01-10-05 趙九 粛侯・武霊王
襄子は兄の孫、「献子」趙浣を後継者とした。その子が「烈侯」趙籍で、周の威烈王より正式な諸侯認定を受ける。つまり、ここからが戦国趙である。
以降「武侯」「敬侯」「成侯」を経て「肅侯」に至ったとき、秦がぐいぐいと迫ってきた。このとき趙にやって来たのが「蘇秦」である。「秦の恵王」に天下の戦略を論じたが用いられなかったため、「燕の文侯」のもとに出向いて趙への協力を取り付け、やって来たのだ。蘇秦は言う。
「鶏のくちばしであるほうが、牛の尻であるよりもマシというものでしょう。いま諸侯の兵力をあわせれば、秦に十倍します。ここはいちど六国が力を合わせ、秦を撃退すべきです」
その弁舌は確かなもので、肅侯もまた蘇秦に乗り、また遊説のための費用を負担。六国もみなひとたびはこの話に乗り、立役者となった蘇秦にも武安という地の封爵が与えられた。
ただし、それを黙って見過ごす秦でもない。「犀首」を遣わせて趙を欺き、同盟の破棄したくなるようそそのかす。結果趙は斉および魏からの攻撃を受け、同盟は解除された。蘇秦は趙より逃げ出した。
肅侯の子が「武霊王」だ。いわゆる胡服騎射を採用、「中山国」を滅ぼす。のちに秦を攻撃したが、こちらは失敗した。その後武霊王は「恵文王」に譲位した。史記によると自由の身となった武霊王は各国を偵察して回ったとある。




