第60話(下):混沌
次回、第三章最終回。(分路)
「おらぁ!」
雄叫びと共にローランが剣を振り切るのを、私は兄と後ろへ退がりながら見ていた。
彼の数倍はあるキメラの巨躯が、押し返されてたたらを踏んだ。
「なんという……」
尋常ならざるパワーだ。
見ただけでも分かる鍛え上げられた肉体と滑らかな魔力制御によってローランはまさしく一騎当千の重戦車と化していた。
その手に持つ大剣も見事なものだった。重厚な刀身は盾のようですら有り、研がれた鋭利な刃は傾いてきた陽光を眩く反射する。柄には土属性に適した最上級の魔法触媒である大粒のインペリアルトパーズが嵌められている。
私たちが使っていた試合用の道具とは異なる、正真正銘の兵器であった。
「GRRRRR……」
キメラは距離を取ったまま様子を見ている。苛立ちで沸騰していた頭は、突進を真正面から止められたことで冷や水をかぶせられたようだ。
「森での借りを返してやろう」
対するローランは胸を張り悠然と構える。大剣の剣先で軽く地面を突き、その柄に両手を乗せ肘を開く。魔力を込められたトパーズが、後ろの私からも見えるほど強い輝きを放った。
戦闘中というよりは式典の最中のような、実戦的ではない儀礼的な構えだった。
「かかってこい」
あからさまな挑発に、獣は咆吼した。
走り、前脚を振りかぶる。
先の攻撃が勢い任せの体当たりなら、これはより明確な害意を持った斬撃だ。大剣で受け止めようとも、分厚い短剣じみた爪で刀身ごと貫く腹積もりだろう。
キメラが動くと当時、ローランはゆっくりと数歩下がりながら、地面に突き立てた剣を起こし、片手で柄を持ち、もう片方の手は刀身に添えた。やはり、キメラを受け止める気だ。
ローランが動いたことで攻撃のポイントがズレる。しかし、キメラの体からすれば微々たる差だ、一歩でアジャストされ、爪が大剣を襲う。
ローランは、不動だった。
「!?」
獅子の顔が驚きと困惑で歪む。
大地に根ざした大岩を打ったかのような、堅く壊しがたい感触があったことだろう。
同い年でありながら、人生の多くを武に費やした彼の練度は歴戦の戦士にも劣らない。『要塞』と謳われるローラン・シュバリエの本領だった。
驚嘆のためか、あるいは攻撃に全力をつぎ込んだためか、キメラの足が止まる。
それは、決定的な過ちだった。
「隆起せよ」
短い詠唱とともに、ローランが石のタイルを踏み鳴らす。
言葉のとおり、キメラの下、腹のあたりの地面──そこはローランが剣先を差していた場所だ──がたちまちに隆起した。
突出する岩は峰のように鋭く、無防備に晒したキメラの腹を突き破る。
「GA、G、GA……」
湿った呻き声と共にキメラが血を吐く。
腹を貫通した後も、地面は隆起を続け、キメラの身を上へと押し上げる。キメラは脱出しようともがくが四肢は空を切るばかりで、もがくほどに岩は深く刺さり傷を大きくしていく。
怒りで赤く燃える獅子の目が、ローランを睨んだ。己の血で濡れた口を開く。
炎を吐く。それは、脱出できずともせめて一矢を報いんとする魔獣の意地だった。
ワンドをなくしたロミニドが火炎を相殺しようと魔法陣描く。が、魔法陣は成立することなく途中で崩れ、霧散した。
「くっ」
彼と同時に描き出していた私の魔法が少し遅れて完成し、キメラの炎を相殺する。
「無理をしないで下さい!」
振り返ってロミニドを見ると、顔と首にはおびただしい汗が滲んでいて、強がっているものの表情にも憔悴が隠し切れていなかった。
魔力も体力も枯渇しかけている。
魔法大試合の連戦のあと、キメラを相手に魔法を連発したのだ、無理もない。
「敵から目を離すな、馬鹿者」
立っていることすら辛いような状態で、兄は変わらず檄を飛ばす。
自分の身を案じろと言い返したくなるが、彼の言うことも尤もだった。キメラの炎に備えて魔法を撃つ準備をする。
しかし、その魔法が放たれることはなかった。
追撃を撃とうとしていた獅子の頭、それが横から高速で飛来する何かに穿たれたのだ。
頭蓋をやすやすと貫通してタイルに穴を開けたそれは、水だった。
「よっしゃ!」
遥か遠方、階段状になった観客席の上方でノエルが手を挙げている。その横ではテオフィロが遠視の魔法を展開していた。獅子を穿ったのは彼らの狙撃だ。
彼の横にはエリザベットたちやメアリー、セレストの姿もある。彼女たちも無事だったらしい。
キメラは岩に突き刺さったままであり、四肢と獅子の頭は力を失ってだらりと垂れ下がっていた。絶命しているように見えるが、魔獣の再生力は侮れ──
突如、ずっと項垂れているだけだった山羊の頭が目を覚ます。
「耳を!!」
メアリーが叫んだ。
その意味を理解するよりも早く、山羊が吠える。
「BAAAAAAAAAAAA!!!」
怪音。
それはただの声ではなく、魔力を孕んだ攻撃だった。
「かっ」
脳を直接揺さぶるような衝撃に、立っていられず膝を付く。
ローランとロミニドも同様だった。
山羊が不快な鳴き声を上げている間は動けない、だが、それだけのはずだ。
勢圧力は高くとも殺傷能力はなく、キメラには深く刺さった岩から抜け出す手段もない。鳴き声を出すのにも限界があるはずだ。そのときに山羊の首を落とせばいい。
そう考えていた、が。
「なんだこれは?」
山羊が叫ぶ中、キメラが纏っていた黒い靄が濃度を増していた。それだけではなく、今まではキメラの周囲を漂っていただけだったのが、キメラを中心とした球の軌道で周回をはじめていた。
山羊の声が止む。
「カルバン!」
「分かっていますって!」
黒い球に炎を撃ち込む。次いで、ノエルの水流も球に撃ち込まれた。しかし、まるで手応えがない。
「斬り払います」
「得たいがしれん。止めておけ」
直接斬ろうとしたローランをロミニドが静止する。
球は岩に固定されたキメラを中心としており、広がる様子はなく、むしろ収縮しているようだった。
「退くぞ」
潮時だ。ローランに担がれる兄とともに舞台を降りる。
観客席の下の通路に差し掛かったとき、振り返った。舞台上、回転する靄で作られた黒い球は、半径を縮めるとともに密度を増し、空間に空いた穴のようになっていた。
そして、
「消えた……?」
中に居たはずのキメラと、突き刺さった細い岩山の中腹ごと黒球は姿を消した。
残された山の頂点がゆっくりと落ち、ガシャン、と音を立てて砕けた。