06-04-08 宋二 真宗趙恒 2
1004 年、遼の主がその母の蕭氏とともに大挙して侵入し、内外は震え驚いた。
参政の陳堯叟は蜀の人であったため、真宗に蜀へ出向くべきと申し出た。王欽若は江南の人であり、真宗に江南へ出向くべきと申し出た。この申し出をどうしたものか、と真宗が宰相の寇準に問うと、寇準が尋ねる。
「斯様なことを、どこの誰が言い出したのですか」
「卿はただその可否のみを測るべし。問うてはならぬ」
「臣はこの策を献じた者を斬って太鼓にその血を浴びせ、その後に北伐を行う以外ないと考えます」
その後、親征の議が決まった。真宗は韋城に駐留し、やがて衛南に至った。遼は兵を率いて澶州に至り、三面から包囲した。李継隆らが迎撃に出、遼将の撻覽を弩にて射殺し、大いに破り、やや交代させたが、それ以上動こうとはしなかった。寇準は真宗に黄河を渡るよう強く勧め、殿前将の高瓊もまた強く賛成したが、真宗はなおもためらっていた。高瓊は衛士に輦を進めさせ、言う。
「陛下がもし黄河を渡らなければ、百姓は父母を失ったかのように嘆くでしょう」
梁適がその僭越を叱ると、高瓊は怒り、言う。
「あなた様方はこの時になお人の無礼を責めるのか。なぜ鼓舞の詩のひとつでも賦して虜を退けないのか」
そしてついに真宗を擁して河を渡らせた。真宗は澶州に至ると、北城に登り、黄の旗幟を張った。諸軍は皆「万歳」と叫び、その声は数十里にまで聞こえた。遼軍は気を失うほどに意気を挫かれた。