22話 北方の島々
翌朝、坂本は見送ってくれた村長に漆塗りの椀を差し出した。
黒塗りの椀に描かれたのは『組あい角に桔梗紋』坂本龍馬も使用した坂本家の家紋だ。
「もし何かあれば、こちらの品をお役立てください。何事も無ければいいのですが」
「それと、こちらの救急箱も置いていきます。いくつかの薬がありますから、何かあった時に」
不穏なセリフを連発する坂本に村長は流石に困って言った。
「おいおい縁起でもない。俺はこれでも顔が広いんでね。何かあれば頼れる人間は居るから心配なさるな」
それでも貰えるならと、品物をありがたく頂戴した村長。
そんな彼に猫塚は言う。
「あんた軍の荷運びをしてたんだってな」
「ん? なんで知ってる。ああ茂助から聞いたか」
「そんなとこだ。一つだけ忠告してやる」
「軍人なんて所詮国家の飼い犬だ。飼い主の命令なら”何でもやる”。そんな奴らが土壇場で頼りになるなんて思うなよ」
「……思っちゃいねぇさ。利があるから手を組んでるだけだ」
「そうかい。なら話は終わりだ」
猫塚は踵を返し、一人船に向かって歩いていく。
「随分不遜な奴だ」
「気にしないでください。猫ちゃんはああいう子なんです。さて、サロルン。僕たちも行こうか」
「ああ、世話になった。ありがとう。この恩はきっと返す」
「恩? そんなに気負うことなんてねぇよ。困ってるやつを助けるのは当然のことだ。気を付けて行きな」
「当然のこと。か。あなたもお気をつけて」
坂本とサロルンは猫塚に遅れて船に向かう。
風も順風。空は青空。今日は出航日和だ。
ここからはほぼ停泊せず北見まで向かう。
北周りルートでまず網走港まで向かい、そこから北見の内陸にある北光社まで移動することになっている。
昼間は坂本が操船し、夜間は夜目のきく猫塚が操船をする。
三人は操縦室の中にいた。猫塚が唐突に言う。
「いま計算したが、最短なら明日の夕方には到着するはずだ。お前はどう思う?」
昼間の操船を担当する坂本に猫塚は言った。猫塚は操縦室の机の上に広げた地図に定規を置き、にらめっこしている。坂本は地図を見もせずに答えた。
「今のところはそうなりそうだね。ただ風向きがちょっと怪しくなってきてるようだし、波も高い。そこは懸念点だな。この船は頑丈だから、無理せず慎重に行けば大丈夫だと思うけど」
「サロルンの具合も良くねぇしな。万が一座礁でもしたら身動きが取れん」
「この辺の海は深いし、浅瀬の多い歯舞群島や支古丹島からは離れた航路だから大丈夫じゃないかなぁ?」
二人の会話にベッドに横になっている少女が口をはさむ
「はぼまい? しこたん?」
船室にあるベッドではなく、交代要員用のベッドにサロルンがいる理由はただ一つ。船室では暇だからだ。
本来の暇つぶし用品である本をすでに読んでしまった訳であるから、ある意味仕方ない。目の届かないところにいるよりはよいだろうと思っているのか、猫塚も彼女を追い出すことはしない。
猫塚が質問に答えた。
「そういう島があるんだよ。エトロフ、クナシリもまとめて北方四島なんて呼ばれ方もするな。第七師団内では長年あの辺に飛ばされるのが一番最悪って言われてたんだが、今はまだマシだな」
「???」
今はまだマシの部分が分からないでいるサロルンに坂本が言った。
「樺太千島交換条約のせいだね。それで国境線が延長されたから、国境が北方四島じゃなくなってるんだよ」
「そういうこった。今は千島列島の先端の占守群の占守島(シュムシュ島)に飛ばされるのが最悪の人事だって言われてる。何一つ代り映えしねぇのに最悪が現れたおかげで、労せずして二番目の悪になったって訳だ」
猫塚の軽口にサロルンは何やら考え込んでいる。
「どうしたんだい?」
坂本が尋ねると彼女は言った。
「何か懐かしい気がするんだ。しこたんとうは見えるのか?」
「今右の奥に見えてるのがそれだよ。手前が歯舞群島の島々で奥の大きい島が支古丹島だ」
サロルンは布団から立ち上がり、無言で島を見つめる。
彼女が何を思っているかはその白銀の目からはうかがい知れない。
だが、島影が見えているうちはずっとそうしていた。坂本は言う。
「そんなに気になるなら北見からの帰りに寄ろうか?」
「そう……だな……」
坂本の問いに答えているのかいないのか、サロルンはうわの空で島を見つめていた。
*****
結局。一行は翌日の夜に網走港に入った。
夜間の操船もおおむねうまくいき、予定より遅れたはしたが、大きな問題は起こっていない。
辺りは暗くなっていたが、夜目の利く猫塚の操船で、難なく港に停泊する。
「下り5米。前後位置。上り1米。係留完了」
暗闇の中でも寸分の狂いもない操船に坂本は思わず手を叩いて喜んだ。
「うん。やっぱ君が居てくれてよかった!」
「そりゃどうも。ところで、いまさらだが、今回は土佐町から入らねぇのか?」
土佐町とはもう少し北に行った場所にあるサロマ湖の周辺にある集落だ。
名前の通り土佐の人間が入植したことからそう呼ばれている。
当然土佐の藩士の子孫である弥太郎も縁がある土地柄なのだが、坂本はウインクしていった。
「ちょっと訳があってね」
「そうかい」
猫塚はそれ以上追及しない。
サロルンは当然のごとく後ろのベッドで寝ている。
そんな彼女をちらりと横目に確認した猫塚は錨を下ろし、機材を点検しようとした。
その時、坂本が猫塚に何かを投げてよこしてくる。
手のひらに収まる小さなサイズの円形の何か、飛んでくるそれを思わず掴み取り、手を開いて中を見る。中にあったのは現在の価値で一万円ほどする金貨だった。
「一円金貨か。投げ銭のつもりか?」
「いや。君にはひとっ走り行ってきてほしくてね。点検は僕がやるよ」
「なるほど、用件はなんだ?」
「北光社に電報をお願い。僕たちが網走に着いたってね」
「了解だ。こんだけ積めば郵便局員も対応すんだろ。叩き起こして電報を打たせてやる」
早速出て行こうとする猫塚の後ろで、坂本が独り言のように言った。
「迎えに来て貰うつもりだから連絡しないとね」
その言葉に猫塚は立ち止まって振り返る。
「知らせるのはいいとして、迎えはいらねぇんじゃねぇか? 駅逓所の馬で行っちまう方が早いと思うが」
駅逓所というのは猫塚の言う通り馬を借りられる場所だ。
一定の距離ごとに存在し、その区間を馬で乗り継ぐことにより素早い移動ができるようになっている。坂本は言った。
「ああ、前まではそうだったね。けど今回は違うんだ」
「ふぅん。お前のことだから見てのお楽しみとか言うんだろ?」
「ははバレてたか、そういうこと。明日の朝楽しみにしててね」
「へいへい。じゃあひとっ走り行ってくるぜ」
猫塚はいつものように黄金の目で闇を見据え、外へと走った。
坂本は猫塚を見送った後、サロルンのそばにやってきてその額を撫でる。彼女は小さく寝息を立てていた。
「今晩はもう遅い。船を降りるのは明日だ。天龍丸。明日までは僕たちを守ってくれよ」
波間に揺れる船の中。
サロルンはまどろむ。
夢の中で彼女は真っ白で大きな鳥となっていた。
どこか遠い島の上を飛んでいる。懐かしい島。なのに見たことのない島。
何度かその島を旋回した後、南西に進む。
そしてたどり着いたのは、昨日見たシコタン島だった。
だが夢はそこで終わらない。
シコタン島も何度か旋回した後、鳥は今度は西に飛ぶ、そして釧路まで来ると、あるコタンに降りていく。
その先にはアイヌの男が一人立っていた。
男の顔を見たサロルンは夢の中ということも忘れて叫ぶ。
「ハポ!」
手を伸ばした瞬間に目が覚める。
「夢か」
サロルンが外を見ると、太陽はすでに登っている。
すっかり体調も良くなっていたサロルンは寝台から降りて歩き出した。




