30
どうやら、お付きの人はいないようだ。
クレイの部屋へ向かう途中で、エーテはやっと理解した。
ここにいるのは、クレイと、その保護者二人。保護者はどちらもマーリークサークルの教師になる。とすれば、クレイに何かあった時には、簡単に相談ができるのだ。
(すごく、ラッキーじゃない?)
叔母が世話した、5人の子供たちは、寮生活もそうだが、魔界という環境そのものに慣れていないせいで、とても苦労していたようだ。慣れない生活にはストレスも溜まり、一時、寮の部屋から出られなくなった子もいたと聞いた。
周りに、人間の子を知る大人がいれば、それだけで、気持ちの助けになってくれるはずだ。
「ここで男子と女子に分かれます。一年生の部屋は三階です。階段が急なので、気を付けてくださいね」
クレイは、文句も言わず、急な階段をふうふう言いながら上ってくれた。
「け、結構危ないですね、この階段……」
ケビンが手すりを掴みながら、心配そうに言った。
「ほとんどの子は、使わずに済ませちゃいますからね。飾りみたいなもんなんです」
「ああ、そういうことか。妙に吹き抜けが大きいなとは思ったんだ」
階段のサイズにわりに、吹き抜けが広く取ってある。翼を持つ生徒たちが壁にぶつからないようにという設計なのだが、他の子たちも魔法を使って飛び上がってしまうので、結果的に良かったと思っている。
「クレイ君も飛んで上がるときは、ぶつからないように気を付けてね」
「え?飛ぶ?ええと……」
クレイはケビンとステアを見る。
「ここは、魔界だから、魔法は好きなだけ使いなさい。ただし、自分ができないとわかっている時は、使わない事」
「はい、師匠」
クレイは嬉しそうに返事をした。
「……人間の世界では、魔法は自由ではないのですか?」
エーテは気になって聞いてみる。
「ここと違って、魔力の薄い土地なので、簡単な魔法でも失敗してしまうことがあるんです。何より、クレイは魔法を覚えてまだ一年もたっていませんから、コントロールに不安もありました。しかし、もう良いでしょう」
「一年!?あらまあ、クレイ君はすごいのねえ」
たった一年で、あれだけ箒に乗りこなせるようになるには、相当の練習が必要だったはずだ。
しかも、マーリークサークルへの入学まで……
(将来が楽しみな子だわ……でも、ちょっと心配ねえ……)
いわゆる、魔法の天才という者は、時に、研究に没頭してしまって、周りが見えなくなることがあり……
その時、ちょうど三階へ到着したのだが、バタバタという足音が聞こえてきた。
同時に、腐乱臭のようなものが、漂ってくる。
「エーテ先生、ごめん!後でちゃんと片付けるから!!」
そう言って、お風呂場に駆け込んで行ったのは、おそらく4年生のマックだ。獣人の学生で、とても研究熱心な子なのだが……
マックが走って来たのであろう廊下を見ると、黒っぽい緑色をした、正体不明のどろどろとした液体が点々と落ちていた。
「もう!マック!寮の部屋で実験やっちゃダメって言ったでしょう!」
「実験じゃないんだよ。経過観察したい液体があって……でも、爆発しちゃった……」
「それもダメです!いったいアレはなんなの?毒物じゃないでしょうね?」
そこで、クレイの事を思いだした。
人体に影響のある液体だった場合、子供であるクレイは近づけない方が良い。
「クレイ君!少し離れて……」
振り返ると、クレイの姿は無く、ステアが興味津々に液体を観察しており、ケビンは鼻をつまんで、廊下にあった窓を開けていた。
ぱたぱたと軽い足音が聞こえ、クレイが廊下の向こうから走って来た。
手に箒とチリトリとバケツを持っている。廊下の奥にある、掃除用具置き場から持ってきてくれたのだろう。
「師匠!それ、絶対に染みになりますよ!早く取らないと!」
「まあ待て、クレイ。この緑のどろどろの正体が気になる。腐乱臭の匂いの他に、アザマサシの草の香りがする。あれが液状化しないはずなのだが……」
「あんまり臭いを嗅ぐなよ。気分悪くなるぞ。これから入学式なんだから」
ケビンが呆れたように言った。
クレイは、動かないステアの傍から離れ、廊下に散乱しているどろどろを箒とチリトリでかき集め始めた。
「あー!やっぱり、もう染みてる!ケビン!バケツに水汲んできて!ここ雑巾で拭いて!」
「はいはい」
ケビンはバケツを手に取ると、「そこ風呂ってことは、水道ありますよね?」とエーテに聞いてきた。
「あ、はい。く、クレイ君、私がやるわ。せっかくの新しいローブが汚れちゃう」
エーテはクレイから箒とチリトリを受け取り、魔法を使ってどろどろを集めた。ステアが見入っていたどろどろも、容赦なく集める。
ケビンがバケツに水を汲んできてくれたので、雑巾とエーテ特製洗剤を使って、床を擦る。
床には少しだけ染みが残った。
「これは、マックに綺麗にさせます。これも勉強。良いわね?マック!」
風呂場から、「はあい……」と元気のない返事が来た。「「やばいよ、エーテ先生、これ、落ちない……」と泣きそうな声も聞こえてくる。どうやら、体毛に付いた緑色が洗っても落ちないようだ。
そこそこ綺麗になった廊下を見て、エーテは掃除を率先してやってくれたクレイを見た。
(この子は、叔母さんが世話した人間の子供たちとは違うみたい……)
汚れた廊下を見て、一番に掃除道具を持ってきてくれた。クレイは汚れはすぐにふき取らなければ、跡が残る事を知っている。
普段から、掃除をしている者の思考だ。
「クレイ君、これから魔界で生活することになるけど、何か気になることは無い?」
エーテが聞くと、クレイはすぐに口を開いた。ずっと聞きたかったことがあるようだ。
「この寮に、森の魔物が入ってきたりしますか?」
「……小さな虫、くらいかな。危険な生き物は入って来ないから、大丈夫よ。寮はベーベクラスの次に安全な場所なの」
エーテがそう言うと、クレイはほっとしたように微笑んだ。
素直で、賢そうな顔をしている。
エーテは、肩の荷が下りたかのように、心と体が軽くなるのを感じた。
「それじゃあ、クレイ君の部屋に案内するわ。こっちよ」
「はい!」
クレイと手をつなぎ、廊下を歩く。
今年もきっと楽しくなる。
エーテはそう確信して、嬉しくなった。