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 風呂から上がったクレイは、静かになっていた。まるでさっきまでとは別人のように。

 「……おい、あれは大丈夫なのか?」

 「うーん、疲れてるんだとは思うんだけど……」

 あまりの様子の落差に、ステアとケビンも戸惑っている。メイヤーとタロルもだ。

 クレイはまるで糸が切れた凧のようだ。

 いつもなら、食事前には皿を出したり、コップを並べたり、クレイはあれこれ働こうとするのに、今日はそれも無い。

 椅子に腰かけ、ぼんやりとした顔をしている。やはり、顔が赤いし、目が潤んでいる。

 「クレイ、食欲あるか?」

 「……あんまり、無い」

 「そうか……よし、今日はもう寝ろ。ベッドにスープを持って行ってやるよ」

 ケビンがまた、クレイの額に手を当てて、そう言った。

 クレイは素直に頷く。

 椅子から立ち上がった時、クレイの体が微妙に震えた気がした。

 「?」

 クレイが、くの字に体を折る。

 苦し気なうめき声が聞こえたと思ったら、床に何かが落ちた。

 水っぽい何かだった。

 「クレイ!」

 ケビンの慌てた声と、ステアが丸いボウルを持って駆け寄ったのが見えた。

 クレイは相変わらず、身を折るようにしている。

 時々、振るえ、苦し気な声をあげ、そして、今度はボウルの中に何かが落ちる。

 つんとした異臭が鼻を突いた。

 それが「嘔吐」だという事はすぐにわかった。

 「よしよし、ここ捕まって。気持ち悪いの全部出しちまえ」

 ケビンがクレイの背中をさすって、そう言った。その声は明るく、まるで、なんてことも無いようだ。

 しかし、ケビンの顔は強張っているように見える。

 クレイは立っていられないのか、ケビンの腕に縋り付くようにして吐いている。

 「タオルを一枚持ってきてくれ」

 ケビンに頼まれ、タロルが動いた。

 見ると、いつのまにか父と母はメーラの傍にいた。

 母もメーラと同じく顔を強張らせ、クレイを見ている。父は汗をかいているように見える。

 メーラはこれまで「嘔吐」を経験したことが無い。一度、獣が飲みこんだ果物を吐きだしたのは見たことがあるが、それだけだ。

 その時はなんとも思わなかったのに、自分と同じ姿のクレイが吐いている姿は、言葉を失うほどの衝撃があった。

 「ああ、苦しそうね……」

 母がぽつりと呟く。

 その言葉には、何とかしてあげたいという気持ちがあった。

 しかし、何をすればいいのかわからない。

 部屋にはクレイが吐きだしたものから立ち昇る酸っぱい匂いが溢れていた。

 クレイは何を食べたのだろうか?

 なぜ、こんなにも酷い匂いがするのか?

 また、吐いた。

 苦しそうだ。

 あんなにも小さい人間が、苦しがる姿は身を凍らせる。

 クレイが何か呟いた。

 「謝らなくていい。お前は悪いことなんてしてないから」

 ケビンが優しい声でそう言った。

 クレイは「ごめん」と言ったようだ。

 涙を流している。

 (どうして謝るんだ。苦しんでるのはお前だろう?)

 メーラはクレイが「ごめん」と言ったことに腹が立った。


 吐き終えたクレイを、ケビンが部屋に連れて行った。ステアもついていった。

 「……窓を開けましょうか。掃除も……」

 母の言葉で、メーラは我に返った。

 父が魔法を使い、窓を全開にした。

 母が床に落ちた吐しゃ物を魔法で集め、「これはゴミ箱で良いわよね?」と呟き、外のゴミ箱へ捨てた。

 モップを水に濡らし、床を拭きあげる。

 汚れたボウルも洗い、乾かす。

 メーラも何かしようと頭では考えていたのだが、体が動かなかった。

 吐き終えた後の、ぐったりとしたクレイの様子が頭から離れない。さっきまで赤かった顔が、真っ青になっていた。

 「あ、ありがとうございます。掃除してくれたんですね」

 ケビンが戻って来て、綺麗になった床を見てそう言った。

 「いいのよ。クレイ君は?」

 「吐いてすっきりしたみたいです。今は泣いてますが、そのうち落ち着くでしょう」

 ケビンはそう言って微笑む。

 メーラはケビンに駆け寄り、腕をつかんだ。

 「クレイは死ぬのか?」

 そう聞くと、ケビンは吃驚したようにメーラを見た。

 父と母も、ケビンを見る。

 二人とも心配そうな顔をしている。

 ケビンはそんなメーラたちの様子に、ますます吃驚したようだ。

 「いや、死なないよ。ちょっと熱が出て、吐いちゃっただけだ。どうして死ぬなんて……」

 「私たち、ああいう様子を見たのは初めてなの」

 母の言葉に、父も頷く。

 ケビンはまた、びっくりした顔をする。

 「え?吐くのを見たことが無いってことですか?でも、子供はよく吐くでしょう?病気になったり、熱が出たら。大人だって……」

 「いいえ、私たちは吐かないの。絶対にないとは言わないけど……」

 「そ……ああ、そうか、食べるのが血液だから?固形物じゃないですもんね……」

 ケビンは「驚いたな……」と呟く。そして、ハッとしたように顔を上げる。

 「それじゃあ、結構ショックだったんじゃ……」

 「そうね、私足が震えているわ……」

 「私は汗が止まらないよ……」

 母と父がそう言った。

 メーラはいつの間にか握りしめていた拳を開く。手はじっとりと汗ばんでいた。

 「大丈夫、死なないよ」

 顔を上げると、ケビンが真剣な目で、そう言ってくれた。

 メーラの体から、力が少しだけ抜けた。

 「……そっか。わかった」

 メーラの頭を、ケビンが撫でた。

 いつもなら、子ども扱いされたと思って腹の立つ行為だったが、今夜だけはそれほど嫌ではなかった。

 

 その夜は、ウォルバートン先生が来てくれた。

 「まったく、今夜は忙しいねえ。他にも三人熱を出したよ。野球チームの子たちでね。汗をかいたまま着替えずに、体が冷えてしまったんだねえ」

 ウォルバートン先生は、そう苦笑しながらやって来た。

 メーラは蝙蝠の姿になり、クレイの寝室の窓から、ウォルバートン先生の診察の様子を盗み見た。

 直接部屋に行っても良かったのだが、なんとなくクレイと顔を合わせたくなかった。

 自分が、クレイの事を心配して、手に汗までかいたなんて、勘付かれるのも嫌だったのだ。

 ベッドに横たわるクレイの顔色は、ちゃんといつもの色に戻っていた。ぐったりしているのは変わらなかったが、時折笑顔を浮かべて、ウォルバートン先生と話をしているのを見ると、元気が戻りつつあるようだ。

 魔法を使って、中の会話を盗み聞く。

 「もう、気持ち悪くは無いね?」

 聴診器をしまいながら、ウォルバートン先生がクレイに聞く。

 「はい。すっきりしました」

 「うん、それは良い事だ。気持ち悪いのが残ったままだと、寝てる間に戻してしまって、それで窒息なんてこともあるからね」

 「なんと!?」

 悲鳴のような驚きの声を上げたのはステアだ。

 「そんな恐ろしいことが?ああ、なんてことだ……」

 ステアはぞっとしたように身震いする。

 メーラも同様だ。

 寝ている間に窒息の危険性があるなんて!

 熱を出した人間は、そんな恐ろしい状況で寝なければならないなんて!

 「私はもっと勉強しなければ!やはり、本からの知識だけではだめだ!もっと、病気の人間を間近で見る必要がある!」

 「何言ってんだよ。今夜はお前ちゃんと対処できたじゃないか。クレイが吐くとこ見ても、平気だっただろう?ボウル持ってきてくれたり、手伝ってくれたし」

 ケビンの言葉に、ステアは首を振る。

 「平気なもんか!背中は汗だらけだ!足だって震えてる!お前がいてくれなかったら、私はクレイの背中すらさすれていなかったぞ!」    

 (そうだったのか……)

 何もできなかったメーラとは違い、さすがは一足先に人間の世界に飛び込んだ師匠だと、尊敬してしまったのだが、内心はハラハラものだったようだ。

 「あ、やっぱりか?でも、人間の親だってそうだぞ。初めて子供が吐くと、どんな親でも大慌てだ。お前はよくやった方だよ」

 そう言って、ケビンはステアの背中をたたく。

 「師匠、ありがとうございます。ケビンも」

 クレイがそう言った。

 疲れているのか、今にも寝てしまいそうな顔だ。

 「ゆっくりお休み。きっと明日には熱も下がって、元気になっているよ」

 ウォルバートン先生は、そう言って帰っていった。

 ケビンとステアも、部屋の明かりを消して出て行った。

 クレイは二人が出て行くと、すぐに目を閉じ、眠りについたようだった。

 メーラはしばらく、窓からクレイの様子を眺めていた。

 ウォルバートン先生が言った、窒息の危険性という言葉が頭から離れなかったのだ。

 しかし、しばらく経つと、クレイは穏やかな寝息を立て始めた。

 苦しそうな表情は一切無い。

 そこへ、ステアが椅子と本を手に、部屋に入って来た。

 どうやら、今夜はクレイを見守るつもりらしい。

 (大丈夫だな)

 メーラは安心して、その場を離れた。


 次の日、廊下を歩く足音で目が覚めた。

 メーラはすぐに、人間の姿になり、着替えを済ませ、部屋を出る。

 キッチンに行くと、クレイが薪を竈にくべているところだった。

 「おい」

 「あれ?もう起きたの?早いね」

 クレイがメーラを見て、驚きに目を丸くする。

 「お前、熱は?」

 「もう下がったよ。学校にも行ける」

 クレイはにっこりと笑顔でそう言った。

 そして、少しバツの悪そうな顔をした。

 「あの、昨日はごめんね。吐いちゃって……」

 「……なんで謝るんだ?」

 「だって……汚いし……」

 「…………」

 確かに綺麗なものではない。

 苦しそうな姿は見ていられなかったし、驚いた。

 「お前らにとって、吐くってのは体が危険だって事なんだろう?」

 「え?ああ、そう、かな?」

 「だったら、人前で吐くのは問題ない。むしろ一人でいる方が危険だ。誰もそれに気づかなかったら、看病もできないじゃないか」

 「……ありがとう」

 「?どうして礼を言うんだ?」

 「だって……気にするなってことでしょう?」

 クレイは嬉しそうに微笑んでそう言った。

 


 クレイとメーラが朝食の準備をしていると、ケビンとステアが起きてきた。

 「クレイ!まったく、お前はもう元気になったのか?」

 ステアはクレイの顔を見ると、ほっとした様子で微笑んだ。

 ケビンはクレイの額に手を当てて、にっこりと笑う。

 「うん、熱は無いな。気分はどうだ?」

 「すっごく良いよ。お腹が減ってぺこぺこなんだ」

 「昨夜は何も食べてないし、早く寝たしな。ん?この臭いは……」

 テーブルには、ステアが作った納豆入りの藁が置かれている。竈では、今ちょうど白米が炊けている。

 「……納豆気に入ったのか?」

 「うん!すっごく美味しかった!また食べたかったんだ!」

 「ほ、本当か?しかし……」

 ステアは嬉しそうだったが、少し心配そうでもあった。

 「おい、クレイが吐いたのは納豆のせいじゃないって、ウォルバートン先生も言っていただろう?納豆が悪かったら、野球も無理だったよ」

 「そうですよ、師匠。納豆は健康に良い食べ物なんでしょう?俺、好きです」

 「うむ……お前が好きならば、良いのだが……今朝は食べ慣れたものにしないか?そうだ、私が納豆オムレツを作ってやろう。火が通っていれば安全のはずだ!」

 ステアがそう言って、フライパンを出した。

 「え?納豆オムレツ?オムレツに納豆混ぜるのか?」

 「そうだ。私のアレンジ料理その3だ。美味しいんだぞ~」

 ステアが卵を割るのを、ケビンが恐々といった様子で見ている。

 「まあ、クレイ君、元気になったのね。良かったわ」

 朝が苦手なメーラの両親も起きてきた。

 今日は珍しく、6人で朝食を取ることになるらしい。

 「おはよーございます!」

 キッチンの扉の外から、ロビンおじさんの声がした。二日連続で牛乳を届けてくれるとは珍しい!

 メーラは扉を開けて、元気よく挨拶を返した。

  


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