三部 第4話
男爵邸への同盟にも似た裏取引から二日が経っていた。思わぬ臨時収入はしっかりと白竜と灰猫の腹の中へと順調に吸い込まれ、右から左へと流れるように銀貨が移動する。つまり、懐からダルデスへと。
九十九達が酒場で日々を過ごすだけで黒字になるのだ。ダルデスは笑いが止まらないだろう。
いつもならば、暴飲暴食する互いの相棒にもう少し自重してもらうように、と諭している。一応は頷くのだが、絶対に守らない事はすでに理解している。しつこく言っても反発があるだろうと考えた九十九は、形だけでも定期的に苦言を呈する事で意思表示してきたのだ。
──だが、九十九とエルが男爵邸に行ったあの日、戻ってきた二人にどこへ行ったのかを聞いた白竜と灰猫が二日酔いで動きが鈍いままながら猛烈な抗議をしたのだ。
曰く、それほど重要な事に置いて行くとは何事だ、と。
九十九はどうしたもんかと悩んだ。二日酔いだから置いていったのだ。それに出かける時に男爵と会いに行くと、漏らしてもいたはずだ。それに気づけないほど弱っていたという事なのだ。
完全に自己管理が出来ていない白竜と灰猫の失敗であって、九十九が悪いわけでは無い。だが、甘いと言われるかもしれないが、二者が九十九を心配している事も理解している。
そこでエルは臨時収入があった事を告げ、ある程度多めに食費を出せると提案する事で怒りを抑えたのだ。
その結果が目の前のカウンター上に丸々と膨らんで転がる丸い白竜と丸い灰猫である。
妊婦と表現すべきか、腹に空気を強制注入させられたカエルと表現するか悩みどころだ。
保護者のような眼差しで見ていた九十九とエルは、競い合うように、己の限界に挑戦する相棒達。
食べ物が瞬く間に消え去るという現象を見ただけでお腹いっぱいだった。
次の日。
朝から九十九は疲れていた。
苦肉の策としてエルが口火を切った食べ物の増量許可は諦めるとして、深酒だけはさせないように白竜と灰猫を弄りながら、九十九は窓の外を眺めていた。
窓の外とは言うが、裏側の鍛練場であり、食い逃げ防止の石壁しか見えないので、風情もへったくれも無い。
石壁が珍しいわけでは無い。薄暗い酒場から外の明るい日差しを眺めていると、薄暗い部屋に居る自分が裏の世界に浸っているような気がしてならない。
窓の光は洞窟の出口のような雰囲気があり、手を伸ばしても届かない希望なのか、などと考えてしまう。
好意的に見れば目の前に現れた光。あと少しで到達出来る場所などと考えても良いかもしれない。
つまり、白竜と灰猫を撫でるだけでは暇だった。考えていた事も前の世界で見ていた本からの引用だったかもしれない。自分の言葉とは思えなかった。
視線を窓へと向け、苦笑を漏らした九十九をマスコットが襲い掛かった。伸ばしていた腕を灰猫が駆け上り、九十九の顔を右から抱き、白竜が顔の左側に飛びつく。
「悩んでるー?」
「ドウシタノダ?」
「──いや、何でも無いよ」
逡巡があったが、ミルとレミュクリュは追求せず、匂いを染み込ませるように頬を擦り付けた。
前後を挟むサンドイッチは呼吸不全と口腔内に灰色の毛を残すので不快なのだが、左右を挟まれたのであれば、笑顔が浮かぶ。
それに、アルコール臭さはともかくとして、気遣いを感じ嬉しく思うのだ。
そこに──。
扉が開いて、待ち望んでいた人物が現れた。
「クランドルさん。こんにちわ~」
「こんにちは。九十九様」
クランドルの登場に笑顔で挨拶。しかし、返された言葉には敬称が付けられ、慣れない少年は苦笑いになった。
残りの面々は視線だけで頭虎族が頷き、少年の頭を抱いてまったりとゴロゴロしているケット・シー族と白竜がそれぞれ尻尾を振って挨拶とした。
対するクランドルも仮面にしか見えない顔に微かに苦笑と取れる表情を浮かべた。
少年は慣れていない様子で敬称に対して嫌悪は無くともむず痒さがあるのだろう。それでも止める気にはならない。少年の身なれど尊敬に値する人物なのだ。
もし……。もしも、何年も前にこの少年と出会っていれば生き方が変わっていたかもしれない。仕えるべき主と見定めたかもしれない。
異種族を囲っていながら、互いに笑顔で話をしている姿を見ると尚更そう思ってしまうのだ。
挨拶の後、促されるように九十九の隣に腰を下ろしたクランドルは何か言い辛そうに目を伏せていた。
九十九は、どうしたの、と問いただそうとして留まった。
クランドルがゆっくりと目を開けたのだ。
「……もう少しだけ時間を頂けますか?」
「ん。明日、明後日と言うほど急ぎはしないけど、何かあったのですか?」
頷くクランドルはダルデスに部屋を、と告げて交渉用の部屋へと場所を移した。
前回同様に部屋の奥へ腰を下ろすと、言い辛そうに口を開いた。
「……実は、子爵邸に放った者が先ほど全員姿を消しました。途中まで同行した者が異形の化け物を見たと言っておりましたが、真偽は分かりません」
九十九は何が言い辛いのか良く分からなかったが、クランドルが情報を扱う事を生業としている事を思い出し、何となく察する事が出来た。
おそらく、不確定な情報を扱う事に嫌悪があるのだろう。
「王国所属の密偵である仲間にも聞いてみましたが、ギード子爵は最近妙な動きをしているらしいです。一月半ほど前に魔法が使えるようになったのは事実らしいのですが、それと同時期に少女を常に傍に置いているようです。それから子爵の仕事の能率が上がったと。さらに不穏な噂も流れています……」
呼吸を整えたような間を空けて、
「悪魔を呼び出して契約した、と。その悪魔が最近傍に置いている少女であると……」
信頼が置ける情報を扱うのがクランドルの誇りだ。今回の情報はそれを傷付けるような曖昧なものだった。魔族や悪魔と言われる類と契約を結ぶという話は色々な所で聞く事が出来る。ありふれた噂話なのだ。
酒場は当然として、子供達の間でも職人達の間でも主婦の間でも聞く事が出来る。
魔族や悪魔は絶大な力を背景に絶望を与える、と認識されている。そして、それはまぎれもない事実だ。
だが、庶民の間で噂されるものは才能を開花させた者や成功者を妬むために使われている隠語のようなもので、相手を侮蔑するための単語である。
その単語をまさか自らが口にしなければならない日が来るとは思っても見なかった。ゆえに恥じていた。
だが、その言葉を聞いた九十九達の反応に目を丸くしていた。
深刻そうに目を伏せて思案していたのだ。
九十九はとても重要な単語を耳にした。
〝呼び出して〟
これは今もっとも必要としていた単語だった。
呼び出された時期、呼び出された悪魔、九十九が持つ稀少な能力を子爵も持っているならば……。
今回、一連の騒動に首を突っ込む事になったのは、一つはあのダークエルフを嫁だと言った男のためだ。悪い人間には見えなかったし、どこか似た雰囲気を持っていたから。
もう一つは情報を得る過程で知ったベサイアの状況も九十九には赦せないと思った。
特にまったく関係の無い子供達が犠牲になるかもしれないならば、なおさらに。
だから行動した。仲間を巻き込んでしまった事は申し訳ないとしか言えない。感謝してもしきれない。
だが、事情が変わった。
子爵は九十九が今もっとも会いたい人間なのかもしれない。まだ可能性がある程度ではあるが。
視線を仲間達へ向けると、全員が頷いた。
まさか、前に酒の席で戯れに埋めた種が大きな幹になって黄金の実を付けるとは思っても見なかった。仲間達も遊びでしかなかった妄想が現実に成り得たとは驚きしかないだろう。
ぐっと拳を握る力が強くなる。
理不尽な事に巻き込まれたのだ。父親……はともかく、母親や友人知人、悪友から強制的に隔離されたのだ。
首筋がちりちりと痛い。もう戸惑う事は無い。何かが起こる前触れだ。
心を落ち着かせるために深く、深く呼吸を繰り返して九十九は視線をクランドルへ向けた。
「ベサイアをこの店に呼び出してください。大至急でお願いします。それと彼女が守っている子供達をしばらく保護してもらえますか?」
「私と異なる部署が関わりますね……。一存では決められない事なのですが、何とかしてみせましょう」
強い意思を感じる視線を受けて戸惑いを隠せないクランドルの返答は確約が出来ないかもしれないというあやふやなものだ。だが、その言質を聞くと九十九達は立ち上がった。何かに突き動かされているように。
部屋の扉の前で顔だけ振り向くと、
「確実にお願いします。密偵を放ったのが見つかった事で、おそらく向こうも行動を起こすと考えられます。時間に余裕が無いと思うので、何が何でも子供達を守ってもらいますよ。報酬は前回の分と今回の分、そして護衛の分をこの袋に入っている金貨と宝石で。足りない分は後で渡します」
懐から袋を投げて渡すと、九十九を追いかけるように三者が付いて行った。一斉に廊下を駆け抜け、階段を上っていく音が聞こえた。各々が借りた部屋へ逃げるように戻っていく。
九十九の言葉を聞いて、迅速な行動を見て、クランドルは驚いていた。
ギード子爵を引きずり落とそうとしている、とは推測していたが、クランドルの予想と九十九達の行動は異なっている事が伝わってきた。
驚きが過ぎ去ると、クランドルは顔を強張らせた。
噛み合わせが余りにも悪いのだ。少々の隙間であれば修正出来るが、まったく噛みあっていないとなると状況が悪くなっていくものだ。当事者、関係者の趣味思考、行動理念を知り、それを元に情報を集めてきた。どうしても埋まらないピースは推測して埋め、何とかここまで大きな失敗もなくやってこれた。
だが、今回の依頼主は余りにも異質だ。行動理念は今までにまったく無い唯一少年だけのもの。
重要な情報が手元に無い事を思い知らされたクランドルは不安でたまらなかった。
確かに貴族を相手にしようとしている事は掴んでいる。貴族を引きずり落とす事は一国を相手に喧嘩を売るようなものだ。だが、九十九達の反応はさらに大きな、それ以上の出来事が起きると知っているように見えた。
しかも、きっかけがクランドルのミス。
呆けるように座っていたクランドルは渡された袋の中身を確認せずに懐へ入れると、走り出したのだった。