三部 第6話
貧民街と呼ばれるスラムはトラブルが絶えない地域である。
毎日のように流入してくる新参者と古参の者が生活拠点の場所を互いに奪い合い、時には殺し合いに発展する。
生きる場所を追われて足を踏み入れた子供達が肩を寄せ合い、ほんの少しだけ手に入れた食料を分け合う。生き残った子供達は数年でグループを作り、盗賊ギルドに吸収されて裏の世界へと流れる。
わけありの女性も生きるため、生活のためにスラムへと一歩踏み出す。彼女達も当然のようにグループを作る。肉体的に弱者であるため、狡猾で強かになりながら身体を売り、血と汗を流して生活の糧を手に入れる。
毎日、誰かから奪い、奪われないように腕力と知恵を駆使して生きる者達の世界は血生臭いの一言に尽きるだろう。
だが、そんな血生臭い場所であり、大概の事は鼻で笑って済ませる事が出来るようになってしまった住民達であっても目の前で行われている惨状は言葉を失い、逃げ出すしか無かった。
元々廃墟だった建物で脆くなっているが、基本的に石造りであるために普通に暴れただけでは崩れる事は無い。
だが、普通に暴れただけならば、だ。今は影も形も無い。隣接する路地には柱や壁だったものが、大人一人分ほどの重量がある石の塊りとなって散らばっている。
隣の建物の壁が爆散し、黄色い塊りが吐き出される。
地面に叩きつけられるかと思ったが、ギリギリで自ら回転して着地。だが、衝撃を吸収しきれず、土埃をたてて地面を滑っていった。
黄色い塊りはエルだった。両手に一本づつ握っていたグレートソードを地面に突き刺し、口元から流れた血を腕で拭って立ち上がると乱れた呼吸を整える。
戦闘を始めてまだ数分しか経っていない。しかし、エルの体力は著しく消耗していた。
原因は目の前にある古びた建物の二階に居る。
エルが突き破った大きな穴から、塊りが吐き出された。それをエルが腰を落として受け止めた。
飛んできたのはベサイアだ。
「あ、ありがと。でも、間違って斬っても怒らないでよね」
今の状況でなければ恥ずかしげに、もしくは嬉しげに頬を赤く染めていたのかもしれない。だが、そんな余裕は微塵もなかった。受け止められた逞しく分厚い胸板から、ひょいっと降りる。
「ふむ。俺の行動を見て刃を隠してくれたのでな」
吹き飛ばされながらも、ベサイアはエルが受け止める準備をしているのを見つけて、手に持っていた武器を抱え込むようにしたのだ。
ベサイアは両手にショートソードを構えていた。店で売られている物とは異なり、片刃で肉厚のショートソードの二刀流である。
切っ先のある鉈とも言える武器はベサイアがオーダーメイドさせた唯一の武器だ。
その分厚さは刃や鈍器を受け止めるのに躊躇なく使え、自らの重量を乗せた斬撃は骨を絶つ事も容易に出来る。さらにショートソードという形状は取り扱いが容易な長さであり、片刃であるために力加減を間違わなければ刃を返す事で鈍器にも、非殺傷武器として使用する事が出来るように考えてあるのだ。
視線は廃墟に向けながら、ベサイアは両手に感じる二本の牙を軽く感じていた。
自らを守るため、帰ってくる場所を守るため、迎えてくれる子供達のために振るい続けた武器であり、最も信頼してきた相棒でもあった。だが、今ほど脆弱さを感じる事は無い。
力量不足だと言われれば否定は出来ない。だが、あの敵を相手に何が適切なのだろうか……。
二者を吐き出した建物の穴に黒い体毛の獣が姿を現した。
「中々楽しませてくれるな……だが、これ以上ネタがねぇなら終わらせるぞ」
黒虎が穴の淵に持たれながら腕を組んでいた。
手馴れの二者を相手にしながら、疲労があるような様子は無い。
腰を落として跳ねる。
着地点はエルとベサイアの目の前。
二者は降りてくる黒虎を黙って待つつもりは無かった。
両腕の筋肉を撓め、エルがグレートソードを横に薙ぐ準備をした。着地寸前に胴を斬り払おうとしているのだ。
その行動を見た瞬間、ベサイアがエルの背中を踏み台にして跳ね、降りてくる黒虎へ肉迫した。
右の小剣が黒虎の腹部へ突き入れようとしたが、口元を不敵に歪めた黒虎が身体を丸めるように一回転し、鉈のような踵落としを両足で繰り出した。
ベサイアは刺し違えてでも突くべきかと一瞬考えたが、頭に浮かんだのは大きな的である体躯に刃を刺す前に振り下ろされる踵が自分の頭部を叩き割るイメージしか湧かない。
即座に両手の刃を鋏のように交差させて落とされる踵を斬ろうと待ち構えた。
振り下ろされる踵が左右一発づつ。
右足の踵が刃へと無造作に振り下ろされ、時間差で左足の踵が打ち下ろされる。
ベサイアは時間差とは言え、ほとんど同時にしか感じられない二撃の踵落としを受け、地面へと叩き付けられた。
背中から叩き付けられ、肺から呼気を強制排気させられる。全身に広がる衝撃に意識を一瞬だけ手放しかけたが、武器は手放さなかった。
身体は戦いが終わっていないと知っていた。震える腕が武器を掲げ、朦朧とした意識では攻防どちらにも役に立たないと知りつつも闘う意思を示す。
ぼやけていた視界が何とか晴れ、闘志を示す掲げた刃を見た。
ベサイアは刃を寝かせて小剣の腹で防御しようとしたわけでは無い。普通では斬れないと、己の膂力だけでは斬れないと悟ったために、黒虎の攻撃に対してカウンター気味に力も込めたはずだった。
だが、刃には薄く血の跡があるだけ。薄皮を裂いた程度なのだろう。
ある意味予想通りの結果を目の当りにしながら、驚きは隠せなかった。自己の力量不足に苛立ちながら、制御がまだ取り戻せていない身体を叱咤し、視線を中空から降りてくる黒虎へ。
エルは踏み台にされながら、ベサイアの行動と黒虎の行為を冷めた眼で見ていた。
迂闊だと叫ぶべきだったのだろうか。
黒虎は頭虎族だけでは倒せなかった種族だったのだ。何度も口では強いと説明はしたが、ベサイアには上手く伝わらなかった……のだろう。
黒虎はベサイアの刃に力任せに踵を振り下ろしたのでは無かった。
斬られる寸前に攻撃を止め、刃を踵で押したのだ。
刃への攻撃で皮膚が横へ移動したのであれば、どれほど強靭な皮膚と筋肉を誇る黒虎でも斬られてしまう。だが、押し当てるだけでは深く斬れる事は無い。
視界の端に映る建物一棟を破壊し、瓦礫の山にしたのは全て黒虎の腕力、脚力のみだ。
魔力による破壊は一切無い。エルとベサイアが防戦一方で、黒虎の攻撃を躱し続けた結果が瓦礫の山を作り上げたのだ。三者の姿を見た者は、力任せに争ったと考えるかもしれないが、実際は黒虎だけの力。
異常な膂力を持ち、それを完璧に制御する術を身に付けている。
黒虎の持つ底知れない技量を目の当りにしながら、エルは中空から降りてくる敵を前にして両手に一本づつ握るグレートソードを握り締めながら思う。
このままでは無理かもしれない、と。
黒虎の着地点はエルの正面。
黒い塊りが目の前に現れたと感じた瞬間。
エルは筋力を最大に高めて両手の大剣を巨大な鋏の如く薙いだ。
過去に岩のような妖魔を退治した。その時は換金目的があった為にやらなかったが、この攻撃を受ければ十分に叩き割れるだけの威力を込めている。
大剣が交差し、振り抜ける。
だが、斬った──わけでは無い。
最大の隙に最大のタイミングで最大の力で振り抜いたが、手応えは一切無かった。幻影を相手にしているように大剣が透り抜けたのだ。
理由は解っていた。最大の速度で振るった大剣が黒虎の腹部へと触れそうな瞬間だった。黒虎の両腕が霞み、大剣へわずかな衝撃。その後は大剣の重量が半減した。
何事も無かったように着地した黒虎がふてぶてしく嗤う。
「……もう出すモノはねぇのか?」
振り抜いた形で止まっていたエルは大剣だったモノを手放した。そして、呆れるようにため息を吐き出した。
目の前に着地した黒虎の足元に二枚の刃が落ちていた。
黒虎は腹部に迫る二本の刃の腹に拳を打ち下ろし、その衝撃で折ったのだ。
「これほど強いとは思わなかった……」
エルは諦めとも取れる言葉を口にしながら、拳を強く握り締めた。
黒虎は首を鳴らしながら地面に伏したベサイアと、悔しげなエルの様子を見て落胆したように大きく息を吐き出した。
最終勧告でも口にしようとしたのか、それとも皮肉でも告げようとしたのか、わずかに口を開いた瞬間、何かに気づいたように首元に付いた紋章を指で掻いた。そして忌々しげに顔を歪める。
「主が仕事を終わらせて帰れとご所望でな。とっとと仕事終わらせて帰りてぇんだ」
「奇遇だな……。俺も友のために無駄な時間を使いたくないんでな。切り札を出させてもらう」
黒虎は眉根を顰めた。明らかに目の前の頭虎族が持つ剣技は自身の拳技に負けている。結果として武器を叩き折ったのだ。
さらに近くで倒れている人間も、それなりに腕が立つようだが脆弱であり、援護だけに回ったとしても邪魔だと思うだけで負ける気は一切しない。
その状況で頭虎族はまだ切り札があると口にした。
つまり、勝てる。そう言いたいのだろう。
「そいつは楽しみにしても良いんだろな?」
血を求めるように牙を剥き出しにした。
──そいつは楽しみにしても良いんだろな?
獰猛な肉食獣の笑みだった。
その笑みを受けたエルが、一息大きく呼吸をすると身体から発する雰囲気が変わる。
たった一呼吸で荒かった呼吸が落ち着き、まるでこの場に今現れたようにすら思えるほどに劇的な変化を起こす。
そして、黒虎という強敵を前に瞳を閉じ、開けた瞬間、何か決意したような意思を瞳に宿した。
「お前の快楽のために俺は戦うわけでは無い。だが、今のままでは勝てない。だから勝てるようにするだけだ」
エルがそう言い放つと起き上がろうとするベサイアに視線だけを向けた。
「動けるなら、離れろ」
それだけだった。気遣いでも優しさでもない。言外に邪魔だと告げたのだ。
そして、エルは全身に力を込め、牙を剥き、喉を鳴らす。
最初の師匠には手に負えないと思わせた力。
今の師匠には、その力を己の力とするように努力しろ、と言われた。
己の中で最も嫌悪する力。
理性で押さえ込んでいた忌むべき力。
あと少しだけ、理性の扉を開ければ良い。
喉を震わせ、開放の時を──。
──動けるなら、離れろ。
頭虎族の言葉と視線を受けてベサイアは怒りが込み上げた。
本人は気に入っているわけでもなく、勝手に呼ばれているだけなのだが、『凶獣』の二つ名を冠している傭兵である。
ランクも最年少でAになった。
確かに黒虎は強敵だ。傭兵であればランクSに分類されるのは間違いない。
だが、二頭の獣に割って入れないほど自分が弱いとは思っていない。
強い傭兵ほど必ず何か秀でている技術、能力を隠し持っている。
当然、ベサイアも持っている。
他人の眼に晒したく無いが、そんな我侭を言える状況では無い事はすでに理解している。
そして、晒したく無いからと言って、この場を他者に任せて逃げようと考えるのであれば、子供達を守ろうなどとは考えたりしない。
ベサイアもまた瞳を閉じ、大きく一呼吸して開けた。
瞳には決意。
嫌悪する力を解放する決意。
傍らに突き立てた二本の牙を持ち、身体を、喉を震わせ──。
黒虎と対峙する二者が同時に、憤り、怒り、憎しみを吐き出すため、大きく、大きく息を吸い──。
己の身に宿る獣性を開放する咆哮をあげた。
二者の猛る咆哮は様々なモノに影響を与えた。
近くにあった建物の一部が崩れた。木枠が震え、砕けた。
比較的近くで状況を見ていた盗賊達が、全滅した。
咆哮を受けて死んだわけでは無い。だが、一人は耳にした途端、涙を流し、身体の震えを止めるかのように抱き、その場に座り込み、一人は耳を押さえながら泡を吹いて倒れた。ある者は一瞬で頭髪が白くなり、与えられた仕事を放棄して逃げ出した。
二者には別の人格を表面に出すための儀式だった。それは産声と言っても良いだろう。だが、温もりを求めるものでは無く、庇護してもらうためのものでは無かった。
搾り出したのは理性という鎖だ。奥底から生まれ出でたものは純粋な殺意、本能に埋もれて眠っているべきだった破壊衝動。
隠れて見ていた盗賊達が戦闘不能になるほどの咆哮を受けた黒虎は口元を獰猛に、禍々しく歪め、愉悦を顕わにした。
二者の吐き出す咆哮が収まると、それぞれが劇的な変化を起こしていた。
それを見ても黒虎は動じない。ただ一言だけ呟く──。
「では……いこうか」
三匹の獣が敵の血を求めるために飛び出した────。