こえてきたいびきに興醒めしつつも、どこかほっとする。今夜は何人の客を相手したのだろうか。よほど疲れたに違いない。

 ——今夜はゆっくり寝てろ。

 遊女の夜は、どこの遊郭もさほど変わらない。客がいつ目を覚ましても対応できるよう一晩中気を張り、熟睡などしていられないのだ。だから、自分が客の今夜くらいは気兼ねなく眠らせてやりたい。

 竜弥は遊女を起こさないよう静かに立ち上がった。そーっと障子を開け、廊下へ出る。潮の香りとまだ新しい木の匂いが入り混じり、ひとときの癒しを得た。

「福原はええわいしょ」

 背後に現れたのは陸奥陽之助だった。

「異人ばっかで落ち着かねぇや」

「そがな言うたら(ばち)当たる。この福原はなぁ、伊藤はんのお陰で出来たようなもんやいて」

 陸奥は木の香りの残る柱に頬ずりし、喜びを体いっぱい表してみせた。

 安政5年の日米修好通商条約締結に伴い神戸村が外国人居留地とされたのは慶応3年の師走。これは商売になると見込んだのか、周辺の有力者たちは歓楽街や遊郭の設営許可を求めた。翌年の明治元年早々に認められたのは、明治政府の要職にあった伊藤博文が陰ながら尽力したからだともいわれる。

 何にせよ、それからが早かった。兵庫港(後の神戸港)のすぐそばに福原遊郭が開業したのはその年の5月。神戸に遊郭建設計画が持ち上がってから誕生するまで半年足らずだ。つまり今は開業してまだ1年余りしか経っていないということになる。

「伊藤はんがいやんかったら、今ごろ神戸に遊郭はあれへん」

「伊藤なんかただの女好きじゃねぇか」

「伊藤はんはただの女好きとちゃう。筋金入りの女好きやいて」

 陸奥が真顔できっぱり断言する。

「遊郭のお陰で(さび)れた神戸村が一気に息を吹き返したんや。村人はみぃんな恩恵受けちゃある。これでもまだこの世に遊郭はいらんゆうん?」

 竜弥は「けっ」と忌ま忌まし気に顔を背け、格子窓の外を見た。

「伊藤のお陰で知事になれたからって調子こいてんじゃねぇぞ」

 明治元年に設置された兵庫県は伊藤博文が初代知事を務めている。旧幕府領代官支配地の統治や、版籍奉還に先立ち姫路藩が版籍を上納するなど、兵庫は新時代の先駆けともいえる存在だ。

 その兵庫県知事に就任したばかりの陸奥は、先ほどまで上機嫌で遊女と戯れていた。竜弥の皮肉などどこ吹く風、余韻に浸るかのように下がった目尻をさらに下げている。

 竜弥はやけに涼しい腰回りをしきりと気にしていた。

「腰のものは茶屋に預けてあるさけ心配しんと」

 それはわかっている。遊郭では刃傷沙汰を防ぐため、刀は茶屋に預けてから登楼するのだ。だが、朱座遊郭は違う。氏素性の知れぬ輩の集まりである朱座では昔、武士の刀を預かったまま売り飛ばす不届き者が相次いだことがあった。それが良からぬ風評となって朱座は一時存続の危機にさらされた経緯があるのだ。以来、武士の刀は茶屋に預けずともよいことになった。その代わりといってはなんだが、若い衆の腕っぷしが上達したのは怪我の功名か。

 ふいっと顔を背け、神戸の夜景を見つめる。夜景といっても真っ黒な山塊が見えるばかりだが。

「あれが六甲山か?」

「ちゃうちゃう。あれは摩耶山。六甲山はまっとぉ大坂寄りやいて」

 ふーん、と頬杖をつき、格子に額を押し付ける。陸奥も窓枠にもたれた。

「川越からは(なん)ど山が()ぇるん?」

「富士山」

 ほーっと陸奥が大きく溜め息をつく。

「あで、日の本一の山やいしょ。そがなもんが毎日()ぇるん? けなりぃなぁ」

 羨ましがる陸奥には反応せず、竜弥は夜空に浮かぶ尾根をずっと眺めている。

「川越に帰らんでええの? (たく)土佐(とさ)(もん)やさけ、当分は政府の中でも蚊帳の外や。連れもてあってもなんもできやんやん」

「あんたが俺のこと呼び寄せたんだろが。島原で俺のツケで豪遊しやがって」

「そやったのー」

 あはあはあはと陸奥は笑って誤魔化した。

「そうでもしんと来てくれへんやん」

「ふん」

「卓が()うてみたいゆうさけ」

 目尻を下げ、微笑む。竜弥は訊いた。

「なんで今日、大江さんを誘わなかったんだ? あんたの知事就任祝いだろ?」

「卓は神戸にあったらあかん」

「なんで?」

 陸奥はおもむろに湊川を指差した。

「あの川の近くにフロノ谷ゆうんがあるさけ」

「フロノ谷? なんだそりゃ?」

「賤民の部落や。あがな見とったら、卓のやつ、また(あつ)うなってまうやんけ」

 湊川付近にあるフロノ谷の賤民部落を初めて見たときの大江の衝撃は計り知れないものだったらしい。以来、彼はその光景を思い出すたびに悲憤に駆られ、被差別民解放の志を強くしていったという。

 ふっ…と竜弥は鼻を鳴らした。

「陸奥さんは大江さんを止めてぇのかい?」

 陸奥は口をへの字に結んだかと思うとおもむろに顔を上げ、目尻の下がった甘い眼で竜弥をじっと見据えた。

「竜弥はん、卓を止めてくれへん? なんや、危ない予感がすんのや。心配やさかい」

「そりゃ無理な相談だ。俺は大江さんの志に賛同してるんだからな」

「そやったの……」

 ふうっと大きく肩で息をつき、陸奥は格子の外に目を遣った。

「なぁ、竜弥はん。おまはんはなっとうして卓と志を(おんな)いしとるん?」

 ややあってから竜弥はぽつりと呟いた。

「……富士山……」

「ん?」

「……富士山を見せてやりてぇひとがいるんだ」

 富士山だけではない。氷川神社の風鈴、喜多院の枝垂桜、蓮馨寺の芝居小屋、時を刻む鐘、八幡神社の花手水、豪華絢爛な山車(だし)()っかわせ——。川越で見られる景色の全部をあの美しい瞳に映してやりたい。

「女か?」

 竜弥はなにも答えず、そのまま黙りこくってしまった。陸奥もそれ以上は聞かずに話題を変えた。

「わえな、来月いっぱいで知事辞めて紀州に帰るわ」

「は?」

 呆気にとられる竜弥に屈託ない笑顔を見せる。

(はな)からひと月だけのつもりで引き受けたんや。泊つくやん?」

 ぺろりと舌を出し、遠くを見つめる。その瞳は東を見据えていた。

「版籍奉還で紀州もわやくちゃやして。わえも故郷(くに)の力になりたいさけ」

 微笑みながら竜弥の肩に手を回す。

「なんどかどおまはんと同いやいて」

「俺と?」

 陸奥は含みのある笑みでチャラけてみせた。

「はよ嫁はんに会いたいのー」

 陸奥の妻はかつて難波新地の芸妓であった。それをことあるごとに自慢している。

 ——ばーか、俺の情女(おんな)は日の本一の花魁なんだよ。そこらの芸者と一緒にすんじゃねぇ。

 心の中で悪態をつくも、腹の内を読み切れない男に少々苛立つ。陸奥はしたり顔で自分の座敷へと戻っていった。その背中を見送り、竜弥も戻った。

 そーっと障子を開けるといびきが聞こえた。遊女は深い眠りに落ちているようだ。

 ——俺の故郷は遊郭……

 故郷のために自分ができることは——。

 仰ぎ見た更待月に愛しのかんばせが重なる。ぼんやりと高欄にもたれたまま、夜は刻々と更けていった。




 邑咲屋のお針子部屋が何やら騒がしい。女中頭お縫の叱り声が聞こえてくる。勇次はたまたま通りがかった中郎に訊いた。

「誰かなんかやらかしたのかい?」

「ええ、りんが……」

「なに? りんだと?」

 りんと聞いては黙っておれない。勇次は最後まで聞かずにやにわ駆け出した。

「ちょいと、若頭、妓楼の中は走っちゃいけませんよ!」

 中郎の注意も聞こえないのか、そのままお針子部屋へと急ぐ。

「お縫さん、りんがどうしたって?」

 突然飛び込んできた勇次にお縫はびっくりしたが、すぐに落ち着き払って事の次第を説明しはじめた。

「いえね、これ見てくださいよ」

 お縫がりんの手元を指し示す。りんはお手玉を縫っている最中のようだ。禿(かむろ)たちのために遊び道具を作ってやっているのだろう。一見、なんの問題もないように見えるが。

「これがどした?」

「この布、どうしたと思います?」

「どう……って?」

「捨て場から勝手に拾って来たんですよ」

「捨て場?って非人小屋横のかい?」

 問うとお縫は大きく頷いた。溜め息をつきながらりんをちらと見る。彼女は状況をよく理解していないのか、きょとんとした顔でふたりを見上げている。

 勇次はりんのそばに膝をつき、身振り手振りを交え、なるべく穏やかな、しかし真剣な顔つきで諭した。

「りん、捨て場から勝手にゴミを持ち帰っちゃいけねぇんだ」

 朱座遊郭の廃棄物は、遊郭裏の非人小屋横に設置されている捨て場に持ち込むことになっている。廃棄物といってもこの時代は再利用が一般的で、さほど大量のゴミを処理することはない。内容は食べ残しや布切れ、職人の出した木屑など。埋めたり焼却すればいいだけのこと。

 ただ、その作業をするのは、朱座では非人に限られている。つまり、廃棄物を扱えるのは廃棄物処理を生業としている非人のみなのだ。ちなみにほかの地域では非人に限らず、捨て場の設置者だけがその権限を与えられている。

 勇次はそのことを伝えたかった。だが、耳の不自由なりんには当然すべては伝わらない。それでも自分が悪いことをしたというのは自覚したようだ。眉を歪ませ悲しげな瞳を畳に向けてうつむいている。その姿に胸が痛まないわけではない。だが——。

「りん、それだけじゃねぇ」

 勇次にはもうひとつ懸念があった。むしろそちらの方が気がかりだ。

「ひとりで行って、切見世のやつらにさらわれちまったらどうすんだ」

 捨て場へ行くには必ず切見世一角を通らなければならない。切見世の連中は女衒から女を買う金を出し惜しみ、城下町やそこらで目に付いた娘を片っ端からかどわかしてくる危険極まりない外道どもだ。だからゴミ捨ては若い衆や中郎など男の仕事なのである。

「わかってるのかねぇ?」

 お縫が心配そうに呟く。たしかに、りんは性懲りもなくまた捨て場に行きそうだ。大火災で記憶を失くしたとはいえ、物を粗末にしない、利用できるものはとことん利用する、という貧しかった百姓時代の感覚は今なお染みついているだろう。

 だからといって四六時中見張っているわけにもいかない。勇次とお縫いが頭を悩ませていたときだ。

法被(はっぴ)を着せてやったらどうだい?」

 廊下で一部始終を聞いていたお亮が顔をのぞかせた。

邑咲屋(うち)の屋号が入った法被を着てりゃ、切見世のやつらも下手に手は出してこないだろうさ」

 中見世とはいえ惣名主家に一目置かれている(むら)(さき)()を小見世以下は恐れている。加えて若頭の勇次を筆頭に元力士や腕の立つ若い衆をごろごろ抱えている邑咲屋に喧嘩を売れば返り討ちに遭うことは百も承知、二百も合点。迂闊に手を出せば惣名主家にも目を付けられ、この朱座で生きていけなくなってしまうは必定だ。

「なるほど。りんが邑咲屋(うち)のもんだって周りにわからせりゃいいんだ」

 勇次は姉の妙案にポンと手を打った。

「たしか余りが1枚くらいはあったと思います。探してみますね」

 早速お縫が、法被が余っていないか探しに行く。その間ひとまず夏物の法被を注文し、それが届くまでは今あるものを着せるということで落着した。

 だが、そうは問屋が卸さないのが世の常である。

次回は第12話「強い男はウブだった」です。

すっかり忘れてましたが、みてみんと活動報告に勇次さんのイメージ画を載せておきました。

よかったらご覧くださいませ。


【用語解説】

◎島原:京都の島原遊郭


【お願い】

氷川神社の風鈴や八幡宮の花手水は近年のものですが、これはあくまでもフィクションなのでご容赦ください。

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