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三部 第3話


 九十九は不思議な音を耳にして目が覚めた。

 意識が完全に覚醒しておらず、耳に届く音もぼやけており、何の音だろうと考えようとするが頭が上手く回転してくれない。

 太い地声の演歌歌手が風邪を引いて思うように声が出せなくなっている、とでも表現するといいのか……。

 時間が経つにつれて意識が明瞭となり、頭のエンジンに火が入った。それと同時に耳に届く音の発生源を探し、足元に丸まっている物体を見つける。

 レミュクリュだった。

「れ、れみゅさん?」

 呼吸が粗く、何か口にしようとしているが何も発する事が出来ずにいるようで、とても苦しそうだった。どこか怪我でもしたのか、それとも病気なのか、病気だとすると人間と同じなのだろうか、実は竜族特有の病でどこかの山や谷にひっそりと咲く、一輪の花を取りに行かなければならない、とか色々と妄想を膨らませた。

 だが、焦りが沸き起こったものの、すぐに思いなおした。

 その考えが正しいとばかりにレミュクリュが苦しそうにやっと呟く。

「ミ、ミズヲ……」

 二日酔いでした。

 一階に下りると、今朝はアディが店の仕込みをしていた。そして、カウンターにはすでに起き出したエル。

 片手には水がたっぷり入ったジョッキ。もう一方には何も入っていない空の桶。

 階段から見ていた九十九に視線を向け、苦笑を浮かべる。

「おはよう。ツクモ」

「おはよう。エル。おばさん、俺にもエルと同じ物準備してもらえますか?」

 エルは苦笑を浮かべ、アディは朗らかに笑ったのだった。


 たっぷりと水を飲ませ、しばらくするとレミュクリュは頭を押さえながらも起き上がった。

 いつものように肩車をして、なるべく揺らさないように階下へ降りた。

 同じタイミングだったのか、エルがちょうどカウンターに座るところだったようで、小脇に抱えられた人形のように身動きが出来ない灰猫はカウンターの上に乗せられた。

 エルの隣に腰を下ろす九十九もまたレミュクリュをそっと置く。

 マスコットの二者はぐてっとしており、まったく動こうとしない。アディに朝食を頼み、九十九の目の前に置かれるまでの間でも毛ほども動かない。

「そんなになるまで飲まなきゃいいのに……」

 さすがに苦言を言わざるを得ない状況だった。

「我ノ……セ、イデハ、ナイゾ……」

「ボクは、悪くな、いもー……ん……」

 いつもの光景なので、理由は分かっている。

 今が楽しければ良いと考えるケット・シー族が同じような体格で同じように酒を煽る仲間を挑発したのだ。

 その結果、飲み比べに毎回発展する。

 毎回引き分けになり、次の日は目の前にある空気が抜けた風船のようになると学習してくれないのだ。

 九十九は思う。引き分けになるのがいけないのだ。どちらかが勝利すれば、別の結果が出ると思うのだが、白竜もまた意地になって対抗してしまうのが状況を悪化させてしまう。

 ダルデスが身体に悪いと口にするが、二者は止まらないし、収入が大幅に増えるために止めようと行動はしない。

 二者が突っ伏し、それを九十九が苦言を呈する様子をエルが肉を齧りながら微笑んで見ていた。


「飯食ったし、ちょっと出てくるよ」

「ん。買い物かね?」

「ちょっとね」

 おどけて返事をしておいた。別段隠す事では無い。何となくだ。

 片目を瞑った九十九の様子をじっと見ていたエルが、

「……ふむ。まぁ話は通しておいた方が良いな。我らでは面識が無いし、当事者がこれではな……」

 視線がカウンターの上にある惨状に向けられる。

 九十九は驚いた。飯を食いながらふと思い立っただけだ。相談をした事も無い。

 虎が片目を瞑り、お返しとばかりに微笑む。

「状況と今出来る事を考えれば、ソレが唯一出来る事ではないか? その男爵がどういう人間なのか見てみたいな」

 そう言うとエルはグレートソードを二本背負って立ち上がった。一緒に来るらしい。

 口からエクトプラズムを漂わせる二者をどうしようかと思ったが、突っ伏した白竜と灰猫が、最後の力で尾を動かした。腕や口を動かすよりも、尾を動かした方が楽なようだ。

 つまり、いってらっしゃい、そういう意味だろう。

 お出かけ二人組みは仲良く懐から銀貨数枚を置いて店を出た。

 今まで白竜を肩車して街を歩いていたために、無くなると両肩が軽くなり過ぎて、少し落ち着かなかった。九十九の代名詞とも言える白竜は居ないが、頭虎族と共に街を歩けば別の意味で目立つ。

 黙って歩いていても存在感があり過ぎるのだ。表情も厳格と但し書きされているように険しい。通りを歩くだけでも畏怖を感じる人々が道を譲る。まるで視界に入っただけでも噛み殺されるとでも思っているように……。

 だが、九十九は知っている。超然としている横の虎は冗談を解する心を持ち、優しい事に。普段は威嚇していると勘違いされるようだが、実は表情豊かな事に。

 エルが隣に歩く九十九に苦笑を浮かべて呟いた。

「肩が軽い」

 同意するように九十九は微笑んだ。


 九十九は好きだからと言う理由だけで今の装備を揃えたわけでは無い。黒の皮鎧を主要部分にだけ付け、足元は鋼の脚甲。手に持つ武器はこの世界では珍しい刃が付いていない鋼棍である。

 元の世界から使い慣れ、不殺を信念にしているために鋼棍を。動き易さを考えて皮鎧に、どんなタイプの敵が相手でも使え、どのような足場でも力を込められるようにと考慮して脚甲と考えた上で揃えた装備なのだ。

 だが、足が悪いわけでも無いのに鋼棍を杖のように付いて歩く姿は街を歩く人々からは一種異様に見えるようなのだ。

 出かけるついでに立ち寄った服屋で、斬られてボロボロになったジャケットを新調した時にも店員に服装について裏でこそこそと噂されているようだ。

 そんなに変なのか、と深刻に悩んだ九十九。

 店の前で待っていたエルが、自分の服装を気にしている九十九を見て頭にぽんと手を置いた。

「戦いを知らぬ者はその格好が機能的だと分からんだろう。戦いを知る者はその格好が九十九の戦い方に最も合っている事を知らんのだ」

 慰めてくれているようだ。だが、

「それって、見た目が悪いって言ってるようなもんじゃん……」

 九十九の言葉に虎はあらぬ方向へ視線を投げ、背中をぽんと叩いて先を歩いていく。

(否定してくれない……)

 九十九はちょっと泣きたくなった。


 東西を横断する大通りを西へ向けて歩く。通りは様々な人が歩き、種族が歩き、大小様々な馬車や荷馬車がゆっくりと、もしくは我先にと急ぐ。

 場所が商業区域であるために本当に騒がしい。左の道には朝市のような様子で、人の波で埋まる通りには様々な店が両脇に乱立してあるようだ。それぞれの店が大きな声で呼び込みをしている。反対側にある小道にも似た店があるようで、もしかしたら近場の店同士売り上げ競争でもしているのかもしれない。活気が溢れている。

 そんな景色を眺めながら、ふと思う。

 おもむろに店の果物を一つ手に取り、一口齧って吐き出すと、こんなもの食えるかーッ! と、どこぞの美食家のように振舞ったらどうなるだろう、と。

 酷い妄想に自嘲気味に笑みを浮かべると、虎がその様子を首を傾げて見ていた。

 九十九はキョロキョロとおのぼりさんよろしく目的地を目指して歩く。


 街を縦断する一本目の大通りとの交差点。当然、信号機なんてものは無いので、左右を見て安全確認をして渡る。

 この一角は住宅が多いようで、一階や二階が石造りでそれより上は木造というの建物が並んでいた。

 国が作った集合住宅のような建物が乱立する区画があると、ダルデスが前に言っていたが、今通る区画が件のそれなのかどうかを判断出来ない九十九には無駄な情報のようだ。知っているかとエルに聞くが、首を横に振る。

 前の世界では外国でしか見ないだろう珍しい建物にあっちこっちへと視線を飛ばす。

 ふと音を耳にした。

 左手の方から子供らしきはしゃぐ声。

 同時に数歩先にある建物と建物の間にある細い道から三人の子供が飛び出してきた。

 楽しげな三人だったが、九十九とエルをじっと見つめ……。

「変なの。いこっ」

 リーダー格っぽい子がそう呟いて元来た小道へと消えていった。

 子供の言う事だから、と自分に言い聞かせながらも少しへこたれながら目的地へ向け、少し早足で歩く。


 しばらく歩くと、街を縦断する二本目の大通りとぶつかった交差点へと着く。

 この先が目的の区画がある場所だ。

 左側が主に木工品や皮製品を作る工場とそれを商う店が多く、職人が作る日用雑貨が多数並んでいる。右側にも同じように店があるが、品揃えは武器や防具が主な品のようだ。

 この通りより北へ向かえば目的地の場所だ。

 貴族地域ノーブルエリアである。

 若干道に迷いながらも、目印となっている歪な極彩色な建物や蛇らしき建造物を頼りに到着した。


 九十九が虎を従えて散歩のように軽い足取りで格子状の外門へ向かう。

 見た事がある門衛が九十九の姿と背後に護衛のように追従する頭虎族を見つけると、顔を引き攣らせながらも即座に近くの仲間へ一言、二言何か叫び、槍を構えて通さないとばかりに門の前に進み出た。それと同時に詰め所らしき建物から一人が屋敷に向かって走る。

 切っ先が震えているのは力が入り過ぎているのか、それとも怖いのか……。

 九十九はその私兵の男をすごいと思った。一度、敵わないと思わせた相手に時間稼ぎのために一人で相手にしようとしているのだ。まさか、本気で戦って勝てると思っているわけではないだろう。

 一人が足止めし、その間に仲間に応援を頼む。そんなところだろう。

 貴族が雇う私兵は傭兵崩れが多いと聞く。ほとんどの傭兵は一つの事を心に刻み付ける。

〝生きる〟

 これだけだ。報酬のために働き、もし失敗をしても生き残る努力を怠らない。失敗も散財も生き残ってこそ意味がある事だと誰もが口にし、誰もが納得するからだ。

 逆に騎士となるとがらりと変わる。王や国のために敵わないと知っている相手でも向かっていく、無謀とも蛮勇とも言える心構えが必要となるのだ。

 つまり、忠誠心。

 九十九は目の前に居る私兵に忠誠心を感じた。雇うだけの貴族相手に忠誠心を持っている事に感心していたのだ。

 私兵が持つ職業意識の高さというか、強さという可能性はあるものの、そうとも言えない決意のような意思を私兵から感じた。

 馬鹿男爵と呼称していたが、意外と人格者なのかもしれない……。


 鼓舞するように声を出す私兵を眺めながら、九十九とエルはじっと待っていた。

 あの日の子供が来たと連絡が行けば、執事の男が顔を出すだろうと思ったからで、実際に執事のカルウェが現れた。

「当家に何か御用でしょうか」

 格子門を挟んで九十九とエルを見据え、対峙するカルウェは少し憤っているように見えた。

「お話があって来ました。アルザハッド男爵は居ますか?」

「現在、所用で出かけております。またの機会にお越しください」

「今回は互いに利がある相談に来たのです。面会させてもらえませんか?」

「貴族に取り入る輩は誰もがそう言います。お引取りを」

 頑なに拒否。当然だろう。被害者面して逆に恐喝して帰ってきたのだ。信用、信頼という単語は九十九と男爵の間に一切存在しない。

「じゃ、ひとつだけ聞くだけ聞いてもらって良いですか?」

 九十九が指を一本立てる。背後には四人の私兵が槍を向けて凄んでいるが、エルが遮るように泰然と立っており、手が出せずに居る。

 カルウェが眼鏡を直しながら視線を向ける。聞くだけは聞く、そういう事だろう。

「近々、俺の都合でギード子爵とやりあう可能性が高くなった。事後に動くならかまわないけど、俺の行動に同調出来れば前回の負債を無かった事にして、さらに莫大な利益を引き出す機会があるかもしれないんだけど……どうします?」

「…………誰と……?」

「だから、ギードって──」

「それ以上はッ!」

 片手で九十九の口元を隠す──つもりのようだが、鉄格子ごしなので、実際は手をかざしただけだ。

 口を閉じた九十九を見ながら、カルウェが黙った。

 追い払おうとしていたのだ。ひとつだけと言うので、聞くだけ聞いて帰ってもらおうと思っていたのだが……。

 話の中身が荒唐無稽とは言い切れない単語を含んでいた。

 男爵に報告はしなければならない。だが、詳細を聞いて追い返した方が良いか、それとも男爵の前で話してもらうか……。話が本当であれば、利になるかもしれない。だが、嘘だった場合は……。

 数瞬の間でカルウェは考えられる事を全て想像した、つもりだ。

 その結果、

「男爵様に伺って参ります。そのままお待ちください」

 返答を待たずに少し急ぎ足で屋敷へと戻っていった。


 そして……。


 戻ってきたカルウェに案内されるままに通された部屋は、前回訪れた食堂だった。

 そう言えば、と九十九は思う。前回もそうだが、今回もちょうど昼時という食事の時間に訪れている。

 アルザハッドは口元を拭いてメイドに皿を下げさせていた。

 そして、視線が合うと露骨に嫌そうな表情を浮かべる。

 九十九はそれを見て何を思ったのか、満面の笑みを浮かべて片手を振った。

 状況を知る者であれば挑発しているようにしか見えないだろう。実際、手を振られたアルザハッドは眉間に深い皺を寄せ、忌々しいとばかりにテーブルとドンと叩いた。

 食事のたびに気分を害する、というトラウマを抱えなければいいのだが……。

「それで、彼の者に手を出そうとしているようだが?」

 椅子から立ち上がる事は当然無く、座りながらも扉の傍に居る二者に、貴族の持つ威厳を十分に保つように話しかけた。男爵としての矜持なのだろう。

 だが、前回の出来事でも知っているはずだ。遠い場所から見下している人物の一人は男爵という地位を歯牙にもかけない少年だと。さらに隣に居る頭虎族は人間世界での地位に縛られるような種族では無いと。

 それを少しでも払拭して互いの立ち位置を確認しようとしたアルザハッドだったのだが、無駄だった。

 少年は頭虎族を従えるように歩き出し、立ち塞がるカルウェを片手で横へどけ、アルザハッドの近くにある椅子に腰をかけた。その背後に腕を組んで頭虎族が立つ。まるで護衛のように見えた。

 アルザハッドは憤りを持って九十九を睨むが、その背後に立つ護衛の威圧に声が出せなかった。

「出来れば人払いをお願いしたい。お互い仲良く手を繋ぐ間柄じゃないのは承知で、重要な話があってきました」

 少年の表情。見下ろす頭虎族の威圧を受け、ただならぬ雰囲気は感じ取った。

 前回の出来事を使って強請りに来たのかとも警戒していたのだが、そうではなさそうだった。

「それで?」

 やっと搾り出し、手を振って部屋に居た使用人達を下がらせた。メイド達はともかく、カルウェまでも頭を下げて部屋を出て行った。

 目に見える範囲には人の姿は無い。九十九は上を見上げて背後に立つ虎に目配せをする。

 虎は頷くと部屋の四隅を辿るように歩き、扉の前では忙しなく耳を動かし、九十九の背後に戻ると再度頷く。

 聞き耳を立てている者が居ないか確認してもらったのだ。

 アルザハッドはのしのしと部屋を歩いて回る頭虎族を尻目に、目の前に居る少年が口にした言葉を思案していた。カルウェを介してだが、十分に反逆者として処分可能な発言だった。

「……私がギード子爵に密告する可能性は考えているのかね? 子爵相手にやりあうなどと口にした傭兵が居ると言えば、私は子爵に対して覚えが良くなるのだ。先々を考えれば──」

「考えている人は目の前で指摘してくれないと思うけど?」

 口を挟んできた九十九の言葉に戸惑いを感じた。

 そうなのだ。この場で時間を稼ぎ、人を呼んで捕まえれば問題無いのだ。腕の立つ騎士が十人や二十人では足りないだろう。それなりの部隊を呼ばなければ捕らえるのが難しいとは思うが。

「俺の方も色々調べて見たけど、ギード子爵ってのは余り自慢出来るような事してないみたいだね」

「それを知りながら手を出そうと言うのか、無謀な……」

「そ、れ、と。

 そいつを陥れようとした頭の悪い男が白竜を強奪しようとしたらしいんだよね。何の事無い。不正を知りながら今まで黙っていたくせに、いざ我慢が出来なくなったからって強硬手段で手札を揃え様とするなんて、結局蹴落とす奴と似た事してたわけだ」

 アルザハッドは唸るしかなかった。年上に対する口の言い方、国政に携わる相手への敬意などまったく気にしない言葉であったが、言っている事は間違っていなかった。

「……解った。どうしたいんだ……」

 観念するように両手を軽く挙げた。

「まず、少しだけ情報が欲しいんだけど、いいかな? 聞きたいのはここ二ヶ月くらいの間、ギード子爵の変化について……」


 少しでも多くの情報を取ろうと九十九はいくつか質問を重ね、九十九が得た情報も与えた。だが、多少の差異はあったが、クランドルが集めた情報以上の事は得られなかった。いや、収穫があったとするならば、クランドルの情報が正確だと確信が持てた事だろうか。

「それで、私にどうして欲しいのだ?」

「何も」

「……どういう事だ?」

「男爵に頼みたいのは事後処理だけだよ。不正を暴いて蹴落とせる証拠は探しておくから、それを使ってのし上がってくれれば良いと思う。子爵みたいな事しないんでしょ?」

「当然だッ! 我々貴族は国を支える存在なのだ。そして国とはそこに住む平民があってこそ国なのだ。それを貴族の地位を使って金のために踏み躙る者など、貴族では無いッ!」

「俺を殺そうとした人の言葉じゃねぇ気がするんだけど?」

「お前一人の命でこの国に住む平民が楽になるのだ。上に立つ者は時にそう考えて行動せねばならない時がある。小を殺して大を生かす。平民であるお前にはわからん事かもしれんがな……」

 初めて苦渋を漏らす姿を見た。考えとしては理解出来ても、納得して割り切ってはいないのだろう。

 その考えは分からなくもない。

 どこかで一度は似た事を考えるだろう。酒の席や友人との対話、ドラマや本を読んだ時などで。

 国や街、村など組織を治める立場であったり、親兄弟、恋人、親しい友人、それに対する多数の他人。天秤のどちらに手を出すか、そう言う話だ。

 九十九がすぐに思い出したのは前の世界で小さい頃に母親に問われた事があった。天然系由来成分を多く含んだ母親がいつになく真面目な顔をしていた時だったと思う。


『もし、この街に百個の爆弾を隠したテロリストが、母さんを人質に取って脅迫したら、九十九はどうする?』

 その時、今よりも幼かった九十九は、

『母さんを助けて爆弾も捨てる~』

 幼い子供にどんな状況を想定させているのか、今になると疑問があるのだが、その時はそう答えたはずだ。

 テロリスト程度に人質に取られても、あの母親ならば九十九が手を出す前に倒すと子供心に理解していたのかもしれない。だから、簡単に考えていた。

 その返事を聞いた母親は、優しい微笑みを浮かべて九十九を抱きしめた。そして、

『そうね。でも、いっぱい考えなさい。必ず母さんが無事とは限らないの。色々な状況を考えておきなさいね。テロリストが一人とは限らないし、母さん以外の人質が居るかもしれない。爆弾が二百個かもしれないの』

 優しく頭を撫でて諭す姿に違和感と焦燥感が湧き上がったのを覚えている。

 まるで、この先にその状況が必ず起こり、母親が消えてしまう、そんな気がしたのだ。

『九十九に何かあれば母さんが絶対助けてあげるから大丈夫よ。意地悪な事言っちゃったね』

 母親の言葉に涙を浮かべ、泣きそうな九十九を見た母親はぎゅっと抱きしめた。


 少しだけ、昔を思い出し、自嘲にも似た笑みを浮かべた九十九。

 それを嘲笑とでも取ったのだろう。アルザハッドが憮然とした。為政者の気持ちは平民に伝わらない、そう思ったのかもしれない。

「理想が低いよ。どうせなら小も大も生かす貴族になれよ」

 だから、九十九の言葉が耳に入っても頭では理解出来なかった。

 ゆっくりと染み渡るように頭を巡り、

「……ハッ、平民が生意気な事を言う」

 少し、楽しそうに見えた。

「それで、本当に何も手伝わなくていいのか?」

「必ず不正を暴く、とは言えないからね。下手に手を出して俺達が失敗した時に巻き込まれたら目が当てられないでしょ。だから、事が済んだら連絡はするから、その時に頼むよって事で」

 ふむ、と頷くアルザハッドは上を見上げて目を瞑る。

「解った。その時は迅速に行動しよう」

 向き直って九十九を見たアルザハッドは覚悟を決めた表情だった。

「んじゃ、この袋に何か入れてくれない?」

 懐から出した袋は前に金貨と宝石を詰めて渡した物だった。

 アルザハッドは憎悪を持って睨んだ。貴族のあり方を少年の身で理解した。虐げる者を憎み、憤る心を持っていると思ったのだ。互いに分かり合えた、憎いと思っても心の底では一本の太い芯がある少年だと考えたのだ……。

 だが、結局は金をせびりに来ただけ……。

「ある程度重いもんでいいよ。金貨が袋一杯に入っているように見えれば中身は石でも何でもいいから」

 九十九の言葉に理解が追いつかなかった。

「……なんのためだ?」

「子爵の手下が見張っている可能性もとりあえず考えて置かないとね。特に裏の世界でも有名な人なんだから、色々と防衛策は持ってるでしょ。なら、身の回りと自分を狙うかもしれない政敵、配下の男爵に不穏な行動がないか、最低でもこれくらいは警戒してると思う。

 だから、下手に警戒心を煽っても意味無いから、表向き何かの理由で傭兵が金を取りに来たと思わせれば、今まで通りに警戒するんじゃないかなぁ~?」

 アルザハッドは睨み続けていた。少年の言葉は憶測でしかない。だが、子爵を身近に知る者であれば真実だと言える事だからだ。

 子爵の位を持つ貴族であり、この辺りの裏社会に顔が利く男ならば、もっと数多く、もっと多方面に密偵を放っているだろう。

 忘れてはいけないと思いながら、しかし、実際に触れる事が無く、目に見えるわけでもないためにどうしても軽んじてしまっていた。

 そして、睨んだままであった理由は一つ。少年の身でここまで慧眼を持っている事だ。白竜を従え、頭虎族を従え、ケット・シー族も従える。そら恐ろしく思う。

 背中を伝う冷たい汗を感じながら、テーブルに置いてある呼び鈴を鳴らした。


 カルウェに見送られ、九十九とエルは外門を抜けた。

 終始黙っていた虎がぽんと頭に手を置く。

 視線を向けると不思議そうに覗き込んでいる。

「どったの? エル変だよ?」

「余りにも手馴れている交渉に驚いているのだよ。特にこれは俺も思いもよらなかったからな」

 苦笑を浮かべるエルは腰に下げた袋をぽんと叩いた。

 結局、アルザハッドは金貨五十枚相当の銀貨と銅貨を袋に詰めてくれた。

 見た目さえ膨らんでいればどうでも良かった九十九だったが、何かの拍子に中身を調べられるかもしれない、と言われて従う事にした。了承した様子にアルザハッドの頬が緩んでいた気がするが気のせいだろうか……。

 九十九は頬を掻き、背後を見て男爵邸から離れた事を確認すると、通りや建物にも視線を送り、何か安心したように路地へと入った。

 エルの体躯では身体を横にしなければ通れないほど狭い通り。いや元々道として考えていない建物の隙間だ。

 虎は小便かとも思ったが、回りに居る人よりも男爵邸を意識していた相棒の行動に訝しげに思って隙間を覗いた。


 そこには震える膝を押さえ、壁に寄り掛かる九十九が居た。


「ど、どうしたのだ?」

 エルは追い討ちをかけられたように驚いた。歴戦のエルですら初めて味わう最大級の殺意を浴びた事があり、少年の身で魔獣を倒すほどの実力者。さらに先ほど貴族の大人を相手に堂々たる交渉をやってのけたのだ。

 それが、まるで森の中で迷子になった子供のように身体を震わせているのだ。

「い、いやぁ……さすがに他人の命を巻き込む交渉は緊張するよ~……」

「し、しかし、レミュ殿の時も堂々と交渉したと……」

 ここまで狼狽える虎を見るのは初めてかもしれない。

 外側から見れば建物の隙間に身体を入れて狼狽えている虎。とても珍しく笑える光景だろう。

「あ、あの時は怒り任せだった、からね……。冷静に、なればさすがに……」

 身体を震わせながら、なんとか大きく深呼吸を繰り返す。

 エルは隙間に腕を入れ、頭を撫でた。少しでも落ち着くように願いながら。


 九十九は震える身体を押さえ付けながら、頭を撫でる感覚に身を預けていた。

 今の九十九は緊張から解かれて心の制御が出来なくなっていた。

 口にした通りに他人の命を背負う責任に押し潰されそうな重圧を受けていたからだ。

 今のタガが外れた心は脆い。とても脆い。脆い心を硝子と表現される事があるが、それほど硬い物質では無い。今の九十九は濡れてふやけたダンボールほど。

 頭を撫でてくれるエルが優しい言葉をかけても、逆に叱責したとしても涙を流して蹲るだろう。

 それほど弱っていた。


 震える身体を押さえる相棒の機微に気づいてくれているのか、エルは一切口にせず、黙って頭を撫でて落ち着くのを待っていた。

 こちらも口にした通りに驚いていたが、関心もしていた。

 だが、やはり改めて思うのだ。異世界の者である事はすでに疑う気持ちは欠片も無い。不殺を貫くという、この大陸ではまったく考えられない思想を心に留めているのだ。この世界とは遥かに平和なところから来たのだろう、と確信を持てる。

 そして、その考えを心に秘めた少年が考えて行動した事は、男爵への一手。

 エルならば保険程度だと考える。いや、むしろ良く気づいたと褒めるべき一手だ。

 相手がどれほどの力を持っているか解らない今、成功した場合は事後処理を円滑に進められるだろうし、失敗した場合は今まで通りに男爵の裁量で隠しても、志を同じくする者を募る手札として利用しても良い。

 男爵には九十九の行動が義憤に駆られた傭兵の勇み足に見えているはずだ。ならば手持ちの情報を公開する事で似た考えの傭兵を集める事が出来る、と考えれば御の字だと思う。

 まぁ、失敗した時点で九十九達の命は無く、後に続く同志が居ても居なくてもどうでも良いのだが。

 そこまで考えての事かどうかは解らない。だが、九十九は必要だと考えながらも罪悪感があるようなのだ。

 奇麗事だけでは出来ない事も知っているはずだ。しかし、頭で理解していても心が拒否している。

 今にも吐き出しそうに蒼い顔をしながら身体を押さえる。

 自分の心を偽りながらも虚勢を張った相棒を見て、エルは必ず成功させると心に強く誓った。






 遅くなりまして申し訳ありません。

 リアルとの兼ね合いに苦しみながらの投稿です。


 次回も一ヵ月後になりそうですが、待っていただける方はゆっくりとお待ちください。

 よろしくお願いします。


 誤字、脱字、文法ミス、質問あればお気軽にどうぞ。


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