第51話(下):価値のわからぬ者たちよ
『貴方の思い出』が光り出した。
「おわ!?」
あわてて手を除けると、重たいハードカバーの表紙が独りでに開き、中のページが勝手にめくれていく。
数秒もかからずに本の動きは止まった。
最終的に開かれたページには1ページに上下で3枚ずつ、見開きで6枚の写真が貼り付けられていた。わたしの回想扱いだからか、ご丁寧に全部の写真がうっすらセピア色に仕上がってるわ。
一番左上、時系列的に最初になるであろう写真には、金髪の幼女が垣根の隙間に出来たトンネルをくぐり抜ける様が写っている。
「ロリザベート様! サラさんも見て下さい!」
胡乱な名前を叫んだのはメアリーだ。睨み付けると口を両手でふさぎ頭を下げる。
言い方はともかくとして、そこに写っているのは確かにわたしのようだった。
メアリーに呼ばれたサラも写真を覗き込む。
「これは精巧な……」
サラははじめて見るであろう写真に感嘆の声をあげる。それから、何かに気付いたようで写真のわたしを指さした。
「このお召し物はエリザベット様の物ではありませんね」
「大方使用人の子供の服でもくすねたんでしょ。変装のつもりかしらね」
口に出すと、なんとなくそんなことしたような気がしてくる。
神授遺宝が現像している以上、気がするじゃなくて本当にわたしがやったことなんでしょうが……。
まだ実感が持てないでいる間に、二人の興味は次の写真に移っていた。
「これは、商店街ですか?」
二枚目の写真は露店も出ている活気ある通りの入り口に立つ幼女の写真だ。わたしの背中を下から煽るアングルで撮っている。
「お屋敷の南西部に面した通りだと思います。ですが、この通りの建物は……」
「ええ、ここまで背が高くはないはずだわ」
煽り視点であることを加味しても、左右に並ぶ建物が高すぎるように見える。この通りの建物は良いように言えば歴史が有り、悪いように言えば古くさいもので、こんなに高くはないはずだ。
「それはたぶんエリザベット様の心象を反映しているんだと思います。幼いエリザベット様には周りの建物がそれだけ高く見えていたのでしょう」
「そう、だったかしらね……」
小さい頃は世界が大きく見えていたなんて陳腐でありふれた話だ。
ただ、小さなわたしの背中からは見知らぬ巨大なものへの恐怖はなく、純粋にわくわくしている希望が感じられることが、少し気になった。
昔のわたしはこんなに真っ直ぐな子供だったのね……。
次の写真はある露店の写真だった。売り物は豚肉を詰めたパイだろうか、髭を蓄えた恰幅の良いおやじがパイの並んだ机の後ろに立っている。
店の前に立つ幼女は何やら喚いているようだったが、パイ売りのおやじに半笑いであしらわれていた。
「お嬢様はなんとおっしゃっているのでしょうか?」
「パイが買いたいんですかね?」
サラの疑問にメアリーが月並みな答えを返す。パイの店前にいるんだから普通そうでしょう。
だけど、ちょっと違う。
「違うわ」
二人の視線がわたしに向く。サラは純粋に疑問の、メアリーは「思い出したのですか?」と言いたげな目をしていた。
「なにが違うのですか?」
メアリーが確認するように問うてくる。
ああ、そういえばこいつはエピソードとしてこのときのことをもう知ってるんだったわね……。それで『買いたい』なんて言い方したのか白々しい。
「『買う』んじゃなくて『貰おう』としたのよ。金なんて払わなくても言えば貰えるのがわたしの常識だったから」
当時のわたしは外での買い物なんて見たこともなく、屋敷に商人を呼んでの取引でもお金のやり取りは見たことがなかった。多分、わたしの見えないところで代金が支払われていたんだと思う。だからわたしは、流石に金銭の概念くらいは知っていたと思うのだけれど、お金を払わなければ品物が得られないってことを分かっていなかった。
「ま、そんな子供が相手にされるわけもないわよね」
ページをまたいだ次の写真も似たような場面だった。今度は果物売りのおばさんだ。
「こっちのお店の人は心配そうな顔をされていますね」
「明らかに世間知らずな子供が一人で歩いてたら心配にもなるわよね……」
ありがたい親切心だが、あいにくとこの時のわたしは勝手に家を抜け出している身だ。両親の居場所を聞かれても答えられず、逃げ出すように店の前から去った覚えがある。
露店を写した写真はこの二枚だけだったが、もう何店かでおなじようなことを繰り返したはずだ。
そして、
「これは……人の脚ですか?」
「巨人みたいですね」
5枚目は、通りの雑踏の中で立ち尽くす幼女の写真だった。写真は2枚目の町並みよりも一層歪んでいる。周囲の大人たちの脚が引き延ばされて、もはや林のようになっていた。
思い通りにいかないことが連続して心が折れたか、わたしも俯いて泣きそうになっている。
「最初の勢いがなくなって、怖くなっちゃったんでしょうね……」
「…………」
6枚目、見開きで最期の写真は壮年の女性にわたしが抱きかかえられている写真だった。
「少々お若いですが、家政婦長ですね」
雑踏の中で立ちすくんでいたわたしを最初に見つけたのは今の家政婦長だった。当時はまだ家政婦長ではなかったと思うけれど、屋敷の運営に携わるそれなりに偉い立場だったはずだ。
「管理職の彼女も捜索に駆り出されてるんだから屋敷の中は大慌てだったんでしょうね……」
今更ながら悪いことをしたわ。
「ともあれ、これで一件落着でしょうか」
サラの呟きに、わたしもメアリーも答えない。
幼いわたしは無事に保護され、脱走事件としては一件落着と言える。本当、小さな子供が付き添いもなしに一人でふらふら外出して、人さらいに遭っていてもおかしくなかったのに、何事もなく済んだのは幸運としか言い様がない。
けれども、
「違う。違うのよ、サラ」
わたしのトラウマとしてはこれでは足りない。
故に、わたしはページをめくる。
「…………」
開いたページに貼られた写真は一枚だけだった。
わたしが食べたいとせがんだのだろう、場所は先ほどのパイの露店だ。
家政婦長によってわたしが領主の娘と知ったおやじは、現金な物で、もみ手をしてわたしたちに媚びを売っている。
写真のわたしはパイをかじりながら、不機嫌そうにその様子を見つめている。
「お嬢様はパイを食べられたのですね。ですが、これが……?」
これがなんなのか、とサラはピンときていない様子だった。
まあ、そうでしょうね。
わたしも思い出していなかったら何故これがトラウマになってるのかなんてわからないわ。
その理由を説明しようとして、したくなくて、メアリーをちら見するが、彼女は口を一文字に結んでなにも話す気はないようだった。
自分で言え、とのことらしい。
「はぁ……。いい、サラ。わたしはね、さっきこのおやじに『パイをくれ』とお願いして、でも一笑にふされたのよ」
「ええ、ですが、それが?」
「それがね、このおやじ、わたしが領主の娘だと分かったとたんに態度変えて──」
写真のおやじはへりくだって笑いながら口を開いて何かを言っていた。静止画からは当然セリフの中身は分からないが、わたしはそのときの言葉を思い出していた。
「『領主様の娘さんならお代は結構です』ってパイをくれたのよ。無償でね」
それだけのことだった。
それだけのことが、当時のわたしには恐ろしい衝撃だった。
「“わたし”が何度言ってもくれなかった物を、“領主の娘”には喜んであげるってのがね、ショックだったのよ」
まだ、ちゃんと代金を払っていたのなら違ったのかもしれない。『ああ、お金って大事なんだな』とそんな教訓で済んだでしょう。
けれどそうじゃない。無償だったからこそ、違いが明白になった。
「わたしさ、自分のこと特別な存在だって思ってたのよね」
子供の自分が言うことを何回りも年上の大人がみんな聞くような環境で育ったのだ。自分は特別だと思い込んでしまうのも無理はないと思う。
その特別さを初めて疑ったのが、きっとこのときだったんだわ。
「だから、ショックだったの。だってそうでしょ? もし、今まで会ってきた大人たちがこのおやじと一緒なんだったら、彼らが見ていたのは“領主・公爵の娘”という肩書きだけで──」
言葉が途切れる。
情けない、唇が震えていた。
別に、当たり前のことなのだ。自分自身でも分かっていることだ。なのに、改めて自分の口で言うのがこんなに怖いなんて。
「エリサベット様……」
閉口したわたしの名前をメアリーが心配そうに呟く。
その姿を見て、踏ん切りが付いた。
それは勇気じゃなくて、ましてや友情なんかじゃなくて、こいつにだけは情けない姿は見せたくないという敵愾心だ。
背中を押された気持ちで、言う。
「わたし自身には何の価値もないことになるじゃない」
吐き捨てるように乱雑な口調で、負け惜しみのように惨めだった。
ああ、一度口に出してしまえばストンと胸に落ちる。
わたしは公爵令嬢という身分以外に自分の価値を感じられていない。
自覚は前からしていた。特に前世の記憶を思い出してからははっきりとわかっていた。ただ、思っていたよりも、深く、強く、その劣等感と怖れが自分の根底にあっただけだ。
自分の内側に沈み込みそうなわたしに、メアリーが淡々と声を掛ける。
「仕方ないことだと思います。誰だって子供のときは弱く、小さいものです。子供に価値があるとすれば、親の価値になるのは当然です」
「そんなのわたしだって今は分かってるわよ。……まあ、写真のわたしは分かってなかったんでしょうけど」
なにせまだ5歳のガキだった。
16歳になった今ならこうしてはっきり言葉に出来るし、受け入れることも出来るかもしれない。だけど、当時のわたしは何が嫌なのかも理解出来ないで、ただただ不安だった。
「家政婦長がおっしゃっていました。お嬢様は元から我が儘な性格でしたが、この事件を境に我が儘がよりひどくなったと。家政婦長は事件後に怖かっただろうと甘やかし過ぎたのが悪かったのではと後悔していましたが……」
「自分が無価値なんじゃって不安を、我が儘を聞かせて紛らわそうとしたんでしょ。馬鹿よねえ……」
屋敷で我が儘を聞いて貰ったとしても、結局それは主人の娘だから尊重されているに過ぎないのだから、自分自身の価値の証明にはならない。
だから、いくら我が儘を聞いて貰っても不安はなくならない。満たされない。
満たされないから余計に我が儘もエスカレートして、でも根本的にやってることが間違ってるから満たされなくて、またエスカレートして……絵に描いたような悪循環ね。
「その結果、貴族っていう自分が持ってる唯一の長所にすがりついて、中身は空っぽなどうしようもない女が出来上がりました、と」
溜め息ともせせら笑いとも付かない吐息を交えて呟く。
すると、メアリーが眉をキッと立てて指を突きつけてきた。
「そうやってご自分を卑下なさる癖が付いてしまっているのが問題なのです。普段は居丈高なのに」
一言余計よ。
「カルバン様の前で過剰に照れてしまうのも、その自己評価の低さが原因です。以前、エリザベット様はカルバン様への態度の理由を『恥ずかしい』からとおっしゃっていましたよね?」
恥ずかしいから上手くお喋り出来ない。じゃあ、何が恥ずかしいのか?
その答えが、これだ。
「話すことで、カルバン様に『わたしには価値がない』と知られてしまうのが恥ずかしい……」
メアリーは深く頷く。どうやら正解だったらしい。
「ええ、その通りです。ですから、問題を解決するにはエリザベット様の自己評価を高めれば良いのです!」
いや、そんなこと言われましても……。
彼女の言っていることは正しいのだろう。しかし、はいそうですかと自己肯定感を高められるなら苦労はない。
第一、
「だって、わたしに価値がないのは本当のことでしょ? 実際わたしは──」
口から溢れ出しそうな自虐の言葉は、メアリーに物理的に塞ぎ止められる。
机に大きく身を乗り出した彼女が、指先でわたしの唇に触れたのだ。
「ダメです。ダメですよ、エリザベット様。私は、私たちは身分以外にも貴女の良いところをたっくさん、知っています。だから、そんな悲しいことをおっしゃらないでください」
メアリーは真っ直ぐにわたしを見つめて、優しく柔らかに微笑む。
「んぐ……」
なんで相手を直視しながらそんなクサいセリフが吐けるのか、こっちが恥ずかしくなって来ちゃうじゃないの。
見つめ合いで先に根負けしたのはわたしだった。
「行儀が悪い!」
伸ばされた手を振り払ってそっぽを向いてやる。
メアリーの方はと言うと、「ごめんなさーい」と誠意の感じられない謝罪の言葉を言いながら席に戻っていった。
「だいたい、あんたに認められても嬉しくないっての」
「はい、そうおっしゃると思っていました!」
予想通り、というようなメアリーの言葉に引っかかって彼女の方に向き直る。
彼女は張った胸の前で腕を組んだ、やたらと自信満々な姿勢で。
「明日、いつものパーティールームに来て下さい。そこで本物のエリザベット様を思い知らせてあげますよ!」
「…………」
唖然。
あれだけ何かするなら報連相を、と言ったのにまた何か無断で企んでいるらしい。
というか、
「あんた、人を珍味か何かだと思ってないかしら?」