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第10話 女が好きになる男

 りんが女の娘の手当てをしたことを知ったお亮は、それまでの厳しい顔つきをわずかながら緩めた。

「そうかい、りんが……」

 あんたはやさしい()だね、と言いかけたそのときだ。いきなりりんが大粒の涙をぽろぽろと零しはじめた。

「どどどした、りん? 腹でも(いて)ぇのか?」

 突然のことに勇次らはおろおろする。すると、りんは女に向かって手を合わせ、深々と頭を下げた。

「ひょっとして、子供を助けてやれなかったことを謝ってるのか?」

 しん……。皆、一瞬絶句した。女が申し訳なさげにりんの肩に手を当てる。

「あんた、わっちのために泣いてくれるのかい? ごめんよ。あんたのせいじゃないのに。わっちが悪いんだ。せっかくみんなが一生懸命手当てしてくれたのに、先生の言うこと聞かないで、その上薬礼も払わずに帰っちまって……。(ばち)が当たって当然だ」

 女も泣きながら心情を吐露した。あのときちゃんと診せていれば……と、今さら悔やんでも詮無いことが棘のように刺さったままずっとずきずきと痛んでいる。

 しんみりとした雰囲気の中、勇次が何か(ひらめ)いたように声を上げた。

「ん? 薬礼?」

「薬礼がどうかしたかい?」

「そうだよ、姉ちゃん。薬礼だよ。この女の代わりにうちで薬礼を立て替えてんだった」

 ははあ、とお亮が頷く。勇次の言いたいことはすぐにピンときた。薬礼の立て替えを借金としてこの女を雇えということであろう。

「いくらだい?」

「ええと、高林先生の診療と緑山さんの薬で合わせて15(もんめ)くらいかな?」

「はぁ? 15匁? お ま え は バ カ か ? 座敷持ちなら一晩で稼げちまう金額だろっ!」

 鬼の形相でお亮が勇次の衿をぎりぎりと締め上げる。しかし勇次は食い下がった。

「でっでっでも、最初は梅茶からだろ? 梅茶じゃすぐにゃそんな稼げねぇだろうから、稼げるようになるまではお試しってことで、な?」

「……」

 お亮はまだ衿から手を離さない。見かねた甚吾郎がお亮を勇次から引き剥した。

「いいじゃねぇか、お亮。勇次の気の済むようにしてやれよ」

「甚さん、この馬鹿の肩を持つ気かい?」

「だってよ、勇次がここまで頼んでんだぜ。てこたぁ、この女、よっぽどいい色を持ってるに(ちげ)ぇねぇ」

 勇次の顔が一変して明るくなる。

「さっすが甚さん、話がわかるぜ。そうなんだよ。この女の瞳にゃ色があるんだ。だからさ、姉ちゃん、しばらく様子見てくんねぇかな。稼いでくれたら儲けもんじゃねぇか」

 勇次と甚吾郎がお亮をじっと見つめる。りんもいつしか泣きやんで、彼女の顔を見つめていた。

 お亮は、はあーーーーーーっと大きな溜め息をついた。

「わかったよ。ただし、お試しは今月いっぱいだ。今月中に馴染みがつかなかったら出てってもらうよ。いいね」

「いい、いい。全然いい。お姉さま、恩に切ります」

 ふんっ、と鼻を鳴らし、お亮はどすどすと揚げ台へ戻っていった。

「ほらっ、とっとと客引きしてきな、このすっとこどっこい!」

「あいよっ」

 勇次は女を振り返り、肩をポンポンと叩いた。

心配(しんぺぇ)すんなって。俺の目に狂いはねぇんだ。おめぇならすぐに馴染みがつくぜ。いい男捕まえろよ」

 それからりんに目を移し、愛おし気に見つめた。そもそもりんが薬礼を肩代わりしようとしなかったらこの女は邑咲屋に借金することはなく、この話は流れていたのだ。りんのお陰で丸く収まったと言っても過言ではない。

 桜色の頬を両手で包み、涙の跡を拭ってやる。やさしさ溢れる眼差しで微笑むと、りんもはにかんだ笑顔を見せた。なんともいえない安らぎが胸を熱くした。




 女の名はお露といった。源氏名は「空蝉(うつせみ)」。例によって勇次に名付けられた。昼見世が終わり、夜見世が始まる前に風呂に入れ、番頭新造が化粧を施してやる。休む間もなく、今夜から張見世に出されるのだ。

「こんな綺麗な着物(べべ)、生まれて初めて着たよ」

「空蝉、おめぇ、思った以上にいい女だぜ。やっぱり俺の目に狂いはなかったな」

 勇次に微笑みかけられ、空蝉はぽっと頬を赤らめた。切れ長の流し目、長い睫毛、筋の通った美しい鼻、きりりと引き締まった口角——。この川越に(たぐ)(まれ)なる美しさを持つ男が存在していたのかと、端正な顔立ちを眩し気に見上げている。彼の美顔を見ていると子を(うしな)った悲しみも一瞬忘れそうになる。

 そこへバタバタとかまびすしい足音が聞こえてきた。

「勇次さん、今度のお盆休み、(どん)(りゅう)さんに連れてって!」

 背後から声をかけてきたのは振袖新造の胡蝶だ。相も変わらず勇次に予告なく抱きついてくる。

「おめぇはぁ、もう新造になったんだからいい加減こういうのやめろ」

 勇次が呆れ気味に胡蝶の手を解く。

「えー? いいじゃない、お客がいないときくらい」

「駄目なもんは駄目なんだよ」

「勇次さんのケチ」

 胡蝶は(べに)の乗った可愛らしい唇を尖らせた。勇次がくすりと笑う。

「あのね、わっち、松風雪之丞のお芝居が観たいの。勇次さん、雪之丞と仲いいでしょ? だから連れてってよ」

 松風雪之丞の旅一座「(しょう)(ふう)()」は、毎年お盆になると呑龍さんこと(れん)(けい)()へ興行にやってくる。松風座の看板役者雪之丞は勇次のことが大のお気に入りだ。

「よし、わかった。今度、山下屋さんにお願いしてやるよ」

「えー、なんでっ? わっちは勇次さんと行きたいの。勇次さんがいいの、勇次さんがいいの」

 腕をぶんぶん振り回す胡蝶を、勇次はにやにやしながら適当にあしらっている。ふたりのやり取りを目の前で見せられた空蝉は、その距離の近さに驚いた。と、不意に勇次が空蝉と距離を詰め、衿元を整えようと手を伸ばしてきた。

「ちょっと……」

 ごく自然に触れられ、空蝉は思わずその手を払いのけた。それを見た番頭新造のお甲がぶっきらぼうに言い放つ。

「勇次さんは幼い頃からここにいるんだ。女の身体なんか川越芋くらいにしか思っちゃいないよ」

 川越芋は言い過ぎだと笑いながら、勇次は空蝉の衿を整えてやった。胡蝶が「わっちもやって」と甘える。勇次の代わりにお甲が整えてやると、胡蝶はふくれっ面になった。勇次がげらげら笑うとますます頬を膨らませた。

 ——なんなんだい、この人たち。

 空蝉は呆気に取られていた。噂に聞いていた遊郭の陰惨な印象とは真逆だ。だが、彼女はまだ本当の苦界を知らない。

 そんな空蝉の様子に気づかず、勇次が胡蝶をからかっていると、誰かが彼の袂を引っ張った。見ると禿(かむろ)の七星が足元に立っている。

「どした、七星。花魁(おいらん)になんかあったか?」

 七星は人形をぎゅっと抱きしめ、無言で勇次を見上げている。おそらく孔雀が呼んでいるのだろう。勇次が腰を落とし、七星と目線を合わせようとしたときだ。

「お糸!」

 勇次を押しのけ、空蝉が七星に抱きついた。すぐに察する。

「空蝉、この子はおめぇの娘じゃねぇ。こいつの元の名はお七ってんだ。ふた親とも戦で亡くしちまってる」

 はっ……と我に返った空蝉は、慌てて七星から離れた。

「ごめんよ。死んだ娘にあまりにもよく似てたもんだから」

 申し訳なさそうにうつむく空蝉を、七星はじっと見つめた。その表情からは感情が読み取れない。勇次は肩をすくめ、七星と一緒に孔雀の座敷へと向かった。




「花魁、()ぇります」

 座敷の障子を引くと、花魁孔雀が物憂げに高欄にもたれかかっていた。もうひとりの禿(はる)()団扇(うちわ)で彼女に風を送っている。

 勇次の気配に気づいた孔雀は、春蚕と七星に書庫で読書をしているよう言いつけた。ふたりが出ていったのを見計らい、勇次が孔雀のそばに腰を下ろす。雲がのろのろと流れてゆく。梅雨の晴れ間、時折のぞかせる青空が夏の訪れを予感させた。

「今宵はまた降りそうだね」

 孔雀がぽつりと呟く。西から吹いてくる風の匂いを感じているようだ。

「どした? なんかあったか?」

「なんにもない」

 おそらく(たつ)()のことでも考えているのだろう。考えすぎてどうしようもなくなると、こうして勇次を呼びつけるのだ。取り留めのないおしゃべりで気を紛らわせたいだけらしい。

「今度の新入り、勇さんが誘ったんだって?」

 もう孔雀の耳に入っていたのか、と少々驚く。

「まぁ…な。なんか、ほっとけなくてさ」

 ふっ、と吐息を漏らし、孔雀は見えない瞳を見開いた。

「いつも言ってるだろ。勇さんはやさしすぎるんだって。そのうち痛い目に遭っても知らないよ」

「痛い目ってなんだよ」

「なんにもわかっちゃいないんだね」

 孔雀は深く溜め息をついた。

「勇さん、あんた、何年傾城屋にいるんだい。女心をまったくわかってないじゃないか」

「とんだ言い草だな。何が言いてぇんだ?」

「八方美人は嫌われるってことさ。誰彼いい顔してたら、いつかりんにも愛想尽かされちまうよ」

「あ? 俺とりんのことなんかおめぇにゃ関係ねぇだろ。口出すんじゃねぇよ」

「そうかい。じゃあ、好きにしな」

 孔雀に突き放され、勇次は天を仰いだ。遊女の機嫌を取るのは妓夫の仕事とはいえ、400年以上も生きている遊神なのだから自分で自分の機嫌の取り方くらい慣れてほしいものである。

「なんなんだよ、いきなり。その辺の女郎じゃあるめぇし男のことでいちいち八つ当たりすんじゃねぇよ」

「その辺の女郎で悪かったね。わっちだって女だよ。遊神が惚れた男のことで悩んじゃいけないのかい?」

 柳眉を逆立て孔雀が言い返す。勇次は肩で大きく息を吸った。

「……竜弥から文が届いたのか?」

 孔雀は首を横に振った。便りがないことが良い便りとはとても思えない。むしろ不安を一層掻き立てる。

「竜さんは多分、わっちの想像もつかないくらい大それたことを考えてる」

「竜弥が?」

「でもね、例えば竜さんが、世の中を動かすくらいの大それたことを考えようが考えまいが、そんなのどうだっていいんだ。わっちのことだけをずっと考えていてくれればそれでいいんだよ」

「……」

「勇さん、よくお聞き。女はね、誰にでもやさしい男が好きなんじゃない。自分だけにやさしくしてくれる男が欲しいだけさ」

「うーん、そうかなぁ?」

 御齢(おんとし)400歳超の遊神に断言されても、勇次はまだどこか納得いかない様子だ。

「あーっもう、勇さんとしゃべってるとイライラするっ」

「おめぇが呼びつけたんだろっ」

「もういいっ。出てっとくれっ」

「わかったわかった。もう二度とつまんねぇことで呼びつけんじゃねぇぞ」

 勇次は捨て台詞を吐き、座敷から出ていってしまった。

 ——つまんないことってなんだい。こっちは真剣に悩んでるってのにさ。

 孔雀は高欄に額を押し付けた。

 ——勇さんの馬鹿っ。

 飯能の奥の空を照らす夕陽が、漆の櫛を茜色に染める。

 ——竜さんのばか……

 ゆっくり顔を上げるとわずかに光を感じた。今宵の夜空は晴れだろうか。

次回は第11話「福原遊郭の月」です。

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