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さっきのいたずらっ子よりも、もっと小さな子供たちが、膜に近寄ってきた。
膜に触り、膜の中のクレイたちを見て、珍しそうに目をぎょろぎょろさせている。
「この子たちは、陸の上で生活する人たちを見るのが初めてなんです。手を振ってあげてください」
先生の言葉に、クレイたちが手を振ってみると、小さな魚人たちは驚いたように膜から飛び離れた。
そのまま、大人たちの方に逃げる子もいれば、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべて手を振り返してくれる子もいた。
「君たちの後輩になる子かもしれませんよ。楽しみですねえ。それでは、少しだけ魚人たちについて話をします。メッチェさん、少しだけお願いできますか?」
子供たちに拳骨をくらわせた、男性の人魚が笑顔で近づいてきた。
「さあ、皆さん、集まって。今から魚人の体について少し話をします。皆さんと違うのは、ここですね。エラです」
人魚の男性は、横を向いて首をみせてくれた。そこに、クレイには無いものがついていた。これがエラなのだろう。皮膚に切れ目のようなものが走り、それが定期的に開いたり閉じたりしている。
「魚のエラがどんなものか知っている人はいますか?」
吸血鬼の男の子が手を上げた。
「はい、マクガン君」
「呼吸をするところです」
「そうです。水中に溶けている酸素をここで吸収します。この器官は魚人特有のものです。陸の上の生き物には見られません。では、ええと、ケマー君の首をみせてもらいましょうか……」
魚人のケマー君が前に出て行こうとした時、ジャミンが鋭く息を吸いこんだ。
「先生!あの子が!」
悲鳴のような声で、そう叫ぶ。
驚いてジャミンの指さす方を見ると、さっき、膜にぶつかって笑っていた男の子がいた。
ただ、不思議な事に、人魚であったはずのその子に足が生えていた。いたずらっ子の表情は無く、どこか呆然とした顔でこちらを見ていた。そして、だんだんと顔色が悪くなっている。
周りの魚人の大人たちも、男の子の異変に気付いたようで悲鳴が上がった。
コッコメット先生が早口で呪文を唱えると、クレイたちを乗せた膜がいきなり動いた。
急発進に、クレイたちはつんのめって転ぶ。
ザパンと水の音がして、男の子と水が少しだけ膜の中に入って来た。
ジャミンとケマー君が男の子に駆け寄り、背中を叩いて叫ぶ。
「息をしなさい!」
「肺を動かせ!できるだろう?ハウル!」
コッコメット先生も、男の子に駆け寄る。
ハウルはすぐに口から水を吐きだし、肩を大きく上下させた。
「そうそう。上手ですよ。ここに肺ができています。それを大きく広げると息が吸えます。その後、絞って吐きだしましょう」
ハウルという名前の男の子は、苦しそうに何度も呼吸をした。
魚人の大人たちが、心配そうにハウルを見ている。子供たちもそうだ。
ハウルの苦しそうな呼吸音は、すぐにだんだん穏やかになっていった。
コッコメット先生が、魔法で水色のローブを出して、ハウルに着せた。なにせ、ちんちん丸出しだ。
「もう大丈夫ですね。大丈夫です」
コッコメット先生は、魚人の大人たちを安心させるように、そう言った。
「ハウル君は、このまま陸へと行きましょう。ケマー君たちから、変身のやり方を教わってから、お家に帰りましょうね」
ハウルは「はい」と返事をした。
そして、自分の足を見て、ぱっと笑顔になる。
「オレ、変身できたよ!これで、マーリークサークルに通えるよ!!」
嬉しそうにそう叫んで、「お父さん見てー!」とメッチェさんに向かって叫んでいた。
「馬鹿もん!変身するときは浅瀬でしないと危険だと、何度も言っただろうが!」
メッチェさんは額に青筋を立てて怒っていた。膜がびりびりと震えるくらいの怒鳴り声だった。ハウルは、父親の怒りを感じて、「ごめんなさい」と謝った。
「ハウル、ハウル、苦しい所は無いわね?」
女性の人魚が、不安そうな顔でそう聞いた。おそらく母親だろう。膜があるせいで、ハウルに触れられないのがもどかしそうだ。
「大丈夫だよ、ちゃんと息もできるし、歩けるよ」
「……足の指を動かせるか?」
お父さんの方も、怒ってはいるが、それより心配の方が勝っているようだ。膜の外で、息子の動きに目を凝らしている。
「おい、ジャム、どけよ」
メーラの言葉に振り向くと、ジャムが獣の姿でメーラの背中に飛び乗っていた。
「足が濡れるんだもん!」
見ると、ハウルと一緒に入って来た水で、クレイの靴も濡れていた。
「申し訳ない。約束を守れませんでしたね。陸に戻ったら、皆さんの靴を乾かしますので、少しだけ我慢してください」
コッコメット先生が、生徒たちに謝った。
「そんなの良いです。しょうがないです」
クレイがそう言うと、他の子も同意してくれた。
「さっきの話の続きになりますが、魚人はえらで呼吸し、陸の生き物は肺で呼吸します。酸素の取り入れ方が全く違います。なので、陸の生き物たちは水の中では呼吸ができません。溺れてしまいます。逆に、私達魚人は陸では呼吸ができません。私や、ここにいる魚人の生徒達は、変身魔法を使って、呼吸の器官を変えています。なので今、エラはありません」
ケマー君とジャミンが首元をみせてくれた。そこに切れ目は無かった。ハウルの首にも無い。
「マーリークサークルに行きたい魚人の子供は、まず、この変身魔法を覚えます。しかし、さっき見たような事故が起きることがあります。水の深い所で肺呼吸になってしまうと、呼吸ができなくなってしまうからです。呼吸ができないまま泳ぐのは大変です。今、見たのでわかりますね?皆さんもこれから授業で変身魔法を勉強すると思います。しかし、変身する生き物の体の事を知らなければ、とても危険な目に遭います。陸で魚に変身してしまえば、呼吸ができなくなって苦しい思いをします。変身魔法を使うときは、一人でやらない事が鉄則です。覚えておいてください」
「はい」
子供たちの声は硬かった。
ハウルが溺れかけた事実が、とてもショックだったためだ。
魔法は便利だけど、ある意味、強制的な部分もあるのだ。肺呼吸になれば、水から酸素は得られなくなる。魔法は万能ではない。ちゃんと計画を立てて使わないと、さっきみたいなことが起きる。
「毎年、必ず一人はああやって溺れかけるわ。死んじゃう子もいるの。ハウルはラッキーだったわ。私たちが傍にいたんだもの」
魚人の女の子が、ぼそりと言った。名前はサミアと言ったはずだ。
「陸でも同じような事故が起きています。そういう事故を起こさないためにも、皆さん、しっかり勉強しましょうね」
コッコメット先生が、そう言った。
陸に上がると、ジャムや獣人の子たちは、一目散に草地へ駆け出して行った。
「やっぱり、地上が一番だ!」
そう言って、獣の姿で地面に寝転ぶ。
「マーリークサークルだ!お城だ!わあ!すごい!聞いてた通りだ!!」
ハウルが興奮したように叫ぶ。
「初めて見たの?」
「うん!だって、今日初めて変身できたんだもん!やっと来れた!オレも来年から、ここに通うからね!」
ハウルは、余程嬉しいらしく、そう言って砂浜をピョンピョン跳ねまわる。
「ほら!遊んでないで帰るわよ」
「ええ!?もうちょっと、ここにいたいよ!お城の中も見たいよ!」
「ダメよ。お城に入るには、生徒にならないとダメなの。あんたが入れるのはベーベクラスくらいよ」
「じゃあ、ベーベクラスで良い。行きたい!」
ハウルは、キラキラとした笑顔でそう言った。
「ベーベクラスにも行ったことないの?」
クレイは首を傾げる。
ハウルのように魔法を使える子は、ベーベクラスに通うと聞いている。魚人たちはべつなのだろうか?
「魚人の場合は、ピッティー先生が来てくれるんだよ。湖の中でやるんだ。他の湖や遠い海だと、専門の先生がいるんだよ。陸にあがるのは大変だからね」
ケマー君がそう教えてくれた。
「そうなんだ。でも、そうだよね。変身魔法って難しそうだし……」
「うん、難しいよ。それに、危険だって言う人もいる。中には、陸に上がらず、一生を水の中で過ごす人もいるんだ」
危険という言葉は、クレイにもはっきりと理解できた。さっきの出来事を見た今、変身魔法を面白がって使う者は、ここにはいないはずだ。
ハウルは死にかけたのだ。しかも、呼吸ができずに苦しんで死ぬところだった。
それを考えると、クレイは背筋が震える。
ハウルは陸に上がれて、とても楽しそうだ。
草地を足の裏で踏み、その感触に感動している。
湖の中から、二人の男女が現れた。見ると、ハウルのお父さんとお母さんだ。今は二人とも人間の姿になっている。
「ほら、ハウル。皆さんにお礼言いなさい」
「ジャミンちゃん、気づいてくれてありがとうね」
両親に促され、ハウルはクレイたちにお礼を言った。
そして、両親をせがんで、ベーベクラスへと向かっていった。まだ、歩くのが不自由そうなハウルを、両親が助けようとするも、ハウルは自分で歩くと言って、よろよろしながらも歩いた。
「皆さん、今日は大切なことが学べましたね?海の中の様子、魚人達の事。そして、魔法が使い方によっては死を招くという事」
コッコメット先生が、授業の終わりに生徒たちに向かって言った。
「しかし、ハウル君の様子を見ても分かったと思います。魔法は使い方によっては世界を広げてくれます」
ゆっくりとではあるが、確実にベーベクラスへ歩いていくハウルを、クレイは見た。
他の子たちも見ていた。
「世界が広がるのは、とても楽しく、面白いことですよ。先生は皆さんにお勧めします。安全に、できるだけ正しい方法でやりましょう」
コッコメット先生は、そう言うと、にっこりと笑った。