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鉄血のユカラ  作者: 金鹿 トメ
カムイチュプのユカラ
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20話 役目とは何か

 その夜、皆が寝静まった中。チセからは押し殺したようなすすり泣きが聞こえてくる。中では左から順に、坂本、猫塚、サロルンの三人が川の字で寝ていた。すすり泣きの正体に初めて気が付いたのは猫塚だった。彼から見て右を見ると、サロルンの白銀の瞳と目が合う。闇の中、涙を湛え、闇の中でも美しく輝くそれはまるで月のようだと猫塚は思った。


「何だ。まだ痛むか?」


 手を伸ばし、指先で涙を掬い取る。

サロルンは首を振った。


「違うんだ。悔しくて、悔しくてどうしようもなくて、涙が出るんだ」


 そう言ったサロルンの瞳から一滴の涙が零れ落ちる。

彼女は苦しい胸の内を吐き出そうと続ける。


「『天から役目無しに下ろされた物は一つもない』父から何度も教えられた言葉だ。草も木も、動物たちも。この世にすべて無駄なものはない。私たちアイヌはそう信じている。だけど、もしそうだとしたら、今の私は何なんだろう。そう思ったら悔しくて。私は、私は役立たずだ」


 そう言ってサロルンはまた泣こうとする。放っておけば泣き止むかとも思ったが、このまま気落ちされて暴走されるのは面倒だと考え、猫塚は先手を打つことにした。


「この村で聞いたんだが、アイヌには疱瘡の神ってのがいるらしいな。いやお前らはカムイって言うんだったか。すべてのものが役に立たなきゃいけないなら、役に立つどころか害になる天然痘がなぜカムイになってる?」


「それは」


 サロルンは泣き止んで、考え込みだした。

猫塚はここぞとばかりに畳みかける。


「ほらみろ。神なんぞ人間の理屈。お前のもそうだ。そんなのは所詮綺麗ごとだ。世の中ってのは人間の浅知恵なんぞで綺麗にまとまるようには出来てねぇよ」


「そんなことはない。きっと意味があるはずだ」


「信じるのは勝手だが、誰かの生み出した思想に縛られるな。誰かのために作られた信仰に命を賭けるな。それらは生きる指標にはなるが、行き過ぎれば必ず足元をすくわれるぜ」


「だから俺は、何も信じねぇんだ」


 猫塚は最後自分に言い聞かせるようにそう言い切ると、サロルンに寝るように促した。


「冷やすと良くないらしいからな。俺のケープマント貸してやるよ」


「それはいらない。でもありがとう。気が楽になった」


 サロルンはそう言うと、すがすがしい顔で再び布団に包まった。

しばらくすると小さな寝息があがってくる。

やはり子供だ。猫塚はそう思い、彼女に渡そうとしたマントを見つめる。


 これはイギリスの北部で主に使われるインバネスコート。その上に羽織るインバネスケープと言われる形式の短いマントだ。

舶来の高級品だが、猫塚がマントを大切にするのに、そんなことは関係ない。


 猫塚にとってかけがえのない人から贈られた品だから大切にしているのだ。

ほつれや破れがあれば丁寧に直し、今も大切に扱っている。

マントを見つめるうち、晴れてヤタガラスとなれた際にマントを贈られた時のことを思い出しかけた。


 しかし、猫塚はその記憶を振り払う。


「もう終わったことだ。あの人にとっては」


 猫塚の目に揺らめいたのは涙だったのか、あるいはほかの感情だったのか、それは闇夜を飛ぶ鳥しか知らない。


*****


 結局、根室のコタンには数日滞在することになった。

サロルンの調子が悪かったのと、止血のための綿や布が十分に無く、定期的な洗浄が必要となったことからだった。


 清潔な水は航海を続けるための命綱だ。天龍丸は本来十人ほど乗れる船のため余裕を持って積んではあるが、積み荷との兼ね合いもあり、節約するに越したことはない。


 暇だった一行は各々得意分野を発揮して過ごしていた。

軍人だった猫塚は力仕事を手伝い、暇になると鳥などの小動物を撃って持ち帰ってきた。

商人である坂本は相談事を聞いて、解決できる商品があれば物々交換の交渉を始める。


 そしてサロルンは、寝転がりながら本を読もうとしていた。

いや文字を読めない彼女は正確に言えば眺めようとしていたというべきか。

それは先ほど坂本が置いていったものだった。


「はいこれ。根室を出航したら渡そうと思ってたんだけど、体調が良くなるまで暇になると思うから、先に渡しておくよ」


 坂本がそう言って差し出したとき、サロルンは文字が読めないと断った。だが坂本は受け取らず、こう言った。


「読めなくても眺めてるだけでも違うと思うよ。僕もそうだったから」


「昔、父さんから世界地図を貰ってね。英語で書かれてたから何が書かれているかさっぱりだったんだ。でも暇さえあれば地図を見ていたんだ。日本なんて東の隅のちっぽけな島国だ。いつかこの広い世界を自分の足で歩きたい。そう願いながら、ね」


「今の僕の原点はそこにあると思ってる。字が読めなくたって何かを得られる事だってあるよ」


 坂本の気持ちと共に本を受け取ったサロルンは、意を決して本を開く。


 中身はいろはを覚えるための簡単な本だった。

見開き一ページに右に一文字のカタカナが書かれており、左には対応する生き物や道具、植物などが書かれている。


「これは、犬だからこの文字はイか」


 犬。可愛らしく頼もしい人間の友ではあるが、それと同時に和人がアイヌをそしる際によく使われる動物だったためサロルンにとって複雑な意味を持っていた。だが、今のサロルンにとってそんなことは些細な事だ。文字というものを知る楽しさに夢中になっていたから。


「次のページ。この細長い白いものは何だろう? 不気味な魚だな。後で坂本に聞いてみよう。次のページ、これは植物の葉か、ならハか?」


 チセに帰ってきた坂本はそんなサロルンから怒涛の質問攻めにあう羽目になるのであった。

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