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外伝 -虎- 02



 トラッド国。頭虎族の一部族であるトラッド族が建国した国である。その後、交流のある他部族が合流し、トラッド族を頂点に最も大きな群部族になっている。当然、性に合わないという理由で合流しなかった部族もあるが、トラッド国は無理に吸収しようとは思わず、他部族を尊重し、トラッド国内に十分な広さの居住地のような地域を設けている。今のところ部族間で争う事は無い。

 トラッド国は実力主義によって統治されており、年齢や部族に関係無く、必要な能力を持つ者が上に立っている。

 頭虎族には二つの特徴がある。

 まず種族名にもなっている通り、見た目は頭が虎で身体が人である。黄、白、黒の体毛に覆われ、その身、骨格は男女共に戦うために特化した身体と言って良いだろう。

 男性の頭虎族は力に特化しており、鍛えずとも人間を凌駕する体躯になり、鍛える事で頑強な巨躯となる。

 女性の頭虎族は速さに特化しており、人間では辿りつく事の難しい速さの世界に容易に足を踏み入れるほど。猫科特有のしなやかな筋肉と女性特有の柔らかさを備え、毎回人間が決める最も触りたい異種族の上位になるほどらしい。

 やはりと言うべきか、野生の本能なのだろう。男性体は狩りのために力に特化し、女性体は子を育て生き残る事を重視するために速さに特化している。

 二つ目は男女共に全頭虎族に共通している。

 頭虎族の武器は徒手空拳である。ただし、両手両足に生来より備わった〝爪〟と〝牙〟を用いる。

 人間は長年の研究によって鉄製、鋼製の武器や防具を生み出したように、頭虎族は長年の闘争によって生み出した種族特有の力がある。

 個々が内在する魔力を活性化し、爪や牙に鋼の強度をもたせ、尚且つ活性化した魔力が宿るため、人間が作り出す魔法剣と同等の能力を有するのだ。

 爪は両手両足にあり、牙を合わせると頭虎族一体で魔法剣を五本装備している状態だ。


 魔法剣とは基本的には刃毀れを起こさず、切れ味が増すと考えれば良い。付与魔術師と腕の良い鍛冶師が合同で作った魔法剣になると基本性能に四大属性のどれか、もしくは操作や石化など呪いに分類される魔術が追加されていたりする。

 基本性能だけで鋼の鎧を断ち斬る事が出来るのだが、頭虎族は全員が魔法剣の能力を有し、さらに五本持っているも同然。

 頭虎族の戦闘能力がどれほど高いか解るだろう。


 そして、頭虎族には上位種とも言うべき存在が居る。

 人間の中にも天才、鬼子などと呼ばれる者が生まれる事があるが、頭虎族にも似た状態の子が生まれる事があるのだ。

 白虎である。白と黒の体毛しか無い希少種。

 稀少であるために色素欠乏症とも突然変異とも言われた事があるが、通常の黄色の体毛が混じる頭虎族と比べて肉体的にも精神的にも上回っており、選ばれし子と呼ばれている。生まれながらに潜在能力が高いため、ある程度の年齢になると全員が政治の中枢に組み込まれるのだ。

 そんな特殊な国家であるトラッド国のとある家で子虎が生まれた。両親は喜び、これから子育てによる幸せで大変な生活になると約束されたようなものだ。両親は生まれた我が子に『優しき虎』と言う意味の名を付けたのだった。




 十数年後、両親の厳しくも優しい愛情を貰った子虎達はトラッド国の兵舎に集められる。

 全てでは無いが、この年代の頭虎族は兵舎で過ごし、戦う術と心構え、頭虎族の歴史と信念を心身に刻み付ける。理由としては有事の際に国や仲間のために戦う訓練であり、己の力を制御するためでもある。

 頭虎族が最初に覚えなければならない事は力の制御だ。

 酒の席で人間同士が背中を叩きあったりする光景を見た事あるだろう。頭虎族が何も訓練無しに人間に行うと、運が良くて壁に叩きつける。運が悪いと衝撃で背骨を叩き折り、内臓を破裂させてしまうだろう。それほど筋力に差がある。

 ちなみに制御とは力を抑えるだけの事ではない。必要な事に必要なだけ力を入れる事を制御と呼ぶのだ。

 通常、子虎たちは制御の訓練を二ヶ月ほどで覚える。覚えが悪い子虎でも三ヶ月くらいだろう。その中でとある子虎は半年掛かった。

 本人は理由がまったく分からず、才能が足りないのだろうと落ち込み、教えてくれた教官も首を捻るばかりだった。

 だが、同年代の子虎たちより遅れる事三ヶ月ほどだが、そこから先はまったく問題が無かった。

 むしろ、武技を覚えるのは虎一倍早く、一年ほどで同年代に追い付き、徐々に他を追い抜いていくようになった。

 同年代の子虎達は羨望と嫉妬の眼差しで、とある子虎を眺め、武技を教えた教官達は眼を見張る成長振りに誇らしげに眺めていたのだった。


 ある日の夜、兵舎に併設された鍛練場に、とある子虎は呼び出された。

 呼び出したのは一年以上教えてくれた教官で、名はカーマ。歴戦の戦士であり、全身傷だらけである。片耳は半ばから斬られ、左腕は肘から先は無い。戦いで断ち斬られたのだ。

 その傷は全て仲間を守るために付いたもので、当時の王はそれを称えて頭虎族では珍しく〝隻腕〟の二つ名が与えられた。

 トラッド国では知らない者は居らず、誇り高く生きながら英雄と呼ばれる頭虎族である。

「来たか……」

 月を背に立つ歴戦の戦士は鍛練場の真ん中で空を見上げていた。円形に整えた場は踏み固められ、子虎とカーマだけでは余りにも広すぎる。端には雑草が生い茂り、虫たちが大合唱を繰り返していた。少しだけならば涼しさを感じるかもしれないが、カーマを中心に包囲する虫たちは煩わしいの一言に尽きる。

「カーマさん。僕に何か御用ですか?」

 子虎は呼び出された理由が解らなかった。毎日の基礎は怠った事が無く、掃除や洗濯といった先輩戦士達の下働きも疎かにした事も無い。一週間に一度、近隣の森で行われる演習と魔獣や妖魔などの討伐にも参加し、失敗らしい失敗はしていないはずだからだ。

「うむ。実は最近他の者達が噂しているのだ。お前が増長している、慢心していると……」

 カーマは見上げてくる子虎の瞳をじっと見ていた。カーマの言葉に苛立ちは無く、本当にそんな噂があるのかという疑問を浮かべている。

「その者が言うには演習や討伐、試合などで勝利しても喜ばないからだと言うのだ。手を抜いて片手間に戦いに臨んでいると。勝って当たり前、自分よりも弱い相手だと言われている気がすると言うのだよ」

 苦笑を浮かべて肩を竦める。子虎同士切磋琢磨する事はとても良い事だ。だが、集団であるがゆえに中には劣等感を抱く者が出てくるものなのだ。

 見上げる子虎の頭を右手で撫でる。ちょっと乱暴に、気にする事は無いと伝えるために。

 自信を失い、己が弱いと考えている者からすると、敗北させられた強者のほんの些細な事が気になってしまう。

「……正直、手応えが無いと最近思うようになりました……」

 だから、カーマは子虎の言葉を聞きながらも理解出来なかった。

 自ら不満を口にしたのだ。まるで本当に手を抜いていると。

 確かに目の前の子虎には類稀な武の才能があると思っている。当初は努力を重ねても劣っていたのだ。だが、今では今期の子虎達を教えた教官全員が才能があると口にし、感じていた。ゆくゆくは名を馳せる事になり、カーマを超える逸材かもしれないと。

 だが、それは後数年経った後だろうと考えていた。子虎達は肉体的にも精神的にもまだまだ成長途中であり、経験次第で誰もが強くなる可能性がそれぞれにあるのだから。

 目の前の子虎は真面目な性格で冗談を好んで言う子虎では無い。だから、本当にそう思っているようだ。

「……ならば、俺と本気で戦ってみるか?」

 カーマの提案に子虎は驚きと共に苦悩するような表情を浮かべ、数瞬後に頷いた。

 決意を感じた。何かも探しているような、求めているような視線。

 カーマはじろりと両眼で睨んだ。威嚇するためでは無い。子虎の言葉と身体の動きを見て力量を確かめるためだ。

 言葉にするならば、戦場で培った洞察力だ。戦いであれば相手の筋肉の動きや視線で次の攻撃方法、方向を予測出来る。日常生活では身体の動き、視線によって精神状態を察する事が出来る。表面的な部分だけではあるが相手の心の機微を敏感に察する事が出来るだけで、心の奥底を覗き見るようなものでは無い。

 子虎はカーマに睨まれても、気丈に見上げてきた。力を発揮する拠り所を探しているのか、それとも好敵手を求めているのか、合っているような気はするのだが、たぶん違う。

 自分以外を当てにしているようだが、本質は自分の内の問題……なのかもしれない。

「ふむ……」

 感情的になって頷いたわけでは無いようだ。

 ならば。


 カーマはゆっくりと下がり、片腕を上げて構えた。

 半身を向けると、子虎もまた構えを取る。

 視線を交わし、頷く事で開始の合図とした。


 子虎の姿がブレた。身体を揺すり、左右へ移動するフェイント。だが、カーマはすでに予測している。子虎は半身で構えるカーマの背後へと移動していた。

 隻腕であり、半身で構えるカーマには背後からの攻撃に対して反応が遅れる。だが、敵対する相手の一手は背後からの強襲を高確率で選ぶ。それはカーマの実力を測るためか、命のやり取りでリスクを極力減らすためだ。

 そのため、カーマは背後からの強襲に驚きは一切無く、最も対応に慣れているのだ。

 子虎は飛び込む勢いを手刀に乗せて突いた。

 カーマはゆっくりと子虎へと向き直り、移動と同時に突き手を右手で払うと体勢を崩した子虎の下から右足で蹴り上げた。

 子虎は蹴り出された足に乗り、トンボを切って宙返りを決めると、着地と同時にカーマの軸足目掛けて飛び掛った。

 蹴り上げた足はまだ宙にあり、軸足を刈られてしまえば片腕の無いカーマは体勢を立て直すには数瞬の間が必要となる。

 だが、軸足を狙って地を這うように迫るのならば、宙に上げたままの足を振り下ろせば良い。

 踏み潰す勢いで足を下ろす。子虎は四肢を突っ張り、急制動を掛け、腕と足の力を合わせて横へ飛ぶ。

 連続攻撃を止められ、警戒しているのだろう。子虎は飛んだ先で一瞬止まった後、右へ左へと大きく動き、カーマの意識、体勢を崩そうと動き回った。少しでも子虎の行動に釣られてしまえば即座に襲う腹積もりだろう。

 カーマは目で何とか追える子虎の姿をじっと見ていた。


 子虎を見ながらカーマは思う。

 残像を残すほどでも無いが、今期の教官全員が感じたように同年代の子虎達には無い才能の片鱗が現れていた。

 体力任せに盛大にフェイントを駆使している姿は一生懸命に仕事をする子虎の姿だ。

 増長や慢心があるならば、軽く手合わせするだけで説き伏せるつもりだった。己の力に溺れているのであれば、叩き伏せようと考えていた。

 しかし、子虎の瞳には苛立つ様子も焦る様子も無い。愉悦も無い。

 ただ、自分の力を確かめようと、試そうと必死に爪を振り回している。まだ短い腕を、短い足を伸ばしているだけだ。

(急激に成長したと言うのか……?)

 カーマがフェイントに一切動かないために焦れたのだろう。子虎が大きく横へ移動し、カーマの背後へ回ると、再度突撃を敢行する。

 貫こうとする意思が伝わる右爪を右手で払い、払い返した右手を握って裏拳を子虎の頬へ放つ。子虎は追撃用に繰り出していた左爪を防御へ回して防ぐ。

 子虎の持つ一瞬の判断、武の才能は正確に放たれた裏拳を左の掌で受け止めた。が、込められた力を吸収出来ず、大きく後退りして衝撃を散らす。もし、読み違えて裏拳と刺し違えようと左爪を突き出していれば、カーマの身体に爪が届く前に頭を強打して昏倒していただろう。

 返し技にそれほどの力を込めていたカーマの実力もさることながら、たった一瞬の攻防で防ぐべき攻撃を察して防御に持っていった子虎も凄い。

 愚直とも思えるほど、背後へ回って突撃を繰り返す子虎に、カーマは落ち着いて動きを見る。

(いや……。自分の力に身体が付いてきていない……のか……)

 カーマが突進と同時に突き出された爪を摘むように掴んで止めた。白刃取りを片手で行ったのだ。

 相手が子虎であるために出来る芸当で成長した頭虎族には出来ない。片手で覆えるほど小さな手だからこそ出来るのだ。

 それを理解しているとは思えない表情で子虎はカーマを見上げた。力量の差に驚いているのかもしれない。

「落ち着けそうかね? どうにもお前は力を──」

「ほ、本気で行っても良いでしょうか……」

 諭そうとする言葉を断ち切った子虎の言葉は信じられないものだった。

 フェイント、体術、膂力。どれも同年代の子虎と比べれば一桁以上違う。生来から武に愛されていない大人の頭虎族も居るが、目の前に居る子虎はすでに幼い身でありながら、その成長期を終え才能がなかった大人の頭虎族の武をすでに超えている。

 超えていると実感していたカーマだが、子虎はそれを否定した。

 まだ上があると言うのだ。

「……見せてもらおうか」

 子虎の瞳は意固地になっている様子は無く、言うなればやっと本気を出す事が出来る事に喜んでいるようだった。

 それを感じ取ったカーマは自然と掴んでいた手を離してしまった。

 離されたと同時に子虎は大きくバックステップをして、距離を取った。

 カーマは悠然と半身に構えた。


 本当ならば、このタイミングで諭すのが一番良かったはずだと経験豊かなカーマは解っていた。

 子虎が全ての力を出し切ってから諭すのであれば、自信を失わせるかもしれない。

 しかし、解らせた上で諭すのも良い場合もあるだろうとも知っている。

 一瞬の葛藤があったが、下したのは後者。

 理由は簡単な事だ。カーマは少し、嬉しかったのだ。すでに頭虎族の中では老年に分類されるほど歳経ており、まだまだ戦えると口にして衰えが無い事を見せようとしていた。

 だが、戦場に向かおうとすると、必ず引き止める者が現れた。

 ある時は白毛の頭虎族が現れ、頭虎族の英雄であり、象徴なのだと諭し。

 ある時は身に宿る武に衰えが無いと知っているはずの若い頭虎族が、目標を失いたく無いと引き止める。

 目標であり、象徴であるカーマには二度と戦場を与える頭虎族がいなくなっていた。

 ならばと、教える者として未来の戦士達へ色々教える立場になったが、全てを体得する子虎は現れなかった。当然だろう。数十年という長い年月を経て、戦の場で命を賭して練り上げて作ったカーマの戦術理論、体術理論は実戦的だが、特殊な技術の結晶だ。

 戦場の空気、感覚を全て使った闘法であり、最低限でも成長期を終えた成年頭虎族の身体を基礎とし、数回の実戦を経験している者がやっと技術の片鱗を理解出来るかどうか、それほど体得が難しい。

 未熟な子虎がカーマと同じ闘法を体得する事は絶対に無い。

 それでも子虎たちに教え続けてきたのは、体得する事が目的では無く、知識としてだけでもカーマの理論を教え、それぞれがそれぞれの思考と経験、動きを加えた独自の闘法を作り出して欲しいと思ったからだ。


 長く思考の海を漂ったカーマだったが、全て自己弁護でしか無いと理解している。本当の気持ちは唯一つだからだ。

 闘争に身を置きたいだけ。

 確かに数え切れないほど戦友を守り、英雄と呼ばれるほど名を挙げた。だが、逆を言えば何度も劣勢の戦いに身を投じてきたと言う事だ。誰にも言った事は無いが、劣勢の戦場ほど心が躍った。

 自らを省みて気づくのだが、心のどこかが壊れていると思うのだ。死を求めているのでは無い。死を間近で感じる事で生きている事を実感していた。

 そして、教える立場になって自分の危うさに気づいた。だから、戒めるようになった……。


 ……なったのだが、その壊れた心が疼いた。

 意識を前に向けると子虎が全身に力を入れていた。

 体毛が逆立ち、牙を剥き出しにして力を溜めている。

 子虎の身では殺気を帯びる事は無いが、闘志は十分に感じる。

 先ほどまでの力でも十分に強い事は肌で感じた。まだまだカーマの域には届かないが確実に手負いのカーマよりも才能がある。

 ならば、と。

 カーマも本気で相手する事にした。

 武を身に付け、仁義を胸に刻みつけた頭虎族なのだ。〝本気〟と口にした以上は〝本気〟で相手にするのが礼儀だと考えている。大人気ないとは思わない。子虎には警戒するに十分な雰囲気を持っているのだ。

 子虎にカーマの気持ちが伝わったのだろう。闘志剥き出しの獰猛な表情に笑みが浮かんだ。


 合図は何も無い。

 子虎の両手両足が闇に同化し、消えたように見えた。余りの速さに眼で追えなくなっている、とも一瞬思ったがそうでは無い。

 乳白色で、鋭い爪先が眼に見えて伸び、まるで闇を吸収するかのように黒く変色し、黒が爪を染め上げ、そのまま黄色の体毛に侵食していく……。

 頭虎族は特殊な者を除いて、三色で構成されている。黄色の体毛に白と黒の文様である。

 だが、目の前の子虎は見る間に黒色こくしょくの体毛に白の文様のみに変容していった。

 白虎の正反対に位置する黒虎……。

 古い文献にしか記されていない伝説の……。

 子虎の若々しさを示しているかのように綺麗な金色こんじきの瞳が、血を浴びたような赤へ……。

 血生臭い、どす黒い赤へ……。

 変貌が終わると、歓喜にも似た笑みを浮かべ、子虎が消えた。

 足が闇に消えたかと思った瞬間に子虎の姿そのものが消えたのだ。

 子虎が居た場所には土を大きく抉った後があり、踏み込む力が増えた事を示していた。


 カーマは辛うじて子虎の動きが見えていた。カーマの背後へ回り、地面を踏み締めて肉迫すると、黒爪が振り下ろされた。

 先ほどまでの余裕はまったく無い。

 半歩身体を左後方へと下がりつつ、身体の向きを変える事と同時に迎撃体勢を整えると、黒爪を自らの爪で抑えた。

 目の前に変貌した子虎が居た。黒爪がじりじりとカーマの爪を圧していく。間近で見る赤い眼にカーマは身震いした。

 愚直なまでに一生懸命だった子虎の片鱗は無く、狂気と殺気、それを危険な歓喜が包み込んでいるように感じる。

 身体が黒色に変化しただけで、ここまで変わるのだろうか。

 獰猛な気配が鍛練場に広がり、煩かった虫たちが沈黙した。

 圧し切ろうとは考えなかったのか、小さな黒虎がカーマの腕を砕くつもりで蹴り付け、その反動で距離を取った。子虎が離れた瞬間に子虎が居た空間を断ち切る刃が下から真上へ。

 カーマの右足である。最初の時は足の指を握り、爪で斬ろうとはしなかったが、今回は触れれば肉を引き裂くほど力を込めた足爪が蹴り上げられたのだ。

 しかし、子虎は余裕を持って動く。俊敏に、鋭敏に。


 月夜が照らす鍛練場を固唾を呑んだように静まった虫たちが見守っている。他に観客はいない。だが、それで良かっただろう。

 鍛練場を縦横無尽に動き回る黒い塊りが、中央に立つ隻腕の頭虎族を翻弄している。

 そんな英雄の姿は憧れや崇拝に近い感情を持っている者には見せられない姿だからだ。


 すれ違い様に黒い塊りが撫でるように皮膚を裂き、カーマが反撃しようとするが、すでにその場には姿が無く、予想を超える方向から第二、第三の黒爪が襲い掛かってきていた。

 洞察力を使えば負ける事は無いと考えていたカーマであったが、姿を正確に捉えられない相手に洞察する暇は無く、斬られたと気づいた時にはすでに遅い。いつかは切り裂かれ、出血で命を落とすだろう。

 それほどに追い詰められていた。

 だが、劣勢に追い込まれながらもカーマは口元を緩めていた。

 久しぶりに感じる戦場の空気なのだ。

 本物とまではいかないが、十分に身の危険を感じる。


 だから、カーマは本当の意味での〝本気〟を出す事にした。

 まだ子虎達には教えていない。カーマ個人の弟子にも教えていない。今は亡き戦友達にしか教えていない本当のカーマを。

 三色の体毛に赤を混ぜ、斑文様となったカーマが全身に力を入れた。

 切り裂かれた傷から血液が噴出したが、すぐにそれも収まる。

 盛り上がった筋肉が傷をふさぎ、カーマの身体が普段よりも少し厚みを増した。

 黒色に変化した子虎はカーマの行動を見ても手を緩めようとは考えなかった。

 最大の速力を持ってすれ違い、カーマの皮膚を切り裂く。突き刺す方が肉を深く抉る事が出来る。解っているが、今の速度を維持出来ればカーマは姿を捉える事無く、倒せるはずだ。ならば、危険を冒して闘い方を変える必要は無い。

 十数回ほど皮膚を切り裂いていた子虎はカーマの変化にやっと気づいた。身体の厚みにでは無い。

 最初は切り裂いた皮膚から出血があり、身体を赤く染め上げていたのだ。

 だが、今は違う。切り裂いたと同時に黒爪が皮膚に引っかかり、速力が削がれているように感じる。実際、血を噴出すと同時に傷が再生しているように元通りになっている。まるで水を吸った砂に爪を差し込んでいるようなのだ。

 さらに皮膚を切り裂こうと速力を上げ、カーマへと肉迫した子虎。

 黒爪が皮膚に触れそうになった瞬間、天地が引っくり返った。

 背中から地面に叩きつけられ、肺から強制的に空気を排出し、苦しさに咳き込む。

「俺の勝ちだな」

 子虎の首に分厚いナイフのような頑丈な上に鋭い爪を置いている。無理に動かせば頭と身体が離れるだろう。

 力を抜き、小さく一言。

「参りました」

 子虎の声を聞いて、カーマは安堵のため息を一つ。

 正直ぎりぎりの攻防だった。傷口を塞ぐほど硬く身体を締め上げ、無理やり切り裂こうとする子虎の速力を削り取った。そして、眼で追えるようになったために、攻撃の方向を知った。身体の動きを知った。その二つを使えば勝機がある。

 まだまだ細い黒色の腕を下から掴むと、進行方向の向きを変えたのだ。直線的な動きに下から力を入れて弧を描く動きに。余り阻害しないように力を込め、捻り、背中から地面に叩き付けた。

 一度だけしか使えない試みが成功し、肺に溜まった呼気を吐き出したのだった。

「いつから……その力に目覚めたんだ?」


 子虎はカーマ越しに空を見上げながら、問われた言葉を反芻した。

 生きる伝説とまで言われたカーマに本気で攻撃しても倒せる事はあり得ない。ならば、全力で戦ってみよう、と最初は考えた。

 そう思った瞬間、身体に流れたのは歓喜なのか……。

 ある時に気づいたのだ。心のどこかにシコリのようなものがあると。

 言葉にするのであれば制限だろう。

 イメージとしては平原の真ん中に建てられた小屋。不釣合いな頑丈で頑強な扉。

 開ける手段を知りえぬままに生きてきた。

 言われるままに、与えられた仕事をこなした。

 魔獣討伐の時、大量の魔獣を相手にした時に扉に隙間が出来たような気がした。その時の自分より強い魔獣だった。油断をすると命を容易に奪っていく強敵。互いに拳、爪、牙を交えた時に感じ取った。

 これだと。

 戦う事で扉が開かれると確信した。

 それから、演習や討伐、試合と拳を交える事に関してより一層真剣になった。

 だが、どれも扉を開く事はおろか、隙間さえ開けられなかった。

 子虎は扉の奥に可能性を感じていた。より強くなれるかもしれない、何かを悟る事が出来るという可能性を。

 それから数ヶ月くらいだろうか、違和感が心に付き纏った。なぜか実力差が開いていく仲間との試合。必要だと思いながらも本気になれない演習。油断出来ないと己に言い聞かせながら、何かが足りない討伐。

 今、カーマと拳を交えて何か感じ取れれば良いと願った。

 強く、強く願った……。


「少し前に……全身に身体を入れたら……」

 そうとしか答えられなかった。隠そうという意図では無く、いつのまにかこうなっていたのだ。

 子虎の言葉を聞いたカーマが複雑そうな表情を浮かべ、たった一言呟いた。

「…………そうか……」

 末恐ろしい『武』だった。カーマが長年培った戦場での経験と異常なまでの肉体硬化の技術が出来なければ負けていただろう。油断していれば両手を持っていても……。そう思うほどに凄まじい力を感じた。

 そして、最も気になる事は本気で倒そうと闘争本能を顕にした子虎の変化だった。

 今は力が抜けたのか、普通に三色の体毛がある。だが、先ほどまで黄色い体毛が闇に侵食されたように消えた。いや、黒い体毛が増えたのかもしれない……ともかく、この横たわる子虎は異常だ。

 黒い体毛に白い文様の二色。

 それはトラッド国の頂点に立つ白虎とは相反する黒き体毛を持つ黒虎。

 頭虎族にとって忌まわしい記憶だ。

「明日、我がカーマの名において特別な訓練をしてもらう。個人での訓練となるだろう。明日は仲間に挨拶しておけ」

「特別、ですか?」

「んむ。俺の師匠にお前を紹介する。そちらで腕を鍛えればもっと強くなるだろう」

 子虎の腕を掴んで立たせると、部屋に戻って疲れを取るように指示した。

 少し満足気な小さな背中が見えなくなると、カーマは空を見上げ何か呟いた。独白する言葉は誰の耳にも捉えられず、少し涼しくなった空気に混ざり霧散していったのだった……。




 次の日、カーマは屋敷に訪れていた。応接間へと案内され、その部屋で待っていたのはカーマの師匠であり、頭虎族の上位種と言われる存在。

 白虎だった。

「久しいな。カーマ」

「お久しぶりでございます」

 柔和な笑みを浮かべた白虎が、カーマへと近づいて硬い握手をする。互いに忙しい身であるために滅多に会えない。色々と語り合いたい事がたくさんある。だが……、白虎はその気持ちに気づいているのか、苦笑を浮かべてカーマの肩へ手を置いた。

 それだけで互いに分かり合えた気がした。

 カーマもまた苦笑を浮かべて返答とした。

 そして、互いに旧交を温めた事を確認しあうと、真顔になる。

 白虎が重く口を開いた。

「話は聞いている。出来る限りやろう」

「子虎をお願いします。その者の名はエルーム……。エルーム・ガイゼムです」














 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 次回、三部を投稿するか、さらに外伝を挟むのか未定ですが、必ず投稿しますのでよろしくお願い致します。


 しかし、リアルの都合で今年中に投稿は出来ないと思います。

 予定としまして、来年の中盤頃になるかと思います。気持ち次第で前後しますがよろしくお願いします。


 誤字報告、質問、感想、その他諸々は随時受け付けておりますので、お気軽にどうぞ。

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