01-14-01 燕九 昭王・郭隗
燕。姫姓であり、召公奭がはじめに封じられた地である。
三十代ほどのちに「文公」が現れ、蘇秦の論説をもとに秦以外の六国と同盟を結んだ。
文公が死に、「易王」姫噲が立つ。ただし十年ほどしたら宰相の子之に国政を譲り、自らは臣下であるかのように振る舞った。これにより国政が乱れ、その乱れに乗じて斉が侵攻。子之、易王、ともに殺害された。
そこで燕では太子の姫平を立てた。「昭王」である。昭王は戦死者を弔い、生存者を見舞い、平身低頭にて国事にあたろうとした。そこで「郭隗」に、どのように事をなせば良いかを問う。その答えは、以下の通りである。
「つまらぬものですら重用したともなれば、では賢人にはどれほどの寵愛がもたらされるのだろうか、と思われましょう。なのでまずは、この私めを重用してみなさいませ」
このアドバイスに従ったところ、燕には次々に賢人が押し寄せてきた。その中には、かの「楽毅」が含まれていたわけである。
蒙求:
燕昭築臺 鄭莊置驛
燕の昭王が人材を集めたいと心するに当たって郭隗より「私を厚遇すれば人材が集まってきましょう」と言われたので土台を盛り、その上に邸宅を築いた。その結果人材がわんさと集まってきたという。
前漢の人、鄭当は恵帝に仕えるに当たり、各地からやって来る訪問客を遅滞なく取り次げるよう、長安周辺に駅舎を建てて、その接待に偏りがないよう努め、それでもなお不公平がないか、よりよき情報の報告に後れがないかを恐れたという。
人材獲得のための妙案を示すふたりだけど、一休さんのとんちと地道で誠実なお仕事とで、だいぶ性質は違っている印象。




