第9話
九十九が立ち止まったのは工業地帯から北へ入った特殊な地域である“貴族地域”と呼ばれる場所。平民からは美意識の欠落した者が集っていると揶揄されている。
確かに言われるだけの建物がいくつか見える。
トグロを巻いた蛇の形をした屋敷。鎌首を持ち上げた頭部にも部屋があるのか、目が窓になり、今の時間は爛々と光らせている。口から垂れる舌は紋章をあしらった旗だ。う○こ屋敷などと言ったら怒るだろうか。子供達に聞く場合はそう言った方が一発で伝わる気がする。
その近くには色彩豊かな屋敷がある。造りは近隣の屋敷と大差は無いが使われている色彩が多種多様なのだ。グラデーションでもしていればまだ解るが、ペンキ缶を投げて色付けしたと言われれば誰もが納得する。精神鑑定を行えば必ず何かが引っかかる。一目見ただけで悪夢にうなされそうな屋敷なのだ。
いずれも趣味が悪いと言うよりも、悪いのは趣味だけなのか? と疑う屋敷だった。近隣の方々も大変そうである。
どうしても気になり、視線が釘付けになってしまう九十九だったが、すぐに我に返ると胸に引っかかる感覚に従って貴族地域を練り歩いた。
そして、とある屋敷の正面で立ち止まった。屋敷を一回りし、確実に目の前の屋敷に居る事は確認済みである。
確証も無しに踏み込んで実は隣の屋敷でしたとなれば笑えるかもしれないが、洒落では済まされないだろう。
門の横には騎士か私兵か解らないが、槍を手に持った兵士が二人立っている。
「さて、どうしようか……」
九十九は門が見える角に身体を滑らせて覗き見ていた。
今の状況とこれからする事を思い巡らせる。
夕暮れ時もそろそろ終わり、日が沈む。元々貴族地域は人通りが少なく、九十九のような身なりであればすぐに不審に思うだろう。そもそも屋敷の周りを一周するために一度彼等の前に姿を見せている。二度目は確実に職務質問されるだろう。
連れ去られてから今まで、何度もレミュクリュへ念話を試していた。が、まったく通じない。そもそも念じるだけで通じるのかどうかも疑わしい。もう少し詳しく聞けばよかったと今更ながら思う。
忍び込むという方法もある。だが、連れ去られた者を救うために九十九が忍者よろしくこそこそとする必要があるのだろうか。
考えているうちにだんだんと腹が立ってきた。
そこで行きついた結論は、
「ま、何とかなるだろ」
短絡的である。
角から姿を現し、兵士が守る門の前で立ち止まった。
明らかに不審なのだが、見た目が少年という事で戸惑っているようだった。
「取次ぎをしてもらいたいのですが」
「小僧。ここは貴族の屋敷だ。平民が来て良い場所でもない。家へ帰れ」
「ここに相棒が来ていまして、引き取りにきたんですよ」
「……確認をする。少し待ってろ」
兵士の一人が門の中へ入り、しばらく待っているとクリーニングから返って来たばかりと思うほど皺の無い執事服を着こなした老人を伴って戻ってきた。
年月を思わせるほど綺麗に色が落ちた白髪で清潔感溢れるオールバック。顔に刻むのは終始穏やかな表情を浮かべるためだけに刻まれた皺。背丈は以外に高く、背筋を伸ばした姿は絵に描いたような執事。眼鏡も視力を補うと言うよりも穏やかな雰囲気を演出のために付けているように見える。だが、瞳だけは老人とは言い難い力強さがあった。
「当家の執事をしております。カルウェと申します」
「傭兵になったばかりの九十九です」
「ツクモ様……」
九十九の言葉にわずかに表情に変化があった……ように思えたのだが、気のせいだろうか。
「現在、当家には来客は無く、ツクモ様の御友人は居りません。さらに当主様は御食事中でございます。日を改め、然るべき手続きをお願い致します。お引き取りを」
深々と頭を下げて帰るように促す。兵士達も用件は済んだとばかりに九十九を下がらせようとするが、それで「ですよねー」と答えて帰るはずは当然無い。
「正確に言った方が伝わるのかな? 誘拐された相棒がこの屋敷に居るので返してもらえませんか?」
ゆっくり、はっきり、丁寧に言葉にする。
「貴様っ! 子供だと思って優しくしてれば付け上がりやがってっ!」
兵士が肩を掴み、押し返そうとするが、九十九は動かなかった。動けないのでは無く、動かせなかった。
「カルウェの爺さんは知ってるんだろ? 返さないなら、勝手に取り返すだけだ」
正直、九十九は冷静さを失っていると言って良いだろう。少し強引過ぎる。
耐え難い怒りは伝わっているはずだ。だが、表情に出たのは大胆不敵な笑み。冷たい底知れぬ笑み。
兵士達が怯んだ。怒りを顕にするのであれば、売り言葉に買い言葉で怒鳴り返す事が出来る。逆に冷静になって諭すように対応する事も出来るだろう。だが、強い意思を感じさせながら笑みを向けられたのは初めてだった。
そのために次の行動に出られないのだ。
「怪我したくないなら、どけ……」
にっこりと九十九が微笑む。が、それで引っ込むようならば兵士として雇われる事は無いだろう。
迷っていた気持ちを振り払い、振り絞るように気合の入った掛け声と共に槍を振り払う。
胴を薙ぐ槍はさすがに刃の部分は使わなかった。柄の部分を使って吹き飛ばそうとでもしたようだ。
だが、九十九は片手で受け止めて押さえ、槍を振るった兵士を逆に門扉に叩き付けた。
もう一人の兵士が門扉に叩き付けられて失神している相棒の仇とばかりに槍を突き出した。距離は若干近過ぎると思うが、こちらは遠慮なく刃を九十九へ向けている。喉を狙った突きは鋭く躱すと横薙ぎへと変化させられて怪我をする可能性が高い。かといって槍の間合いから離れれば近づく事も困難になるだろう。特に今の九十九は鋼棍を持っていないのだ。
つまり、躱すだけでは危険で、間合いを取るのも時間と労力の無駄になる。だから躱しつつ、間合いを詰める。
一歩踏み出すと同時に首を傾げて穂先を躱し。
二歩踏み込んで振り払う威力を殺す。
三歩目の踏み込みで軸足を回転させて遠心力が追加された右の回し蹴りを兵士の首へ。
鎧と兜をしっかりと装備していた兵士の首が折れたりはしないだろう。蹴り足と鎧の鈍い衝撃音の後に地面に転がされる。
兵士は蹴りの衝撃を受けた時点で意識を失ったのだろう。地面に転がされてからはぴくりとも動かなかった。
カルウェが兵士二人を見下ろす。冷たい視線は使えない兵士への侮蔑もある。
「暴行罪、屋敷に入ると不法侵入罪、さらに当家は国政に関わる役職に就いているので国家反逆罪も加わります。このまま帰るのであれば不問にして差し上げますが……」
九十九は肩を竦めるだけに留めた。帰る気は無い。その意思をおどけて見せる。
「そうですか……」
カルウェは上着を脱ぐと腕まくりをし、ポケットから出した指無しのグローブを付ける。グローブは鉄や硬い皮を付け加え、殴り倒す事に特化させた武器だ。眼鏡を外しながら呟くように、
「私も昔は傭兵をしていたのですよ。余り調子に乗るのは感心しま……」
途中で言葉を失ったのは眼鏡を外して視線を九十九に向けたが、姿を見失ったからだ。
逃げたとも思えなかったので、姿を探そうとして……動けなかった。
「何十年前の話なのか知らないけど、敵意を向けてる相手から視線を外す時点で腕は鈍ってるだろ。戦いの心構えを失ったその体たらくで俺とやり合うつもりなのか?」
声の出所は背後だった。それも首筋に剣を当て。剣は兵士が腰に下げていたものから拝借したのだろう。だが、抜く姿も脇を通った気配も感じられなかった。
「俺の罪状を教えてくれてありがとう。だが、その前に国政に従事している御偉いさんが人の相棒を誘拐するってのは何罪になるんだ?」
「そのような証拠など……」
「無駄だって。俺と白竜は繋がりがあるんだ。どんなに遠ざけても繋がりを消さない限りどこに居るか解るんだよ」
「魔獣使いにそのような能力は無いとお聞きした事があるのですが?」
「あんたが魔獣使いなら、俺の言った事が嘘か本当か解ると思うけどな」
互いに言葉による攻撃。九十九が論破出来なければ強硬手段しか手立てがなくなる。相手の誘拐という弱みも平民と貴族が対立すればどちらに有利かは誰が見ても解るだろう。だからこそ今は退けない。
「…………」
「…………」
沈黙はそれぞれ次の言葉を切るタイミングを見るため。
だが、カルウェが大きなため息をこぼした。
魔獣使いが稀な職業であり、謎が多い部分がある。だからこそ魔獣使いは誰でも繋がりを持っているとハッタリをかましたのだ。真相を知らない側からすると、それが魔獣使いの特性だと勘違いするだろう。
だが、事態が時間稼ぎのためだとすると、さすがに悠長に舌戦を繰り広げている場合では無い。
「意地でも知らないと言い切るなら、屋敷を探した後に騎士なりに引き渡せ。その代わり、相棒が居たら何も保障してやれないからな」
何に対する保障なのか明確な答えは言わない。九十九の言葉から推測させる事で真実味と現実味を帯びさせるのだ。その方が大きく勘違いさせられる。そうなれば相手を制し易くなるのだ。
軽く見積もる場合も可能性としてはあるだろうが、目の前で兵士二人を失神させ、首元に刃を当てている相手を軽く見積もる事はまず無いだろう。
よほどの自信家で楽観主義者か、馬鹿でない限り。
「解りました。御案内致します」
「よろしく〜」
舌戦を制した九十九は剣を投げ捨て中へ入る。
すでに夕暮れ時は過ぎ去り、辺りは暗い。だが、照明がまばらにあるので何も見えないわけでは無かった。
「御当主様はカイザード・モルグ・アルザハッド男爵様でございます。少しでも無礼な振る舞いをされれば……」
「うるせぇ、誘拐犯。黙って案内しろ」
「……こちらです」
何とか退かせようと考えたのだろうが、九十九の神経を逆撫でするだけだ。
カルウェの案内されるままに着いて行く。
「失礼致します。御客様をお連れ致しました」
屋敷に入って真っ直ぐ案内されたのは食堂だった。九十九は本当に食事中だったのかと呟き、部屋を見渡して驚くというよりも呆れるように鼻を鳴らした。
漫画や映画に出てくる食事風景そのものだったのだ。百人は座れそうな長いテーブルの端に一人だけ座って目の前の料理を食べている。卵の黄身だけを食べて残りを下げさせている姿は誰が見ても貴族と言うだろう。
その姿、その仕草を見た九十九は思わずトレンチコートを着ていたら、国際警察を名乗って有名盗賊を追いかけようとしたくなるだろう。
頭の中で残念だと呟きながら、食事中の貴族へ──アルザハッドに近づいて行く。
「食事中に訪問とはよほど急いでいるのか。それとも礼儀知らずなのか」
汚れていない口を白い布で拭いてテーブルに置く。手を振って下げろと合図すると背後に控えていたメイドがさっと片付ける。
そして、やっと九十九へ視線を向けた。
整った顔だと思った。ウェーブのかかった金髪に澄んだ碧眼。色白だが病的では無く、服の上からもある程度身体を鍛えているのが見て取れた。それが実戦的なものなのか健康のための結果なのかは解らないが。全体的な評価をするならば格好の良い男だろう。
「どちらかと言えば、礼儀知らずかな〜」
目の前に居るアルハザッドがレミュクリュの誘拐を指示したのだろう。盗んだ男は結局誰なのか解らないが、確信を持って目の前の男だと感が告げる。優男に見えるが、腹黒い人物だろう。
「そのようだ。……それで何か当家に用でも? 私の食事を邪魔するほどの用件なのであろうな」
柔和な笑みを浮かべたつもりなのだろうが、九十九から見ると怪しいとしか思えない。澄んだ瞳だと思っていたが、徐々にどす黒く淀んでいくように感じるのだ。
それは言葉にも表れている。九十九の返答に嘲笑でも感じ取ったのかもしれない。
言外にそれだけの理由が無ければ処罰すると脅しているのだ。
「知っていると思うが、俺の名は九十九、昼間に馬鹿を雇った馬鹿がうちの相棒を誘拐してね。困ったものだけど、大事な相棒なんで引き取りに来たんだよ」
九十九もまた明らかに年上のアルハザッドを相手に引こうとは思わなかった。権力も人脈も上で政治力にも秀でているだろう。それでも引けないと思う時がある。非が相手にあると言うのもそうだが、目の前に居る男が一目見た時から気に食わないのだ。
「ほぉ、どこの馬鹿か知らんが平民の生活は大変なものだな」
「そうなんだよ。んで、その馬鹿がここに相棒を運んだみたいなんで引き取りに来たんだよ」
「証拠も無い話で私を犯人呼ばわり……さらに侮辱を重ねるのは自殺でもしに来たのかね?」
静かな怒り。ただ、すぐに激怒しないのは心が広いのか、やましい心があるのか。
まぁ後者だろう。
「つまり、証拠があれば良いわけだな」
「あるのであればな」
ばれてないと思っているのだろう。紅茶を飲んで一息付いている。
九十九は目を閉じ、しばらくすると隣の部屋への扉へと近づいて行く。
それをメイド、執事達が押し留める。それが隣室へ行って欲しく無いのか、ただ主の命令も無く動いて欲しく無いのか解らない。ただ、顔を赤らめ、本気で嫌がっているのを見れば何かを隠していますと言っているようなものだった。
肩を押さえ、羽交い絞めにする執事に両腕を胸の谷間で挟むように押さえ込むメイド達。ちょっとだけ嬉しかったのは内緒だ。
三人の大人に押さえられながらも引き摺り、九十九はずんずんと隣室の扉に近づいていく。今の九十九を相手に普通の大人三人では力不足なのだ。
その様子をみていた貴族が諦めたようにため息を吐き出す。
「もう良い。連れてまいれ」
その言葉に一斉に離れると一人のメイドが隣室へ入り、台車に載せた大きな檻を押して現れた。
石で出来ているのか見慣れない材質の檻の中にレミュクリュが欠伸をしながら丸くなっている。
「良い御身分だな」
『囚ワレタ姫ノヨウニ泣イテオレバ良カッタト? どれすヲ買ッテクレ。一度クライナラヤッテモ良イ……』
ぷいっとそっぽ向く。少し機嫌が悪いのはおそらく体裁の悪さから。言葉にした譲歩の話は一度くらいなら無茶を聞いてやるという感謝から、といったところだろう。
とりあえず元気そうなので安心した。
「証拠が出てきたわけだが、何か反論はあんのか?」
「出てきたところでお前を帰さなければ良いと思わんか? 見たところ丸腰のようだし、無傷で返りたければ白竜を置いて行けば赦してやってもよいぞ」
にやりと笑うアルザハッドは片手を挙げる。どこで待機していたのか解らないが、装備を整えた兵士が十名、部屋へなだれ込んで来た。
各々が武器を構え、相手が少年だと知って、逡巡する様子も見受けられたがすぐに兵士としての表情に戻った。
相手が誰であれ仕事であれば雇い主に従うという事か。
九十九もまたにやりと笑った。
慄くわけでもなく、怯えるわけでもない。十人の大人が鎧に身を固め、鋼の刃を向けているのだ。アルザハッドの認識では恐怖を感じないわけがないのだが……。
手を挙げたまま、訝しげに見ていたアルザハッドは実は戸惑っていた。このまま命令を下せば目の前の少年は死ぬだろう。貴族に反抗し、意にそぐわないならば死は免れない。今までもそうだったし、今もそうだ。
平民が一人死んだ所でどうとでもなる。
なるのだが、それを理解しているはずの少年は余裕をもって、笑顔すら浮かべて対峙しているのだ。
まるで死を恐れていないというよりも、死ぬはずがないと確信しているかのように。
何か理由があるのだろうか。
あるとすると白竜という強みだろう。だが、今は捕獲されて身動きが取れないようにしている。
「死を恐れないのか?」
思わず確認を取っていた。カルウェが近寄り耳打ちする。かなりの手練れです、と。
傭兵の中には魔獣や魔族を単体で倒す者も居ると聞く。確かランクSだったか……。
「お前のランクは?」
「最近傭兵になったばかりのランクFだ。どうぞよろしく」
ならばと。
「謝罪して頭を下げれば、このまま帰る事を赦すが?」
「寝言は寝てから言ってくれ」
九十九は肩を竦める。帰る気も無ければ謝るつもりも無い。
無礼極まり無い態度だった。が、なぜか不思議と怒りは湧き起こらなかった。
無礼ではあるが、反骨精神があるようにも見えず、権力に立ち向かう事に意義を見出している者のような雰囲気も無い。
貴族に初めて見て初めて接するような無知な者に見えた。
当然、それで今までの態度を赦すわけもなく、手を振り下ろした。
無言で周りを取り囲む兵士達。メイドや執事は部屋の隅に退避している。アルザハッドはその場で優雅に紅茶を口にしていた。
「さて、んじゃ始めるか」
二十以上の目がある中、九十九の姿を正確に認識出来ている者は居たのだろうか。
ドンという音と共に九十九の姿がブレた。
《震脚》と言われる、地面を蹴りつけるような踏み込みがある。蹴り付ける力を移動する力へと変換し、移動速度を劇的に底上げする技術だ。
兵士の目の前に笑顔を浮かべた九十九が現れた。
近づいてくるという過程を省略されたため、兵士は目を丸くして戸惑い、次の動作へと考えようとする前に吹き飛ぶ。
引っ張られたように吹き飛び、窓ガラスを破って外へ。ここが一階でよかったと後で思うのだろうか。
思わず仲間の行方に視線を送り、元に戻すと目の前に九十九が居た。
喉を鳴らし、悲鳴にも近い声を上げて手に握った剣を振ろうとしたが、それも途中で遮られた。腹部への衝撃を感じた瞬間に意識を手放したのだ。
鎧を付けているにも関わらず、一人は部屋の外へ吹き飛ばし、もう一人はその場で崩れ落ちる。
魔法かと考え、素手の少年に沈められる兵士達は恐慌へと陥る。
互いの連携を考える暇などなかった。
ともかく姿が見えるうちに攻撃しなければ何も出来ずに終わってしまう。それが残った兵士達の共通見解。
床に転がる兵士の近くに居た男が剣を薙いでやっと先制攻撃をした。
姿が消える事無く、動く様子が無い九十九に斬れたと思ったのだが、剣が伝えたのは肉を裂く感触では無く、強い衝撃のみ。それも衝撃によって手首に痛みが走り、剣を手放してしまった。
九十九は剣の腹を拳で殴ったのだ。横薙ぎに合わせて。一瞬でもタイミングがずれると拳を斬られるか、肩口を斬り裂かれただろう。
手首を抑え、呆然と九十九を見る兵士に九十九は笑顔を向け、次の敵へと肉薄した。
アルザハッドは紅茶を取り落とし、カップが割れ、中身が自分の足を汚している事に気づいていなかった。
口元からは紅茶が漏れ、呆然と目の前に広がる現象を眺めているしかない。
右へ左へと瞬間移動しているようにしか見えない九十九。姿を現すたびに兵士が崩れ落ちるか、吹き飛ばされていく。
時々街へ興行に来る旅芸人の中には剣舞を披露する者も居て、それが闘いの延長上のものだと思っていた。
兵士が鍛錬している姿を見て自分の私兵はかなり強いと思っていた。
「ほぃっと」
右の回し蹴りで兵士の首を刈り、そのまま床に叩き付けた。
武器も持たず、鎧を着た相手に素手で殴り、蹴り付けた九十九が回りを見渡して満足そうに息を吐き出す。
「さて、ここで男爵に質問だ」
ゆっくりと数歩だけ歩み寄った。まるで秘密だとばかりに指を立てて口に当て、提案を口にする。だが、実際は秘め事というわけでは無い。
目の前で圧倒的な立ち回りを見せられ、その相手に笑顔で話し掛けられて動揺しなかったのは貴族としての矜持なのか、それともただの痩せ我慢なのか解らない。だが、完全に隠し通せているかどうかと言えば、否だ。
「……何だね?」
「もし、この白竜を譲ると言ったらいくら出す?」
親指で部屋の隅に置かれた檻を指す。
目を丸くしながら、しばらく動きを止めていたが、笑いを殺しきれずに腹を押さえながら笑い出した。どこに笑いのツボがあったのか解らないが、ちょっと怖い。
全てが冗談に思え、笑いながら足を叩き、夢では無いという確信を得た。余りにも自分の常識から逸脱しているために笑うしか出来なかったのかもしれない。
「やはり最初から少年に頼むのが良かったのであろうな。誘拐した連中に支払ったのと同額で金貨二十枚では収まらないか……四十枚でどうだ?」
九十九は思案するように黙り、じっとアルザハッドを見ていた。
破格の値段かもしれない。だが、白竜という魔獣単体の能力もさることながら、色々な利用価値を考えれば安い気はする。魔獣の売買がどんなものなのか解らないが。
「金貨二千枚。一枚も譲歩しねぇ。即金で払うなら譲る」
九十九の提案に開いた口が塞がらないアルザハッドだった。
アルザハッドは当然断りたかった。だが、合法的に手に入るという強み、実際には金貨千五百枚を支払って依頼し、盗み出した。だが、ばれたという理由は違約金を支払わせるには十分な理由だろう。さらに五百枚を口止め料とするならば安いものだ。
自分の地位や権力を上げるための計画はすでに練っている。白竜の噂を聞いてさらに練り直した。それに諸費用から様々に資金を投入している。今更計画を頓挫させるわけにはいかない。
様々な思惑に耽るアルザハッドが九十九を見ていた。
売ると言葉にした時点から白竜が騒ぎ出したのだ。さすがに幼竜であるために檻を壊す事が出来ないようだが、宥めるように言葉を交わし、頭を撫でている。
「なぁ、この檻は頑丈なのか?」
「見ての通り幼竜には壊せない。万が一炎で焼き切ろうとも無理だ。その檻の素材は炎に強いもののみで造らせた特別な檻だ」
「逃げ出せないんだな?」
「逃がすわけがない。これから私の手足となって働いてもらうのだからな」
「それで払うのか?」
九十九はアルザハッドのテーブルに着いた。通常であれば対面のかなり離れた場所に腰掛けるのが礼儀だ。アルザハッドの隣に座れるのは嫁や子供など家族のみ。だが、それを叱責する気力は無い。
「……ちなみに、なぜ売る気になったのだ? 屋敷まで乗り込んで来てまで取り返そうとしたのにだ」
「俺から盗むという事をするとどうなるか、身を持って知っただろ。それを刻み込むためだ」
アルザハッドは苦笑を浮かべるしか出来なかった。言葉通り刻み込まれたのだから。
それと、と九十九が追加する。
「俺にはもう一頭白竜が居るんだよ。そこのと双子がな。白竜一頭売るだけでしばらく遊ぶ金が入り、あんたらのような奴と二度と関わらないで良くなるなら十分だろ。理由はそれだけだ。
つまり、譲る条件は金貨二千枚と二度と俺に近づかない事。
それと男爵だから特別に、今回だけ、あなただからこそ、例外として売るが、次は国王だろうが、神だろうが売らない」
もう一頭居るという情報は聞いて無かった。それは自らの計画に大きな問題を落とす。だが、九十九の言葉を信用するしかない。これほどの力を持つならば誰も手を出さないだろう。手を出せば自分と同じように手痛い反撃が待っているのだから。
「良いだろう。カルウェ、レマムール商会の袋を持って来い」
アルザハッドの言葉に返事せず、黙って頭を下げると部屋を出て行った。
しばらくするとトレイに大きい袋を載せて現れた。
「確認するが良い。金貨三百枚に宝石が七十だ。換金すれば二千枚以上になるはずだ」
「以上? 換金したら釣りを持って来いと?」
「くれてやるわ。その代わり、先ほどの約束を確実に守って貰うからな」
「ここに居る全員が証人だ。お互い良い取引だったな」
九十九が笑顔で握手を求めるとアルザハッドが嫌そうに見つめ、一向に手を引っ込めないのでしょうがなく握り返した。
「じゃぁな。可愛がってもらえよ」
九十九が袋を背負い、振り返る。何か言いたそうに口を開くが、結局何も言わず歩き出す。
「くわぁ〜…………。くわぁ〜…………」
白竜は檻に掴まり、寂しそうに、悲しそうに鳴いて引き止めようとしているが、部屋を出るまで二度と振り返る事は無かった。
(´・ω・`)ノシ れみゅたんバイバイ……。