第42話:暗室の告白
目を覚ますと、真っ赤な壁があった。
「おわっ!」
「お早う御座います、エリザベット様。お目汚し失礼いたします」
壁がしゃべったわ。
じゃない、サラだ。彼女はクローゼットの中身をごっそり取り出して車輪付きのハンガーラックに移している最中だった。ラックに掛けられた服が深紅のドレスばっかりなものだから、寝ぼけ眼には赤い壁のように見えた、それだけのことだわ。
改めて見ても偏ったコレクションだけど、赤は好きだし、何よりゲームキャラクターとしては自分のテーマカラーはしっかりと主張していかないとね。
それにしても、
「突然どうしたのよ。夜逃げでもするの?」
「お戯れを。クリーニングに出すだけで御座います」
クリーニング。洗濯機の無いこの世界では洗濯も一仕事だ。ゆえに普段は学園が雇っているランドリーメイドにやってもらってるはずだけど、ドレスなどの繊細な服になるとそうもいかない。なので、ドレスの洗い専門の職人というものが存在する。
もちろん公爵令嬢で着道楽の節があるわたしもよくお世話になるけれど、それにしたってこんなに一度に大量に出さなくてもいいんじゃないかしら?
大口発注で割引とかあるのかしらと思っていると、服と服の隙間から見えるサラが、ぺこりと頭を下げた。
「お召し物を引き渡した後、王都でいくつか所用を済ませたく思います。つきましては、本日の午後はお休みを頂きたく」
「いいわよ、別に。一日くらい自分の面倒は自分で見られるわ。日曜日だしね、貴女もたまには羽を伸ばしていらっしゃい」
労基なんて殊勝なものはないこの世界、なかなか休みもないのだから、休めるときに休んでほしい。
それに、サラがいないのは丁度いいかもしれない。
先日カルバン様とお話した後、茂みから様子を見ていたメアリーにゆっくり話がしたいと時間を取らされていた。
それが、今日の夕方なのだ。
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薄暗い寝室。
ティーポッドとカップを二つ置いただけでいっぱいになる小さな机を挟んでわたしとメアリーは対座している。
女子会というよりは密談といった雰囲気のシチュエーションはメアリーの希望を叶えた物で、曰く、
『物理的に距離が近いと心理的な距離も縮まると言います』
だそうだ。
わたしがお近づきになりたいのはカルバン様だけなんですけど。
カッコッと時計の音だけが響く。
話があると提案してきた彼女はそわそわするだけでなかなか話を切り出さない。ベッドの天蓋や燭台、クローゼットと部屋をキョロキョロと見渡している。
あ、そういえば、こいつ前世は男なのよね。
まあ今は暗黒イケメンのロミニド狙いらしいからいいとは思うけど、元男と寝室で二人な状況はちょっとまいるわ。
気を紛らわそうと紅茶を一口飲んでみる。うん、薄くて苦い。
出かけているサラに代わってわたしが自分の手で淹れた紅茶は、香りは弱いくせに苦みだけが濃く出ていた。
「やっぱり、サラのようには淹れられないわね」
「サラさんが王都では仕方ありませんね。次は私が淹れましょうか?」
うん? なんだろう、メアリーの言葉になんとなく気持ち悪さを感じた。
「……わたしなんかより上手く淹れられる自信があると?」
だからというわけではないが、揚げ足をとってやった。
ま、自活能力で言ったら実際わたしより平民の彼女の方があるんでしょうけどね。
「いえいえ、そんなつもりでは」と軽く否定した彼女は、紅茶に口を付ける。やっぱり苦かったのか、かわいらしい童顔がわずかに歪んだ。
そして、ようやく彼女はしゃべり出した。
「これから、本格的にカルバン様の攻略がはじまります。それにあたって、現状の確認とエリザベット様にお聞きしたいことがあるのです」
確認と質問。後者がなんなのかは分からないけれども、前者はまぁ妥当なことだ。
セレストやミリアのときも、まずは足下を見つめ直すところから入ったものね。
「私たちは、前世の記憶を思い出した転生者です」
「そこから!?」
メアリーは春先から秋の今日までのことを、前世のことやゲーム『Magie d’amour』のこと、そしてそれにそっくりなこの世界のことも交え、丁寧に語っていった。
「──と、ここまでで何か訂正点はありましたか?」
「ないけど……。ねえ、これ必要だった?」
「はい、必要です。──話は変わりますが、エリザベット様は今日一日どのように過されましたか?」
だしぬけにメアリーは問うてきた。
ますます分からない。わたしの休日の過ごし方とカルバン様の攻略に何の関係があると言うのかしら。
「どうって……。普通に朝起きて、ああ、昼食はあんたに誘われて食堂で食べたわね。その後はずっと部屋にいたけど」
「つまり、何もしていなかった、と」
「はぁ?」
ムッとして、何もしていなかったわけではないと言い返そうとして──止めた。
壁一枚隔てた向こうの部屋、勉強机の上には数行の箇条書きが全て斜線で打ち消された一枚の紙が広がっている。ついでにその横には同じような紙がくしゃくしゃに丸められて放置されている。
カルバン様へのアプローチを自分なりに考えた、その残骸だ。
アレをこの女に見せるのは、わたしの沽券に関わる。
だから、話を逸らすことにした。
「で、結局何が言いたいわけ?」
「すみません。最初に申し上げましたが、お聞きしたいことがありまして、そのために確認をしておりました」
「まどろっこしいわね。質問があるなら早く言いなさいよ」
「そうですね……質問は幾つかあるのですが、一番はこれです。エリザベット様も転生者だと知って、数ヶ月。ずっと疑問だったのです」
へらへらと笑みを浮かべていたメアリーが表情を引き締めた。
彼女は問う。
「何故、エリザベット様はカルバン様にアプローチしないのか、と」
「何故……?」
思わず、オウム返ししてしまった。
なんでそんなにわかりきったことを聞くのか。
「何故って、それはあんただってこの前見たでしょ? カルバン様の前では頭が真っ白になって上手く話せないのよ。それでどうやってアプローチしろって言うの」
「そもそも何故上手く話せないのかというところも掘り下げたいのですが、一旦脇に置きましょう。ええ、おっしゃる通りです。ですが、実際問題として話せなくても、話そうとすることは出来たはずです」
メアリーの口調に責めるような色はない、ただ純粋に疑問に思ったから聞いているだけ、というのがわたしにも分かった。
だというのに、彼女の華奢な体から感じる圧で押しつぶされるような息苦しさを感じてしまっている。
「それはあんたが強いから、主人公だから言えることよ。そう、わたしは悪役令嬢よ? 悪役のわたしが攻略対象のカルバン様に言い寄っても上手く行くはずないじゃない。失敗が分かってるチャレンジを挑めるほどわたしは強くは──」
「いいえ、違います」
早口な言い訳をメアリーが遮る。
「私たちは知っているはずです。セレスト様はキメラを退治しました。ミリア様がノエル様の心を開きました。──主人公と悪役が敵対せずに協力出来ています。ゲーム通り進もうとする『補正』の存在はありますが、ゲームにないことをすればゲームにない結果が出るとエリザベット様もご存じのはずです。ですから、失敗するかどうかは試してみるまで分かりません」
「それは……ほら、攻略には順番を決めていたでしょ?」
「順番はあくまで協力の話です。私もミリア様も自分の番が来る前から自分だけで出来ることはしていました」
淡々と逃げ道が潰されていく。
逃げ道?
「何故なにもなさらないのですか?」
ああ、わたしは今逃げ出したいって思ってるんだ。
ここは自分の部屋なのに、どこへ逃げようというのか。
獲物を追い込む猟師のように、糾弾者は更なる問いを放つ。
「エリザベット様は本当に──カルバン様のことが好きなのですか?」
ダンッ!
机を殴りつけるように手を突き、衝動的に立ち上がっていた。
「ひゃっ、エリザベット様、お手が」
揺れるカップからあふれた熱い紅茶が握った拳にかかっていた、だが気にならない。
眼下、身をすくめながらも目だけはしっかりと正面から合わせてくるメアリーを睨みつける。
「平民風情が、自分の言ったことを分かってる?」
それは、それだけは言ってはならない。
看過することは出来ない。
魔法も知力も筋力も人脈も、全部ダメダメな家柄以外何の取り柄もない女にだって譲れない物がある。
「わたしはカルバン様が好きよ。他の何よりも、大好き」
この恋心は誰にも否定させない。主人公様にだって、世界にだって、前世の自分自身にすら侵せない、わたしの聖域だ。
「それは……。よかったぁ」
メアリーの表情から、いや全身から力が抜けていくのが見て取れた。
「へ?」
わたしも毒牙を抜かれて、席に戻る。先ほどまでの激昂はどこへやら、怒りのピークが6秒しか持たないというのは本当かもしれないわ。
「エリザベット様の“好き”を確かめること。それがこの場の最重要課題でした。マジダムの初期設定に従って、惰性で好きなだけなんじゃないかというのが一番の懸念でしたので」
「ほう、まだ睨まれ足りないらしいわね」
「すみません、でもちゃんと根拠だってあるんですよ? だから必要な確認だったのです」
悪びれるそぶりもなくメアリーは言う。
はぁ、とため息を吐いて、まずい紅茶でのどを潤し、あごを向けて根拠とやらを促した。
「問いの内容を覚えていますか? 何故アプローチをかけないのか」
「だからそれは、上手く話せないからで……」
「ええ、実のところ、わたしも最初はそういうものかなと思っていました。でも、セレスト様たちのお話を聞いていて『あれ?』と思ったのです」
はて、何かおかしいところなどあっただろうか。
「セレスト様たち四人が全員エリザベット様のカルバン様とお話しするときの様子をご存知でした。他の方にもそれとなく聞いてみたところ伯爵以上の家格の方、つまりお二人と交流する機会のあった方は全員、知っていました」
「それが?」
「はい。このことはお二人を目にする機会が一度や二度ではなかったことを意味します。『お茶会や交流会のたびにエリザベット様はカルバン様に突撃しに行って撃沈していた』という証言も得ています」
「誰よそんなこと言った奴」
「秘密です」
不躾な情報提供者の正体は気になるが、ともかく、ここまであけすけに言われれば何が言いたいのか嫌でも分かる。
「エリザベット様は学園に入るまで、いいえ、きっと記憶を思い出すまではカルバン様に積極的だったんです。それが、何故か今は消極的になってしまわれている」
「……」
図星だった。
自分では気にしたこともなかったけれども、思い返せば彼女の指摘する通りだった。
前世の記憶を、この世界の攻略情報を知ってアドバンテージを得たはずなのに、かえってわたしは足を止めてしまっている。
「でも、それは自分が悪役で、脈がないって分かったからで……」
「それが諦める理由にならないのはもう既に言いました。それに、毎回玉砕していたのなら記憶を思い出すまでもなく、脈がないと分かっていたのではありませんか?」
「ごもっともです……」
だったら、どうしてわたしは消極的になってしまったのだろう。
カルバン様への熱は冷めていないのに、諦めないと決めたのに。
分からない。
考えても考えても、分からなかった。
いや、少し見栄を張ったわ。
本当のところ、考えることを、わたしは心のどこかで厭うている……のだと思う。その答えが、わたしの見たくないものだと知っているから。
カップを手に取る。
口をつけるが陶器に触れた唇にほのかな温かさが伝わるだけで、香りも苦みもない。空だ。
空のカップを、それでも、しばらく呷った。
わたしがティーカップを机に戻すのを待って、彼女は柏手を一つ打った。
「はい! それでですね」
場違いなほど明るい笑顔だった。通販番組で健康グッズを売りつけるお姉さんのようなノリ。意味不明でちょっと怖い。なんだこいつ。
「この件につきましては、記憶を思い出す前のエリザベット様をほぼ知らない私ではお力になれそうもありません。しかし、前世のフラッシュバック前提の話をおいそれと広めるわけにはいきません」
メアリーはわたしに背を向けた。
その視線の先にはクローゼットがある。今朝、サラが中身をごっそり取り出したクローゼットが。
唐突に、点と点が線で繋がる感覚──、
『サラさんが王都では仕方ありませんね』
ああ、今更、今更だわ。今更になって、メアリーの発言の何が気持ち悪かったのか分かった。
簡単なことよ。わたしは『サラが王都に出かけている』と一言もこいつに言っていない……!
「あんた、まさか!」
「はい! エリザベット様のことを学園に来る前からよく知っていて、エリザベット様と一蓮托生の、信頼できる御方」
キイと音を立てて両開きの扉が内側から開く。
奥行きもある大きなクローゼット、その中身を抜けば人が一人潜むくらいわけはない。
薄暗い寝室よりも更に暗い箱の中、まず、白いエプロンが浮かび上がった。次いで、隠れていた後ろめたさからか俯ぎがちに目を伏せた顔が。そして、影からにじみ出るように黒いロングスカートが全身のシルエットと共に露わになった。
クローゼットから出ても無言のままの侍女に代わって、共犯者のメアリーがその名を呼び上げる。
「サラ・メイドルさんに、全てを聞いてもらいました」