第56話:悪魔の囁き
夜更け、一人きりの自室。
窓から差す薄く弱々しい月明かりは、部屋の陰をかえってより濃くするようだった。
暗闇に身を浸らせるように、私はベッドへと身を投げ出す。
鍛錬の動きはおさらいした、魔道具の整備も終えた、前夜祭の段取も確認した。今日すべきことは全て終わらせた。
だから、早く寝て明日への英気を養うべきである。
「……」
なのに、そんなときに限ってとりとめもない考え事が頭に浮かぶ。あるいはこれを不安と言うのかもしれない。
『本当は、勝ちたいのではなく、救いたいのではありませんか?』
メアリーの言葉が頭の中で繰り返される。
ロミニド・アーサー。
王になるべくして生まれたのではないか、と思わせるほどの絶対的強者であり、誰よりも孤独な異母兄。
手の届かないほどの高みにいる男。
己に問いかける。ならば、届かないと知りながら手を伸ばしたのは、一体なんのため……?
「はは、メアリーの言うとおりです」
呟きは自嘲だった。
幼き日の想いなどとうに忘れていた。ロミニドと最初に会ったその日、深い失望と孤独の中にいた彼を一目見たときから、私は彼を救いたいと願っていたのだ。次期王の座を争うものとして、弟として、彼に並び立つことで貴方は孤独ではないと教えられる、そう思っていた。
それがいつからか、手段にかかずらって目的を見失っていた。
身を返して、仰向けになる。暗闇の中、天蓋に向けて手を伸ばした。開いた掌を握ってみる。その手の中には何もない。
「私は、間違っていたのか……?」
『いいえ、間違っていません』
自問に答える声があった。
誰の声か?
問うまでもない、私の声だ。ここには私しか居ないのだから。
『救いたかった? それは正しい。しかし、そんな単純ではありません』
黒い情動が胸の中に渦巻く。兄は独りで、しかし遥か高みにいた。手を伸ばしても届くことはなく、何度も、何度も挫折を味わった。
『比較された』
優秀な兄に比べて弟の方は、愛想は良いがそれだけだと、そんな噂が耳に入ってくる。
王宮の人間は、ロミニドの実母である前王妃派と私の母である現王妃派に別れていた。心ない噂もあるいは、正当な評価ではなく政治的な派閥争いの一巻に過ぎなかったのかもしれない。
それでも、風評に耐えかねた愚弟は兄の優秀さを素直に誇らしくは思えなくなっていた。
憧れは嫉妬に。同情は劣等感に。好きは、嫌いに。
段々と変わっていく。腐っていく。
兄が私に何かをしたわけではない。ただ私の内に生まれた一方的で理不尽な感情だ。
『いいや、応えなかったロミニドにも責はあります。何かをしたわけではない、と言うのならば何もしなかったことこそ彼の咎です。そうでしょう?』
理不尽だ。きっと間違っている。それでも、誤魔化しようがないほどに私は兄を恨んでいる。
兄に勝ちたい。それは正しい向上心でも、真っ当な競争心でも、ましてや優しさなどではない。
不満がある。不平がある。兄と私を比較する周囲に、そして私に報いない兄に。
兄に勝利したいという欲求は、畢竟この鬱屈した苛立ちの発散に過ぎないのかもしれない。
ああ、それでも、なんとしてでも、
「あの兄に、ロミニドに勝ちたい」
窓の外、月が雲に隠れる。
闇に侵されていく部屋の中、暗い影が嗤った気がした。
次回更新は明日の8時ごろです。(分路)