↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
02-03 太祖高帝 劉邦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
143/600

02-03-17 漢一 蕭何・曹参 上

 三傑最後の一人、蕭何《しょうか》についてだ。曹参《そうしん》についてもあわせて紹介する。


 劉邦《りゅうほう》とは同郷であり、陳勝《ちんしょう》呉広《ごこう》の乱の際、劉邦が決起したときには既に蕭何、そして曹參も既に戦列に加わっている。秦《しん》末の混乱に乗じ勢力を広める劉邦がついに咸陽《かんよう》を陥落させるも、鴻門《こうもん》の会によって項羽の風下につき、漢中《かんちゅう》に実質左遷させられた。この処遇に劉邦は怒り項羽討伐に出ようとしたが、蕭何が諫めて言う。

「どうかこの地の王として、この地の民を完全に押さえた上で打って出られませ。さすれば三秦も手中に入り、天下がその手元に収まって参りましょう」

 そこで劉邦は漢中巴蜀(はしょく)の経営に乗り出し、また蕭何を丞相とした。


 漢中王に任じられた劉邦、漢中に向かう。この頃蕭何は韓信《かんしん》と出会い、その才能を並外れたものだと感じ、劉邦に推挙した。韓信の大将軍着任までのいきさつは既に見た通りだ。

 劉邦の再決起にあたり、蕭何には漢中にて巴蜀の糧秣を集積、軍資として配備させる任務が与えられた。

 劉邦は諸侯を糾合、総勢五十六万で彭城《ほうじょう》を占拠したが、間もなく項羽の逆撃を受け壊滅。滎陽《けいよう》にまで落ち延びた劉邦のもとに、蕭何は関中《かんちゅう》の老人や子どもを徴収して送り込み、その勢力を再び盛んなものとした。


 なお蕭何は他にも漢の先祖代々の霊廟を立て、県邑制度を施行するなどの政令を敷き、更に戸籍管理などにより租税を徴収、集めた軍資を常に前線に送り続けた。このため漢軍が軍資に困ることはなかった。



蒙求《もうぎゅう》:

蕭何定律《しょうかていりつ》 叔孫制禮《しゅくそんせいれい》

 劉邦のもとでルールを定めたふたり。蕭何が法律を、叔孫通《しゅくそんつう》が儀礼を制定した、と言うわけだ。つまりこのふたりが漢の屋台骨をつくったとも言える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。